外-四 絢子の不在

 明治二十八年も師走のはじめ。

 友の帰還を首を長くして待っていた妙子のもとに、一通の封書が届いた。


 差出人は――後西院絢子。


 消印は東京。封は検閲のためにいったん開けられていたが、内容に問題はなかったらしく、そのまま彼女の手元に届いた。


 中には、一筆箋が一枚。


 内容は、元気でいること。

 そして、卒業式には出るつもりだということ。


 たった数行――それだけだった。


 どこにいるのかは書かれていない。

 けれど、消印が正しいのなら、もう内地に帰っているのだと推測できた。


 ――絢子……どこにいるの?

 何があったの?

 やっぱり……雅延王殿下を、選んだの……?


 妙子のもとにも、桂川宮靖久親王に先駆けて、共に出征していた息子・雅延王がすでに内地へ戻ったという報せが届いていた。

 しかし、その一行に絢子が加わっていたかどうかまでは、わからない。


 なんとなく、手紙のことは海野や森本に話す気になれなかった。

 それ以来、十二月に入ってからは特に、絢子の名を意識して避けるようになっていた。


 けれども、じきに妙子のもとへも噂が届きはじめた。


「なぁ、渡辺。後西院、宮内庁にいるって話だぞ」

「いや、神祇省だったかな。今後は神官として出仕するとか」


 講堂の噂話は、嫌でも彼女の耳に入る。


「えーっ、それ、確かな筋か? なんか嘘っぽいぞ」


「うん、嘘。――本当は、桂川宮家にいるらしいって」


「ほんと?」

「さぁ?」


 面白そうに、冗談めかして笑ったのは森本だった。

 その声だけが、妙子の耳にいつまでも残った。



 +++++



「なぁ、妙子。このまま後西院が帰ってこなかったら、士官後はどうするんだ?」


 六畳の小さな畳の部屋。

 外から見えぬよう障子を閉め、海野と妙子は肩を触れ合わせて座り、互いの重みをそっと預け合っていた。


 二月の日曜日。

 別々に外出届を出し、秘密の隠れ家で逢瀬を重ねる。

 そこは、妙子の実家が管理する貸家の空室で、付き合い始めてから幾度となく使ってきた場所だった。


「――考えたくないよ」


 抱えていた膝を胸にきゅっと引き寄せ、妙子はそのまま顔をうずめた。


「でも、森本によれば、後西院は――」


「だから――考えたくないんだってば。

 絢子だって、別にカメラートを解消するとは言ってきてないんだし……。

 独りぼっちで、これからの長い士官生活を過ごしていくなんて、想像したくない」


 顔を上げないままの妙子に、海野はそっと肩へ手を回した。


「独りでいる必要は、ないんじゃないか?

 例えば――その、俺と一緒にいる、とか」


 海野は少し頬を染め、照れたように笑う。


「無理よ。幸昌には森本がいるじゃない。

 それに、まだ絢子が帰ってこないって決まったわけじゃないんだから……。

 縁起でもないこと、言わないで」


 涙声の妙子に完全に拒絶され、海野は口を閉ざした。

 そして、そっと彼女の髪に口づけを落とす。


「……わかったよ。じゃあ、話題を変えるけど――あの件、考えてくれたか?」


「――婚約の件?」


 妙子が顔をそっと上げる。

 本当に泣いていたのだ。目元が赤く染まっている。


「ああ……」


 海野は彼女の目尻をそっとぬぐう。


 兄が跡継ぎの座を降り、代わりに海野が家を継ぐことになった。

 海野がそう妙子に告げたのは、二人が付き合いはじめて間もない頃だった。


 その後の親族会議で、海野は一族の重鎮たちから、すぐに婚約者を定めるよう迫られた。

 兄が婿養子に入るという衝撃的な結末をたどったせいで、「今度こそ幸昌まで取られてはならぬ」と、親族たちが焦った結果だった。


「正直、急すぎて――。

 本当は、中尉に昇進するまでは“お付き合いの期間”にしたいって思ってるんだけど……。

 でも、それじゃあ幸昌が、長老たちに勝手にお嫁さんを決められちゃうんだよね?」


「そうだな」


 妙子は、彼に頬を撫でられながら、その手にそっと頬ずりし、目を細めた。


「兄さんは二人もいるから、私はお嫁に行っても構わないんだけど――。

 でも、海野家って由緒正しい士族の家柄でしょ?

