外-三 妙子の光
「たえこぉ! 俺はお前に――けっ、結婚を申し込むぞ! 否とは言わせな……ぃ……」
隣から聞こえた、寝言とも呻きともつかぬ声。
八卦山の夜、軍幕の中は、しんと静まり返っていた。
絢子の治療で意識を取り戻し、海野の手を握ったまま眠りに落ちた妙子は――ふと目を覚ました。
そして耳にしたのは、海野の寝言による盛大な告白だった。
――好意は、なんとなく気づいていた。
でも……け、結婚って、そこまで……!?
先ほどまで、隣の寝台で繰り広げられていた同級生たちの情熱的な口づけを、
薄目を開けてそっと覗き見ていただけでも、心拍数は急上昇だった。
そこへこの寝言である。――とどめを刺された。
隣の寝台はすっかり静かになり、妙子も寝返りを打つふりをして、彼らに背を向ける。
――顔を見られたら、起きてるってばれちゃう。
さすがに見てたって知ったら、気まずいものね……。
幕屋の垂れ布を見つめながら、真っ赤になった顔をくしゃくしゃにして百面相する。
――時子たち、あんな接吻するんだ……。
もう、身体の関係もあるってことだもの。
……すごく、色っぽかったな。
幼馴染のカメラートが恋人になり、そして出征を前に関係も持った――。
……だいたいのことは、絢子と一緒に尋問して、全部わかっていた。
けれど、実際に目にしたのは初めてで――その暴力にも匹敵するような衝撃に、妙子の心はざわめいた。
時子ばかりが大人になっていくようで、妙子は、ほんの少しだけ寂しかった。
――いいなぁ。私も、あんな接吻、してみたい。
己の唇に、そっと指先を這わせる。
思わず脳裏をかすめたのは、破廉恥で、あまりにも具体的な妄想だった。
その相手は――やっぱり、自分を彼岸から此岸へ引き戻してくれた、あの人。
――あぁ、やっぱり……海野、だよね。
私、彼のことが好きなんだなぁ……。
すぐわきで、健やかな寝息をたてるその温もりに、
どうしようもなく体温が上がっていくのを感じていた。
あの夜から二か月あまりの月日が過ぎた。
時子と清至、そして絢子は台湾に残り、妙子は海野たちと共に内地へ帰ってきた。
横須賀へ戻る船の上で、何度か海野と甲板で言葉を交わした。
海を眺めながら語り合った話はとりとめもなく、いまではもう、細かな内容は思い出せない。
けれど――彼が何かを言い出したそうにしていたことだけは、はっきりと覚えている。
しかし、彼はその最後の一歩が、どうしても踏み出せなかったのだ。
妙子にはそれが分かっていた。
だが、明治生まれの男の矜持を守るためにも、辛抱強くその時を待つことにした。
……けれど、その時は、十一月に入ってもまだ訪れていなかった。
「ねぇ、時子……あなたなら、どうする?」
消灯後の寝室。
布団の中で天井を見上げながら、妙子はぽつりとつぶやいた。
内地に、時子も絢子も、まだ戻っていない。
第三学年の女子は、いまや妙子ただ一人だった。
本音で語り合うことも、ましてや恋の相談をすることも――。
そんな相手は、この学舎にはいなかった。
台湾の南進軍が解散し、友の帰還を心待ちにしていた十一月半ば過ぎ。
とうとう海野が、妙子に外出の願いを申し出た。
あいにく森本は用事があると言って断り、今回は二人きりでの外出となる。
ここのところの海野は、どこかもの言いたげで――。
いよいよその時かと胸を高鳴らせつつ、
(こんなに待たせておいて、これで告白してこなかったらどうしてくれよう)
と、妙子はひそかに一計を案じた。
私物を詰めた革製のカバン。その底板の下には、いざという時のためにこっそり持ち込んだ紅皿が隠してある。
海野と待ち合わせた日曜の朝、寮母に気づかれない程度に、その紅をうっすらと引いた。
ほんのわずかな変化だったが、鏡をのぞき込んだ妙子は、ずいぶん大人びた気がして、ひとり胸を弾ませた。
昼食には、赤坂の洋食屋『東雲亭』を予約してある。
気の利かない海野のことだ、きっと今日の
それに、純粋に行ってみたい店でもあった。
一年次に、時子と清至が訪れたという洋食屋――最近では評判を呼び、いつも客でにぎわっているらしい。
そして迎えた昼食時――。
「――俺と付き合ってほしい。そして、ゆくゆくは……」
お膳立てをして、促して、
昼食が運び込まれる直前に――妙子はついに、望みの言葉を海野の口から引き出した。
海野はビフテキ、妙子はクロケットを注文した。
胸がいっぱいで味が分からない――ということもなく、評判どおりの美味しさに、心ゆくまで舌鼓を打つ。
あっという間に平らげると、やがてデザートのケーキと食後のコーヒーが運ばれてきた。
「ねぇ、海野。どうだった?」
ケーキをフォークで切り分けながら、妙子は上目づかいでちらりと海野をうかがう。
「どうって……妙子が告白を受け入れてくれて、うれしい。」
海野はコーヒーカップを手にしたまま、その水面をじっと見つめていた。
「あー、そうじゃなくて、このお店の料理のことよ。ビフテキ、美味しかったかなーって。」
「味なんかわかんねぇよ……」
海野は耳まで真っ赤に染め、敗れかぶれの調子で言った。
「まあ、もったいない。」
妙子は笑いながら、ケーキをひと口ほおばる。
「おまえは、その――平気なんかよ。俺に告白されたんだぞ。」
「平気じゃないよ。すっごくうれしい。
フワフワして、ご飯がとってもおいしいの。」
「おまえなぁ……」
海野があきれた顔をすると、妙子はコーヒーでケーキを流し込み、にやりと笑った。
「ふふ、ちゃんと筋は通ってるのよ?
