外-五 時子の春
卒業式から間もない吉日の朝、時子は清至と連れ立って、麹町の川村邸を訪れていた。
目的は結納である。
のちほど清至の両親も、そろって陸軍官舎から参る手筈となっていた。
川村家はもと薩麻藩士の家柄で、現当主・川村貞一は、元服間もなく幕末の動乱に身を投じ、戊辰戦争に従軍したのち、海軍将校として仕えている。
「すぐに結婚という理屈は分かりますけれど、結納もなしに――などと、川村家としては到底承服できません」
そう主張したのは、時子の母・市であった。彼女もまた、厳格な武家の出である。
「こちらは、大切なお嬢さんを頂く身。すべて、そちらのご意向に従います」
そう頭を下げたのは、清至の父・斎部清孝であった。
一方、父・貞一は「家のことは妻に任せている」とだけ言い、市の主張を全面的に支持した。
斎部家では、薩麻藩出身の知己を頼り、薩麻の結納の作法をあちこち尋ねて回った。
東京で生まれ、東京で育った時子も、その土地の風習には疎かった。
「ふつうなら、結納の前日くらい、娘を家に帰してほしいのだけれどね」
貞一が茶をすすりながら、穏やかな笑みの下にわずかな険を忍ばせて言う。
清至は、斎部の両親を待つ間、座敷に通されて貞一と差し向かいになっており、
「申し訳ありません」と頭を下げるよりほかなかった。
「もう、お父さんったら。――前にも言ったけれど、私がお願いして、中野の家に置いてもらっているのよ?
清至と離れると、身体がつらくなるのは私のほうなんだから」
横合いから口を挟んだ時子に、貞一は少し拗ねたように視線を落とす。
「しかしな……時子がそんな身体になったのも、もとはと言えばこの男のせいで――」
「ええ、でもそのおかげで、桂川宮殿下も、お父さんの元上司の橋口総督も、みんなまとめて呪詛から守れたじゃない。
おかげで異例の叙勲は間違いなし。出世も、二人で確約されたようなものよ」
「娘の出世は嬉しいが――橋口閣下が『時子をくれ』などと、ふざけたことを言うし……ああ、素直に喜べん!」
貞一は、ドンと音を立てて湯呑を卓に置くと、今度ははっきりと不機嫌をあらわにし、清至を睨めつけた。
「台湾から無事に戻ったら認める、と確かに言った。言ったが――この状況を『無事』と呼んでよいものか? なあ、清至くん!」
「……俺からは、時子さんをくださいと、お願いするよりほか……」
清至は歯切れ悪く、言い淀むしかなかった。
実のところ、台湾での時子の負傷と心の傷については、父・貞一には一切伏せられていた。
今も肩には、楊に刺された傷痕が残り、戦場での記憶にうなされる夜もある。
けれど――清至なしではもはや生きていけぬ身体となった時子にとって、その事実を告げるのは、ただ事をこじらせるばかりであった。
二人は、あらかじめ口裏を合わせ、黙して語らぬことを選んでいたのである。
やがて玄関の方が騒がしくなり、清至の両親が到着したと、手伝いのばあやが告げた。
まもなく座敷に通されたのは、陸軍の礼装に身を固めた清孝とりよである。
「まあまあ……こんなにたくさん陸軍の将校さんがうちにいるなんて、何だか変な気がしますねぇ」
全員が軍装のまま並ぶなか、ただひとり着物を着た市が、おかしそうに笑った。
やがて、斎部家の奉公人たちの手によって、七品目の結納品が運び込まれ、
その最後に、立派な鯛が一尾と、一斗樽が据えられた。
「薩麻の方では、鯛と酒を持参すると聞きまして――神津毛の酒ですが、お納めください」
清孝が恭しく頭を下げると、貞一の目の奥がきらりと光る。
「おや、これは……伝説の銘酒、『
将軍家にも献上され、宮内庁も御用達とか――」
「さすが、お目が高い。蔵元が昔からの知り合いでしてね。事情を話しましたら、ぜひにも川村閣下にご賞味いただきたいと――とっておきを分けてくれました」
「それはそれは……」
貞一の口端に、思わず笑みが浮かぶ。
――彼は正しく海の男であった。女は妻一筋だったが、酒にはどうにも目がなかった。
「斎部閣下は、いける口ですかな?」
すっかり機嫌をよくした貞一が、ほくほくと清孝に視線を向ける。
「ええ、そこそこには」
清孝がにこやかに答えると、そのやり取りにため息をついたのは女衆だった。
「もう、お父さんったら! お酒を前にしたら、いっつもこうなんだから!