 平民の私に、奥さんなんて務まるかな……?」


「別に、身分は関係ないさ。

 士族や平民の前に、俺たちは対等な陸軍将校じゃないか。

 それに、結婚したからといって、普通の女みたいに家に入るわけでもない。

 海野の親戚筋には、女でも下士官を務めている者が何人かいるし、そもそも武を重んじる家風だ。

 武芸に秀でた女は、むしろ歓迎されるんだよ」


 海野は、明るい声で彼女を励ました。


「――そうかあ……。なら安心だけど……。

 卒業してすぐに婚約したら、『在学中から?!』って噂になっちゃうね?」


 くすりと笑う妙子。

 ようやく、その顔に笑みが戻った。


「それも大丈夫だろう。

 俺たちの前に、斎部たちが結納から婚姻まで、最短で話題をかっさらうはずだ。

 俺たちは、その後ろでひっそりと婚約を交わせばいい」


「ふふ……。もし万が一、そこに絢子と雅延王殿下まで加わったら――

 私たちなんて、誰にも気づかれないわね」


 木枯らしが障子窓をガタガタと鳴らし、

 わずかな隙間から、凍るような風が吹き込んでくる。


 その冷たさに思わず肩を震わせた妙子に気づき、

 海野は彼女を守るように、そっと抱き寄せた。


 何もない空室の貸家――。

 部屋はしんと冷えていたが、若い二人の息だけは、温かく満ちていた。



 +++++


 そして三月――。


 迎えた卒業式に現れた絢子は、もはや軍人の顔をしていなかった。

 薄化粧に彩られたその姿は、巫女――いや、女神のように輝いていた。


「では、皆さま、ごきげんよう。

 その時まで……お元気で」


 別れの言葉も、貴婦人のように優雅で。

 彼女が本当に遠くへ行ってしまうのだと、妙子はあきらめざるを得なかった。


 妙子は、絢子が桂川宮靖久親王や雅延王に従って講堂を去ったときこそ、号泣した。


 けれど、ひとしきり泣いてしまうと、腹が決まる。


 ――彼女の分まで、帝国軍人としての本懐を遂げる。


 決めてしまえば強いものである。

 頬を両掌でパンッと小気味よく叩き、ニッと口端を笑みの形に釣り上げた。




「妙子、大事な話がある。ちょっといいか」


 すでに寮を引き払い、中野の斎部邸で生活している清至と時子を門まで見送ったあと――。

 踵を返した妙子に、海野が神妙な面持ちで声をかけた。


「大事な話? ええ、いいけれど――」


 森本を視線で探すと、いつの間にか、彼はずいぶん先まで一人で歩いて行ってしまっていた。


「森本には、俺たちだけで話したいと伝えてある」


 海野は妙子を促し、並木道を並んでゆっくりと歩きはじめた。


「なぁ、妙子。卒業したら――やっぱり俺と、相棒にならないか?」


 何度か提案されたその申し出。

 彼の表情は真剣だったが、妙子はどこか信じきれずにいた。

 けれども、卒業式を終えた今この時の再提案――もう、そらすことも茶化すこともできない。


「でも、あなたのカメラートは森本でしょ? 彼はどうするのよ」


 妙子は立ち止まり、海野を振り仰いだ。


「実は――森本に、振られたんだ。

 カメラートの解消を申し出られた。

 もう奴は、昨年卒業した卜部特務少尉と、四月から組むことが内定している」


「……え? 初耳なんだけど……」


 目を丸くした妙子に、海野は気まずそうに頬を掻く。


「ああ。一応、機密事項だからな」


「――もしかして、かなり前から決まってた?」


「ああ」


 ――しつこく打診してきたのは、そういう理由だったのね。


 妙子は、今までのつじつまがすべて合うことに気づき、

 胸の内でひとり、手を打って納得する。

 けれど、素直に喜びを見せるのは、まだ少し癪だった。


「そして――実は、もう特務局には下話をつけてある。

 あとはおまえがうなずけば、四月からは“相棒”として、優先的に同じ任務に就くことになる」


「……まぁ、手際のいいことで」


 妙子は、わざと眉をしかめてみせた。


「ああ。おまえと組みたくて、真剣だからな。

 森本が言ってたんだ――『士官同士の夫婦で、カメラートでない場合、離婚率が高い』って。

 それに、特務局のほうでも、神威持ちを相棒なしで任官させるのは不安らしくてな。

 この件は、結婚を含めて歓迎されている」


「……結婚も歓迎、か。

 そこまで言われたら、もう逃げ場はないじゃない」


 妙子は頬をふくらませ、腰に手を当てて怒る仕草をしたが――

 すぐに噴き出して笑い出した。


「ふふふ……あはは。ここまで手を回してくれるなんて、幸昌にしては上出来よ!

 末永くよろしくお願いします、私のカメラートさん!」


 嬉しそうに笑った彼女が差し出した手を取りながら、海野も幸せそうに笑った。


「ああ、こちらこそ。よろしく――俺の“ゲフェルテ”」


 並木道を渡る春風が、二人の笑い声をやさしくさらっていった。

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