外-二 海野の一世一代
妙子の負傷、そして従軍の任を解かれた海野と森本。
三人は八卦山攻略の直後、中野学舎への帰営を許された。
それが九月上旬のことである。
実際に台湾を離れたのは、さまざまな手続きや移送の手間に追われた末の九月下旬、そして内地へ戻ったのは、天候の具合も相まって十月中旬だった。
――それから、一月ほどが過ぎた。
海野は、誰にも言えぬ思いを胸に抱えていた。
あの夜。
妙子が生死の境をさまよい、そして息を吹き返した八卦山の夜。
彼の胸に宿っていた想いは、その瞬間、どうしようもなく溢れ出していた。
いつからだったのか、自分でもわからない。
けれど気づけば――渡辺妙子は、彼にとってただ一人の女性になっていた。
元より華族の香りを漂わせ、天照大神の神威を纏う後西院絢子。
入校早々、斎部清至が狙いを定め、妻神となった川村時子は、もともと群を抜いて優秀だったが、その結縁によっていっそう規格外の存在となった。
その二人の傍らで――
野の花のように、天真爛漫さを失わずに咲き続けたのが妙子だった。
もちろん、一般的に見れば、彼女もまた非凡な人間だ。
頭脳明晰で、強力な風の異能を操る。実家は軍とも縁の深い裕福な商家で、幼い頃から最高水準の教育を受けてきた。
とうてい“普通の女”という枠に収まるはずがない。
けれども、比較の相手が絢子と時子では――
どうしても、妙子は“普通の女”という括りに押し込まれてしまうのだった。
――けれど、俺は。
そんな彼女こそ、一番好ましく思っていた。
いや、できることなら、生涯を共にしたいとさえ思っていた。
もう、すぐにでもこの恋を打ち明けて、いっそ結婚を申し込んでしまいたい――
そう決意しかけた夜もあった。
けれど、戦いが終わり、帰還の手続きに追われ、
気づけば、流れゆく日常の中で、その機を逸してしまっていた。
「新聞、見た? 帝国の台湾南進軍が解散したって。
絢子に、時子たち――いつ帰ってくるんだろうね。」
十一月のはじめ、夕方の自主鍛錬の時間。
台湾帰還組の三人は、校庭の隅に固まっていた。
カメラートの絢子が不在で、もう一人の女子である時子も不在。
学年でただ一人の女子となってしまった妙子には居場所がなく、
帰還してからというもの、自然と海野と森本と行動を共にするようになっていた。
「さあ、じきに――じゃないかな。早ければ今月中にも帰ってくるかもしれないよ?」
森本が、伸びをしながら身体をほぐす。
「あの三人、一緒に帰ってくるのかな?
それとも、別々なのかしら……」
「そればっかりは分からねぇなぁ」
海野も肩を鳴らし、軽く答える。
「ねぇ、帰ってきたら何する?
やっぱり食堂でも借り切って、盛大にお祝いしたいよね?」
「そうだね。あー、それなら俺たちから何か記念品を用意したらどうだろう?
帰還祝いと、向こうで世話になったお礼を兼ねてさ」
森本が提案すると、妙子はぱっと顔を明るくし、手を打ち鳴らした。
「いいわね! お祝いして、記念品を贈って――。
何を贈ったら喜ぶかしら。ねぇ、今度の日曜日、三人で外出して買いに行かない?」
妙子と外出できる。森本込みであっても――!
海野の胸は一気に華やいだ。
が。
「わりぃ……次の日曜はダメだ。兄貴が帰営してて、呼び出されてるんだ。
残念だけど、渡辺と森本で――」
「あー、僕も無理。ちょっと大事な用があるんだ。
もう少し先なら行けるけどね」
森本が海野の言葉を遮り、妙子は「仕方ないわね」と笑って首を振った。
――また、機を逃した。
海野の心は一気にしぼみ、間の悪さを呪いながら、つい兄を恨んだ。
+++++
「やあ、幸昌。いつぶりかな。おまえも、ずいぶん男らしくなったじゃないか。」
日曜の午後。
待ち合わせた喫茶店で、先に来ていた兄・
海野は、注文を取りに来たウェイターに兄と同じものを頼むと、軍帽を脱いでテーブルの上に置く。
「さあ……二年ぶり、くらいか?」
「『男子、三日会わざれば刮目して見よ』とはよく言ったものだ。
台湾での活躍は耳にしている。俺も同じ戦場にいたが――おまえたち候補生の奮戦ぶりは、よく伝わってきたよ。」
「そりゃ――二年前とは全然違うだろうよ。
そういえば、兄貴も昇進だって聞いた。清国での働きが認められたって。」
海野は、テーブルの上に用意されていた手拭をほぐし、長い指先をゆっくりとぬぐった。
そんな弟の仕草を、輝昌は目を細めて見つめていた。
「ああ。まもなく中尉に昇進となる。
それでだ――おまえに報告と相談、いや……要請があって、今日こうして呼び出した。」
「要請?」
海野はいぶかしげに兄を見つめ、手拭を丁寧に折りたたんだ。
「中尉への昇進を機に、縁談が舞い込んだ。
相手は、室井特務大佐のご令嬢だ。大佐自らの申し出で――婿入りを希望されている。」
「は? 兄貴が、婿入り?」
思いがけない報告に、海野は言葉を失った。
反応が遅れた彼をよそに、輝昌は視線をコーヒーカップへ落とし、少し嬉しそうに続けた。
「ああ。一人娘で、俺に婿に来てほしいと。
一度、物陰から彼女を見せてもらったが――好ましい女性だった。
だから、この話を進めようと思っている。」
明らかに頬をゆるめている兄に、海野は戸惑いを隠せなかった。
「婿入りって……海野家はどうするんだよ。長子は兄貴だろ?」
言い募る弟に、輝昌はもう一口、コーヒーをすすってから静かに答えた。
「そのことなのだが……おまえも、もう気づいているだろう?
