外-終 清至の夜明け

「結婚式が六月で良かったわ。」


 軍服の礼装の裾をつまみながら、時子が笑う。


「なぜ?」


 襟を整えていた清至が、鏡越しにたずねる。


「涼しい素材って言ったって、濃い色は暑苦しいもの……略装の白い夏衣ならともかく、ねぇ。」


 二人は、軍の礼装を最上の盛装と定め、婚礼の儀には軍服を選んだ。

 その選択に、ただひとり時子の母だけが、娘に白無垢打掛を着せられぬことを、最後まで口惜しがっていた。



 六月吉日、中野の斎部邸にて、清至と時子の婚礼の儀が執り行われた。


 清至にも時子にも、兄弟姉妹はいない。

 婚礼の儀を見届けたのは、互いの両親のみであった。


 士官同士の婚姻ゆえ、当然ながら陸軍大臣の許可を要したが、

 異能特務局員としての特殊な事情も考慮され、先般の叙勲が後押しとなって、許可は速やかに下りた。


――どうせ、官舎で軍人として暮らすのだから。


 時子はそう言って、花嫁道具を揃えなかった。


 日没後、ランプの灯の下、二人は、三々九度の杯を交わす。


 時子が最後の一口を含み、それを清至に返したとき――

 不意に、彼女の身から陰の気があふれ出した。


「うっ……」


 参列していた清至の母・りよが、ぐらりと身を傾け、畳に手をつく。


「どうしたっ」


 清孝が慌てて彼女を支えると、りよは静かに微笑み、首を横に振った。


「大丈夫――。いよいよ、代替わりです」



 清至は、最後の一口を飲み干し、そっと杯を置いた。


「――時子。これで名実ともに、俺たちは夫婦だ。

 これからも、公私を問わず、互いに支え合ってゆこう――」


「ええ、清至。――不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 時子は三つ指をついて、深く頭を垂れる。


「……自分のことを“不束”だなんて、思っていないだろう」


 清至の笑いをかみ殺したような声に、

 時子も顔だけを上げて、にやりと笑った。


「ふふ。――昔から、この台詞を言ってみたかったのよ」




 やがて、祝いの膳が整い、両家の縁者を交えての宴となった。


 酒には強いが酔いの回るのも早い時子の父・貞一は、斎部の縁者にして海軍で“不沈艦”の異名をとる軍曹と相見え、

 娘が嫁に行ってしまうと泣きながら、二人で仲良く酒樽を開けた。


 清孝は、ちびりちびりと杯を傾けながらも、終始、妻のりよを気遣っていた。


 華やかな宴は夜が更けても続き、やがて斎部邸の女中頭が、時子に「床の支度が整いました」と告げに来た。


「では、私はお先に――」


 時子は清至にそっと耳打ちし、静かに席を立つ。


 それからほどなくして、今度は清至の名が呼ばれた。



 宴会の歓声は賑やかに、寝所へと向かう廊下にも、遠く笑い声が聞こえていた。

 女中頭の提灯ちょうちんに導かれながら、その声がしだいに遠ざかってゆくのに耳を傾け、気を紛らわす。


 ――もう、何度も肌を重ねてきた。

 けれど今夜は、本当の“初夜”。

 身体を繋げば、彼女は妻神の依り代として覚醒する。


 杯を交わしたとき、時子の陰の気がいっそう強くなった。

 おそらく、儀礼として婚姻を結ぶことも、継承のためには欠かせぬ定めだったのだろう。


 ――だから、自分の陽の気も、明らかに高まっている。


 そんな考えを巡らせているうちに、寝所の前へとたどり着いた。

 行燈あんどんのほのかな灯が、ぼんやりと障子を照らし出している。


「時子――俺だ」


 何と声をかければよいか、一瞬ためらい、そっと障子を開ける。


「清至――」


 布団の脇に、白い寝間着のひとえに着替えた時子が、脚を崩して座っていた。

 もう、何度も――それこそ台湾出征の折から、二人は片時も離れずにいたはずなのに。


 その夜、清至の目には、時子がまるで初めて出会った女のように、艶めかしく映ったのだった。


 彼女の傍らに膝をつき、声もなくその身を抱きしめる。

 時子もまた、彼の背にそっと腕を回した。


 口づけを交わしながら、そっと布団へと横たえると、

 彼女は嬉しげに目を閉じた。


 行燈の揺れるほの明かりに照らされた部屋は、

 熱と衣擦れの気配に満たされ、

 やがて――影はひとつに溶けていった。



 +++++



「時子……どうだ、一夜明けて、何か変わったか?」


 シャツに袖を通しながら、清至が何気ない口調を装ってたずねる。


「うん。なんだか、気が安定した……って実感があるの。

 実はね、斎部の妻神――美都香比売みとのかびめに、夢で会ったのよ。

 前にりよさまが“妻神たち”っておっしゃっていたでしょう? その理由も、分かった気がするの。」


 時子は夏衣の白いスカートを払いながら、穏やかに答えた。


「“妻神たち”?」


「ええ――夢にね、歴代の依り代たちが集まっていたの。

 一柱の女神が現れて言うの。『彼女らは妻神で、妻神は彼女ら。

 私も彼女らであり、彼女らもまた私――』って。」


 時子の声は、どこか遠くを見つめるようで、

 清至はその響きに引き込まれ、ふと息を呑んだ。


「……なんだか、謎かけみたいだな。」


「そうね……」



 やがて支度が整い、昨日の宴会場をのぞいてみると――

 座布団の並べられた一角に、貞一が泥のように眠っており、

 その傍らで、時子の母・市が恥ずかしそうに眉を下げて座っていた。


「清至さん、時子さん。お加減はいかが?」


 背後から、りよの穏やかな声がかかる。

 振り向けば、清孝に手を取られたりよが、にこやかに微笑んでいた。


「――いいみたいです」


 清至は、自分の身体の内側をそっと確かめるようにしてから、母に向かってうなずいた。


「それは良うございました。

 私たちも今朝目覚めましたら、すっかり神威が失せておりまして――

 どうやら無事に、継承が成ったようですね。」


「これからは、君たちの時代だ。

 我々は徐々に公務から身を引き、折を見て退役しようと思う。」


 清孝は、りよの肩をそっと抱き寄せながら、

 嬉しそうに、けれどもどこか寂しげに、儚い微笑を浮かべていた。


 斎部清孝――一時代を築いた英雄のその表情に、

 清至と時子は胸の奥を締めつけられるような思いがした。


 おのずと神妙な面持ちとなり、

 やがて、ゆっくりと敬礼した。



 朝陽が垣根を越え、座敷へと差し込んでくる。

 その光は、静かに――新たな夫婦神を照らし出していた。



 了

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軍服の君と三年間 ―異能士官学校恋愛譚― じょーもん @jomon619

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