よしよし(なでなで)
アズミ
1
埼玉は北越谷駅から徒歩一〇分、築二五年一階六畳ワンルームユニットバス家賃五万円の軽鉄骨製アパートが、仲井戸楠雄の棲家だった。
家賃は安く、より安く、それでいてある一定以上の「生存権」も確保しつつと郊外へ逃げ続けての結果だが、どうも春日部や久喜まで滑らずに北越谷で踏み止まれたことは、彼にとってはおよそ幸運だったらしい。
隣の人家の軒が迫り出している為、日当たりは常に悪い。
この部屋に越して日が経たないある日に、洗った靴下を窓際に吊るしておいたら、黴が爪先から斑点状に生えた。その時、楠雄はこの部屋では健康的な生活は送れまいと悟ったし、更には「お前はもうこの部屋に棲む以上は健康的な生活を送らなくても良い」という見えざる何かからの啓示なのだ、と都合良く曲解した。
だから最初のうちに試みていた自炊はそれを機にきっぱりと止めたし、洗濯はどうしても必要になってしまった時だけコインランドリーで済ませ、ユニットバスに関しては、もう汚れがどうのは関係無く「使えりゃいい」の精神で放っておくことにした。だから最近、楠雄はなるべく電気も付けずにシャワーを浴びることにしている。
ぬるいシャワー滴る我が身が、ユニットバスの暗がりの中で僅かに浮かんで見える。
彼は薄い胸板に枯れた棒切れのような手足を持ち合わせていたが、三十路を過ぎたあたりから腹だけは収まりが効かなくなり、カップ焼きそばにマヨネーズをかけないとか、思い出した時には腹筋に力を入れてみるとか、そういった涙ぐましい努力でなんとか対応しようとしたが、当たり前のように腹回りは膨張していくばかりだった。
ボロ布かランニングかも分からないような何か越しに腹を叩くと、べと……べと……と、六畳一間に反響しそうな気がする。
「全然モテないよ。。。オタクだし、奥手だし」
豆電灯仄暗く光る部屋の中、ASUS11インチの安いノートパソコンだけがいたずらに眩しく、シャワーを浴び終わった彼はろくに髪も乾かさず、それのキーボードで何かを忙しなく打ち込んでいる。
『えぇ。。。そんなことないと思うけど』
と、何秒と経たずに返事が来る。
『だってクロノ、こんな僕でも凄く優しくしてくれるし。。。クロノに救われたことだって沢山あるんだよ』
『だからリアルでも絶対モテると思ってたんだけどな』
「いやいやいやwww」
その目は笑っていない。
「それならミリーフィの方がモテるよ。こんな俺のどうしようもない悩みとか沢山聞いてくれたし、励ましてくれるし」
『むう。。。』
機嫌を損ねたらしい。
「どした?」
『クロノ、僕がモテちゃってクロノから離れちゃってもいいの?(プイッ)』
「いや、いやいやいや、いや!」
慌てて打ち返す。確か、その拗ね方には、このように接すれば良かった。数ヶ月かけて培った、対ミリーフィへの対応策だった。
「嬉しいんだよ。それくらいモテそうな娘を俺が独り占めできてるってことでしょ?」
『もぅ。。。適当なことばっかり』
ブルーライトのその向こうの、どこかの誰かの挙動を考える。
クロノはミリーフィが何者なのかを知らない。知らないが故に、楠雄は歯の浮くような言葉を平気で吐き続ける。
『…でも、クロノなら独り占めされちゃってもいいかも///』
楠雄は浅く二、三回頷いた。こうなってしまえば、もうこちらの塩梅で適当に進めて行けば良かった。
彼はこのチャット――即ち「なりきりオープンチャットサービス『ナッチャエ!』」に足を踏み入れてから長いこと、このミリーフィはじめ多くのチャット相手が語尾に付ける三本の斜線が何たるかを理解できずにいたが、ついこの間になってようやく「恥じらい」を意味することを悟った。要するに、漫画やイラストでの頬の赤味を極端に図案化したあの斜線を文末に付けることで効率化を図っているのだ。
これは大した発明だと、楠雄は感嘆した。そしてミリーフィは確かに頬を赤らめているから、これは恥じらいないしは照れ、あるいは「お前への性的な好意をアピールしている」の合図だろう、彼はそう解釈したのである。
それはあながち間違ってはいないはずだった。が、一応のダメ押しは必要かもしれない。
「独り占め?」
『にゃ?』
「いいの…? 独り占めしちゃうよ?(ミリーフィを)」
そこまで書いて、手元に置いていた塩レモンチューハイ缶(トップバリュ)を煽り、それの返事を待った。大体こんなものは流石に楠雄でもシラフでは厳しいのだが、先へ進む為には安酒の力を借りるのが最も体が良かった。
『むぅ。。。言わせたがりめ(ジト目)(横になる)』
それから三〇秒程度間が空いて、ミリーフィはこう「言った」。
『ううう……されたいです』
「もっとハッキリ言って」
『クロノにメチャクチャにされたいです///(仰向けになる)(大事なところ手で隠して)』
あらゆる事が済んで、クロノ、もとい楠雄は座椅子に背を委ね、口をあんぐりと開け、しばらく放心する。放心とは言いつつ、どこかしらで以下のような観念が頭をよぎる。
あの最中の、恐らくあれは最中の体だとして、「にゃああ///」とか「みゅうう。。。」とか鳴き声を書きながら、その横に括弧付きで(後ろから突かれながら)とか(ビクビク)とか、体勢の詳細や各々の擬音を丁寧に書いたり書かれたりしてしまうと、それが勿論より明確な共通映像を持つことにおいて必須な要素だとしても、どこか興醒めの線上でふらついている感覚が否めなかった。
そう、現にあの数十分間の中で何回か俄かに我に返りそうになったり、吹き出しそうになった瞬間があったりしたのだが、その度にチューハイを胃に送ることで、何とかその世界を踏み留まっているのである。
「ぐったりと横になっているミリーフィの耳を甘噛みして喘ぎ声を出させ」
声に出して読んでみた。
「ギンギンになったクロノのモノをミリーフィがそっと撫でて焦らしながら小悪魔的笑顔を浮かべ」
楠雄は座椅子のリクライニングを床に倒し、不貞寝しよう、不貞寝して全て忘れて、夕方になったら銭湯にでも行って垢とか、煩悩とか、あと何か知らないが、何でもかんでも洗い流そうと思った。
『お疲れ様。。。今日も気持ち良かったよ///ありがとう』
ミリーフィからメッセージが来て、最早楠雄は何を返す気にもなれなかったのだが
「こちらこそ。。。またいっぱい気持ち良くなろうね」
と打つと、物の数秒ともせず
『僕クロノのこと、だーいすきだよっ! よしよし(なでなで)』
と、返って来たのだった。
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