今の海野家で、神威が最も強く、白山大権現に愛されているのは――明らかにおまえだ。
実際、俺も“神威持ち”として登録はされているが、実戦でその力が役に立ったためしはない。
使えないほど、弱いんだ。」
「でも――」
思わず語気を荒げかけたその時、
ちょうど海野の分のコーヒーが運ばれてきて、話の腰を折られた。
海野は、運ばれてきたコーヒーに手をつける気になれず、
ただ、湯気の立つ水面をじっと見つめていた。
「――とまあ、そういうわけで、海野家の継嗣の座を、幸昌――おまえに譲りたい。
何、気にすることはない。一族郎党、おまえの実力は認めているし、
俺よりふさわしいと、みんな内心では思っているさ。」
「それでも、急に言われても――」
なおも抵抗を試みる弟に、輝昌はふっと苦笑した。
そして背筋を正すと、その場で深々と頭を下げる。
「頼むっ! 一生のお願いだ。
俺を――婿入りさせてくれ。 一目惚れなんだよ。」
――頭を下げられちゃあ、なぁ……。
兄の、自分とよく似た髪質のつむじを見つめながら、海野はため息を漏らした。
「わかったよ。どうせ父上には、もう許しをもらってるんだろう?
俺に選択権なんてないのに、よく言うよ。」
勢いよく顔を上げた兄に、もう一度ため息をついて、
海野はコーヒーを一口――ゆっくりとすすった。
+++++
兄の申し出をきっかけに、海野の運命は急に転がり始めた。
それから数日後――今度は森本が、卒業後のカメラート解消を申し出てきたのだ。
聞けばすでに、四月から組む相手にも打診済みで、特務局の方でも歓迎されているという。
都合のいいことに、妙子のカメラートである絢子が帰還しないことも、内々に伝わっていた。
つまり――彼女の隣の席が、空く。
――千載一遇の機会。
これを逃せば、男が廃る……。
森本と、後西院と、何より渡辺本人にさえ付け入るような――
少々卑怯な気もしないでもないが、もう、なりふり構ってはいられない。
そう決意して、台湾から帰還する同期たちへの記念品購入を口実に、
海野は妙子との日曜外出を申請した。
森本は、またもや用事があると辞退した。
今ならわかる――それは、全部、彼の優しい嘘だった。
「ごめん、ごめん。待たせちゃったかな?」
女子寮の前で待っていると、少し遅れて妙子が現れた。
まるで女のカメラート持ちのような気分で立っていた海野は、思わず背筋を伸ばす。
どこがどう、とは言えない。
けれど、今日の彼女は――いつもの軍服姿にもかかわらず、
どこか大人びて、美しく見えた。
海野は、視線のやり場に困った。
その日は銀座まで出て、午前中いっぱい――
妙子は絢子と時子への記念品を、海野は清至への贈り物を選んだ。
昼食には、妙子が前々から行きたがっていた赤坂の洋食屋を訪ねることになった。
「ここね、時子が最初の外出で、斎部に連れていってもらったお店なんだって。
すごくおいしかったって自慢されて、ちょっと悔しかったのよねぇ」
そう笑ってくぐった扉の向こう――
出迎えた初老の給仕は、二人が何も言わないうちから、奥の個室へと案内した。
「え――なんで個室? 俺たちが斎部の友人だって、知ってるのか?」
給仕が去ったあと、海野が尋ねると、妙子は手を拭きながら、フフンと得意げに笑った。
「ええ、もちろんその縁も、大いに使わせてもらったけれど――。
まあ、わざわざ私が押さえたのよ。
ねぇ、海野? 私に、なんか言いたいこと――あるんじゃない?」
少し顎を引いて、上目づかい気味になった妙子の顔に、海野はドキリとした。
彼女の唇が、妙に瑞々しく、濡れたような光を放った気がした。
――何を言わせたいのか。
一瞬のうちに、海野は妙子の望みを正しく嗅ぎ取った。
「――こんなにお膳立てしてもらっちゃあ……俺の面目が丸つぶれだ。」
「さっさと言わない、あんたが悪いのよ。」
妙子は、なおも余裕ぶって微笑んだ。
「渡辺妙子――。
俺は、八卦山でおまえを失いかけて思い知った。
おまえが、俺にとってどれほどかけがえなく、大切な存在かを。
――俺と付き合ってほしい。そして、ゆくゆくは……」
「よくできました。
もう、なかなか言い出してくれないから、これでとぼけられたら、私から言おうと思ってたのよ。」
勝ち誇ったように微笑む彼女に、海野は少し不安げにうかがった。
「で――返事は?」
「もちろん! 改めて、これから末永く、よろしくね!」
妙子は満面の笑みで、握手のために右手を差し出した。
その手を取りながら、海野は内心で苦笑する。
――ああ、妙子もまた、到底“普通の女”ではなかったのだ。
と。
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