3回目(1)

 気がつくと、僕はまた穏やかな笑顔の父さんを見送っていた。

 隣にはハチと母さん。


 前回は引き止めたら死んでしまった。なら――


「……導。一緒に遠くに行かない?」

「うん。僕、お母さんと一緒に行くよ」

「よし、じゃあ一緒に行こう!」


 母さんは僕を優しく、でも力強く抱きしめた。

 懐かしい柑橘の香りがした。


 母さんは荷物をまとめ、僕を連れて家を出た。

 行き先はやはり神社の本殿。

 母さんは父さんから逃げたいので、この町から父さんを出さないでほしいと願った。


「んふふ。いいよ。最近あんた達のおかげで退屈しないから、これはオマケ」


 桂花様が指を鳴らす。


「町を出るまで声を出さなければ、姿を見えなくしてやったよ。あと茉の殺し方なんだが……」


 桂花様は僕を一瞥した。


「ふむ。茉の願いでな、四つ葉にしか言えない。まぁ今度言うよ」


 ――殺し方? 父さんは普通には殺せない?

 しかも桂花様の言い方……本来はこの場で伝えるはずだった?

 父さんは母さんだけに自分の殺し方を教えたかった?

 母さんは知りながら、殺さなかった……?


 疑問は残るが、今は町を出るのが先だ。

 僕らは声を出さずに頭を下げ、神社を後にした。

 ハチは着いてきてくれなかった。


 神社の敷地を出た時、遠くに父さんの姿があった。

 こちらから見えるということは、父さんからも見えているはず……。

 母さんの顔から血の気が引く。僕は咄嗟に母さんの裾をつかみ、茂みに隠れさせた。

 母さんの口を押さえ、父さんが通り過ぎるのを待つ。


 父さんは神社に入っていった。

 僕は母さんを立たせ、町の外へと急いだ。

 途中、町人に出会ったが、誰も僕らに気づかなかった。


 町の出口に立ち、人影がないのを確かめ、外へ出た瞬間、駆け出した。


 ――次の町に昼につけば一息つき、その日のうちに発つ。

 夜についたら宿に一泊し、翌朝出る。

 金が尽きれば皿洗いなどで稼ぎ、また次の町へ。


 いくつ目の町だっただろう。母さんは逃げ続けることに疲れたらしく、しばらくある町に滞在することになった。

 母さんの意思が一番大事だから、僕も従った。


 宿屋で働かせてほしいと頼むと、ちょうど料理人がいなくなったらしく、雇ってもらえた。


 宿屋には僕と同じくらいの子がいて、一緒に店を手伝ったり遊んだりした。

 でも――こんなに呑気にしていていいのか?


 五歳で町を抜け出し、数ヶ月でここに着いた。もう半年が経つ。

 まだ六歳にも満たない。少なくとも、あの惨劇が起こった十一歳までは気を抜けない。


 そんなことを考えていたら、宿屋の主人が母さんに告白し、玉砕していた。

 母さんは仕事を辞めようかと思ったが、止められていた。


 そして――僕が七歳になった頃、母さんはその告白を受け入れた。


「……え? なんで?」

「導くん、ごめん。でも僕も四つ葉さんを好きになってしまったんだ」

「僕が困惑してるのは、おじさんのせいじゃなくて母さんのせいです」

「導……ごめんね。でも、この人といると安心するの」

「安心……? まだ安心できる状況じゃないよね?」

「え? もう二年くらい経つのよ?」

「あの人が母さんをそんな簡単に諦めるわけないだろ?!」


 初めて母さんと喧嘩をした。母さんの顔は真っ青だった。


「……ごめん。僕はここにいない方がいいよね。この町でどうにか生きていくから」


 出ていこうとすると、おじさんが小さな僕でも働けるところを紹介してくれると言った。

 ――本当に、いい人なんだな。


「ごめんなさい……ありがとうございます」

「導くんは本当に七歳なのかい? 随分頭がいいね」


 ドキリとした。

 十一年と今回で二年生きているので、精神的には十三歳だ。

 いろいろ探られるのも面倒だから、年相応のふりが必要だと思った。


 僕は宿屋を出て、茶屋で皿洗いや配膳をしながら、母さんの様子を見に行っていた。

 母さんのお腹は大きくなっていた。


 僕が八歳の頃、弟が生まれた。


 ――どうしてそんなに幸せそうなんだろう。

 最初の時も、僕と父さんを忘れて誰かとこんなに幸せそうだったのか?

 僕はずっと母さんに会いたかったのに。母さんは……


 もう、分からなかった。

 だから直接聞くことにした。


「母さん」

「あ、導……」

「母さんは、なんで父さんから逃げたの? それとも僕が何かした?」

「違うの、導。あなたは悪くないわ」

「じゃあ、父さんが悪いの?」

「……あなたが三歳か四歳の時。散歩に行ったの……」


 母さんはぽつりぽつりと語り始めた。

 友人の家に行ったこと。

 友人が迫害を受けた痕跡があったこと。

 迫害の理由は恐らく母さんだということ。

 そして、それを仕組んだのは父さんか、父さんを慮った町人。


「それからは、あの町全体が怖くて……怖くてたまらなかったの」


 母さんは震える声で語り終えた。

 僕の胸に鉛のような重さが沈む。


「それだけ?」


 絞り出すように問うと、母さんはびくりと肩を震わせた。


「え……?」

「ただ怖かった。それだけ? 僕を置いて、父さんの執着から逃げた理由がそれだけ? そして、すぐに別の男に縋って、新しい家庭を築くの?」


 僕の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

 母さんの顔から血の気が引いていく。


「だって……だってどうすればよかったの? 私は悪くない……私は、ただ安心したくて……」

「安心?」


 僕は笑った。乾いた笑いだった。


「父さんがそう簡単に諦めるわけない。僕がどれだけ止めても耳を貸さず、ただ目の前の『安心』に飛びついただけだ。おじさんに害が及ぶかもしれないなんて、考えなかったんだろ?」


 母さんの目に涙が浮かんでいた。

 けれど、僕の心はもう動かなかった。


 僕がずっと知りたかったのは、『母さんは何を思っていたのか』だった。


 なぜ僕を置いて逃げたのか。

 なぜ父さんの危険を顧みず、新しい依存先に縋ったのか。


 答えは、今ここにある。


 母さんは、自分で考え、困難を乗り越えることを選ばなかった。

 ただ誰かに守られる「安心」を求め、依存を繰り返す愚かな人だった。

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