ご飯って、食べた相手でおいしさが変わるの。
大好きな海野と一緒に食べたら、最高においしいに決まってるじゃない。」
「大好きって……おまえっ!」
カチャンと音を立てて、海野はカップをソーサーに戻し、袖で顔を隠した。
「ええ、大好き。
だって、私がこの世に引き返そうって思うほど、
私のことを真剣に呼びかけてくれたのよ?
もう、それだけだって、おつりがくるわ。」
妙子は涼しい顔で海野の反応を面白がりながら、
おもむろにフォークを手に取った。
「それに私、けっこう――海野の顔、好きかな。
斎部は恐ろしいほど整ってるけど、ちょっと冷たそうだし、
森本はきれいだけど、なんだか頼りない。
でも海野は……精悍って感じ?
いつも笑ってて明るくて――あの陰惨な戦場で、
ずっと、私の光だったのよ。」
ケーキの最後のひと切れをほおばる妙子に、
海野はゆっくりと腕を下ろし、再びコーヒーカップを口もとへ運びながら、ぽつりと言った。
「俺だって――妙子が、俺の光だ。
おまえも、いつも笑ってて、冗談ばっかり言ってて、明るくて。
もし伴侶にするなら、こんな女がいいなって……そう思った。」
「……そう。」
妙子はコーヒーの最後のひと口でケーキを流し込み、
満足そうに返事をした。
ケーキも平らげ、コーヒーカップも空になり、
二人が個室を出ようとしたその時、妙子はそっと海野の袖を引いた。
「私ね、ここを選んだのは――願掛けだったの。」
「ん? 願掛け?」
「うん。ここって、時子と斎部の初めてのデートの場所なんだよ。
だから、ここを選んだら、きっとあなたと恋人になれるって……そう思ったの。」
頬を染めて視線を落とした妙子に、海野は微笑んで向き直った。
「なら――大成功、だな。」
屈託のない笑顔を向けた海野に、妙子は頬を染めたまま、
思いつめたような表情で、そっと彼の首の後ろへ腕を回し、伸びあがる。
唇が触れてしまいそうな距離。
突然、眼前に迫った彼女の顔に、海野の頭は真っ白になった。
「ここを出たら、しばらくは――二人きりにはなれないわ。
だから……」
妙子のまぶたが静かに閉じられ、唇から力が抜け、かすかに開かれる。
海野の喉仏が、ごくりと上下し――一瞬のためらいののち、
そっと彼女の唇に、自分の唇を押し当て、すぐに離れた。
妙子はそっとまぶたを開け、それからもう一度、目を閉じる。
今度は自分から、彼に口づけを返した。
脳裏に浮かんだのは、あの夜の時子たち――。
彼の唇をやさしくはんで促し、深くつながる。
身じろぎした海野も、最初こそためらいがちだったが、
やがて静かに、彼女に応えた。
「私――積極的な女なの……。こんな女、嫌かな?」
唇が離れたあと、妙子は恥じらいながら、小さく問いかけた。
「いや、うれしいよ。妙子らしいと思う。」
海野も頬を染めたまま視線をさまよわせ、
軍帽を目深にかぶる。
「そっか……幸昌、ありがと。」
妙子はそっと、彼の指に、自分の指を絡めた。
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