まずは結納! 忘れないでよねっ!」
時子がぷりぷりと怒ると、貞一は「すまんすまん」と頭を掻いた。
やがて清孝が「改めまして――」と場を引き締め、結納の口上を述べた。
座敷から望む庭の木々には、うぐいすがとまり、柔らかな声でさえずっている。
光は障子越しにあふれ、室内いっぱいに春が満ちていた。
うららかな春の日であった。
なお、その夜まで呑み明かし、若き日には「一斗さん」、艦長就任後には「酒仙艦長」の名をほしいままにした貞一の前で、
清孝が撃沈したのは――また、別の話である。
+++++
「台湾征討戦において、長期にわたり司令部を護持し、
橋口台湾総督、桂川宮靖久親王、雅延王殿下、山本第二師団長ら中枢の諸将を
異国呪詛の攻撃より防御せしむ。
また、敵異能隊長・楊宜辰の襲撃に際し、速やかに危機を察知、
これを清至特務少尉と共に撃退し、討伐の端緒を開く。
その功、実に大なり。」
陸軍省大会議室内に、今上陛下の御声が響いた。
いよいよ少尉として出仕し始め、生活にも慣れた五月――。
台湾征討に従軍した異能特務局員らに対し、叙勲が執り行われていた。
その中でも、司令部を守り続けた川村時子、そしてそれを支えた斎部清至の働きは、
桂川宮より今上陛下へと熱をもって奏上され、感銘を受けた陛下みずからの手で叙勲を賜うという、
異例の栄誉を迎えていた。
陛下の御声が途絶えると、場内は深い沈黙に包まれた。
一瞬ののち、侍従が静かに前へ進み出る。
陛下は御座を離れ、壇上の中央にお立ちになる。
そのお手に、勲章の載った銀盆が捧げられた。
清至と時子は、名を呼ばれて前へ進み出る。
白手袋の手を揃えて、深く一礼した。
陛下は勲章を一つ取り、清至の胸に、続いて時子の胸にお留めになる。
金具のかすかな音が響き、光が静かに揺れた。
陛下はわずかに頷かれた。
その頷きが、すべての言葉に代わるものであった。
「公式の場で『川村時子』って呼ばれるのも――これが最後になるのかなぁ」
控室に下がった時子は、肩の力を抜き、ため息とともに呟いた。
「どうだろうな。台湾でのお前の活躍が、今度、尋常小学校の読本に載るって話を耳にしたが――」
清至は勲章を指先で弄びながら、口の端を上げる。
「『川村時子』は、これからも健在やもしれんぞ?」
「なにそれ、私は聞いてないけど?」
「『宮さまを守った女こうほせい』――楊と勇敢に戦った話も載るらしい」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
時子はハッと気づき、顔を青ざめさせた。
「楊のくだりが入るなら、私が怪我したことも書かれるじゃない!
父さんに知られたら、絶対まずいってば!」
「あ――まあ、掲載する上での演出だって言えば、何とかなるんじゃないか?」
清至は少し考えてから言い、時子のそばへ歩み寄る。
「それに、読本が採用される頃には――」
彼はそっと笑い、時子の肩に手を置いた。
「おまえはもう、俺の妻。『斎部時子』に変わっている。
義父殿も、もう時子を取り戻せやしないさ。」
「そっか……」
時子は清至の胸に身をあずけ、ほっと息を吐いた。
「もう、来月には結婚だものね……『斎部 時子』かぁ」
彼の軍服の金ボタンに指をそっと触れながら、
「ふふ……なんだか、くすぐったいなぁ……」
「時子……」
清至は彼女の頬にかかった髪をすくい上げ、そっと顔を近づけた。
「――口づけても、いいか?」
息が唇にかかるほどの距離で、是非を問う。
そんな彼に、時子は少し笑って、自分から唇を重ねた。
「読本に載るような品行方正な将校さんが、陸軍省内でこんなことしていいんですか?」
唇が離れると、時子が茶化すように笑う。
「俺も……載るのか?」
「載るでしょう。載らなきゃ、私が抗議するわ。」
「それは――困ったな……」
清至は肩をすくめ、唇の端を上げた。
「でも、残念ながら俺は、品行方正――ではない将校だ。」
彼が笑いながら、もう一度、そっと唇を重ねる。
結婚まで、あと一ヶ月と少し。
二人は、恋人として過ごす最後の時間を静かに楽しんでいた。
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