外-一 森本の見る雪
「ねぇ、海野。――卒業したら、カメラートを解消してほしい。」
明治二十八年十一月――。
台湾から帰還してほどなく、帝都にも冬の気配が忍び寄っていた。
森本は、その晩、まるで翌週の予定でも告げるような気軽さで、海野に切り出した。
「は?」
寝支度をしていた寮の同室者・海野は、思わず目を白黒させる。
男子寮では、カメラートの相手が同性の場合、三年間相部屋となるのが通例だった。
彼は着かけていた寝間着の上衣を置くと、半ば怒ったように森本の方へ向き直る。
「カメラートを解消って……どういうことだよ。俺、何かしたか? 俺じゃ不満か?」
「おまえが不満ってわけじゃないよ。」
森本は慌てて手を振った。
「ただ……自分の異能の属性とか、おまえとの連携とか、色々考えててさ。
それで、昨年卒業された卜部少尉に手紙を書いたんだ。――俺と同じ“火”の異能だから、卒業後に組めたらって。」
「卜部少尉って言ったら、神威持ちだし、何より、昨年の日清戦争出征でカメラートを亡くしてる……。
で、先方はなんだって?」
海野は、まさかもう承諾を得ているとは思えずに問う。
「歓迎してくれるって。やっぱり、周りの同期はみんな士官学校時代からのカメラートで、気まずいことも多いし。
台湾の件も片付いた今、春日井候補生のことを忘れるわけじゃないけど――前に進みたいってさ。
実は、特務局の方にも内々に打診してあって、神威持ちの卜部少尉に新しい相棒ができるのは、歓迎されるらしい。」
少し気恥ずかしそうに笑った森本に、海野は思わず身を乗り出した。
「じゃ……じゃあ、俺はどうなるんだよ。卒業したら、俺のカメラートがいなくなっちまうじゃないか。」
その問いに、森本は困ったように眉を下げた。
「いるじゃないか。渡辺と組めばいい。」
「妙子だって? なんであいつが今出てくるんだよ。あいつには後西院がいるだろ。」
「――後西院は、もう帰ってこないよ。」
海野の言葉が、静かに遮られた。
「そんなわけ――」
「雅延王殿下が帰国されたそうだ。その筋の話によれば、後西院も一緒に。
でも、彼女は学舎には戻ってきていない。……台湾での彼らを、覚えているだろう?
おそらく後西院は、卒業後も仕官しないはずだ。」
森本の声には、憐れみとも、諦めともつかない響きがあった。
その時、消灯を告げる寮長の声が廊下の向こうから響く。
彼は枕元のランプに手を伸ばし、火を少し絞った。
とても眠る気にはならなかった。
「それでも――」
「それでも、じゃない。」
森本は、やわらかく笑いながらも、どこか鋭かった。
「僕、知ってるんだからね、海野。君は渡辺が好きだ。
その“好き”は友情じゃなくて、恋愛で……ゆくゆくは、結婚したいと考えている。」
「――おまえなぁっ!」
図星を突かれた海野の頬が、みるみる赤くなる。
慌てて声を押し殺したが、灯の消えた部屋に、心臓の鼓動がはっきりと響いていた。
「それに、渡辺だって、まんざらじゃない。
いや、渡辺にとって今いちばん必要で、大切な人間は――
カメラートの後西院でも、幼馴染の川村でもない。
海野、お前だよ。」
森本の言葉は、静かで、残酷なほど優しかった。
海野は返す言葉を失い、唇を震わせた。
そんな海野に、森本はすべてを諦めきったような微笑を浮かべて近づき、
彼の隣――ベッドの端に静かに腰を下ろした。
「僕はね、入学したとき、斎部殿が大好きだった。
それこそ――恋、だったかもしれない。
でも斎部殿と組むことはできず、相克の関係のおまえと組んだんだ。
最初は本当に、どうしようか途方に暮れてさ。
なんとかカメラートを組みなおせないかって、ずいぶん足掻いたよ。」
森本は、遠い目をして一年次の頃を思い出し、
「我ながら酷かった」と小さく笑った。
「――けれど、今は思うんだ。
僕は同期が好きだ。ことに、台湾へ共に行った五人は、格別に思っている。
その中でも……海野。おまえのことが、好きだ。」
「え……?」
「好きだから――おまえには、ことに幸せになってほしいと、思っている。」
森本の声音は、もうどこにも届かない祈りのようだった。
海野はただ、うなずくこともできず、暗闇の中でその横顔を見つめるしかない。
「知ってるかい? 士官同士の結婚で、カメラートでなかった場合の離婚率の高さを。
やっぱりね、こういう立場にあると――自分より優先される相手がいるって、誰だって嫌なものらしい。」
森本は、苦笑ともため息ともつかぬ息をもらした。
「それに、女性士官をその辺の女と同じに考えちゃいけない。
彼女たちは……あれはもう、別の生き物だと思った方がいい。」
「森本……」
海野はまだ、どう答えていいのか分からなかった。
「まあそれに、僕は、誰かと寵を競うなんてのもまっぴらだしね。
じゃ、そゆことで。僕は寝る。
僕は僕で、できる手続きや下話はしておくから、おまえも早いとこ、渡辺をモノにしてくれよ。」
森本はいつもの軽い調子に戻ると、「おやすみ」と言って、自分のベッドへと戻って行った。
+++++
十二月最初の日曜日。
森本はひとり外出届を出し、市ヶ谷の陸軍省にほど近い喫茶店で人を待っていた。
窓の外ではちらほらと雪が舞い降り、通りを行く人たちの息も白い。
小さなストーブの音と、湯の湧く音だけが、静かな店内に響いていた。
「やあ、待たせたかな?」
低い声に顔を上げる。
将校の軍服に身を包んだ男――卜部智記特務少尉が立っていた。
森本はすぐに椅子から立ち上がり、敬礼する。
卜部は軽く手を上げてそれを制し、「堅苦しくしないでくれ」と笑った。
「いいえ、大して待っておりません。」
森本も、少し肩の力を抜いて答える。
やがて湯気の立つコーヒーが運ばれてくると、二人は話の本題へと入った。
「――海野は、渡辺と無事に付き合うこととなりました。
まだ士官後の相棒については申し出られておりませんが、その筋の話では、後西院候補生の任官は絶望的とのことです。
話を進めていただけたらと思います。」
森本が涼しい顔で言うと、卜部は探るような眼で彼を見つめた。
「君は……本当にそれでいいのか?」
「ええ。まったく問題ないことは、以前にもお話した通りですが?」
卜部は一拍置き、カップを手に取る。
その眼差しには、どこか確かめるような色が宿っていた。
「――相克の神威持ちと三年間組んで、台湾でも武功を上げた君と組めるのは、……本当にまたとない申し出だが、俺は君の恋人にはなれないよ?」
最終確認だと言わんばかりに釘を刺す卜部に、森本は遠慮なく鋭い視線を返した。
「僕について、どんな噂を鵜呑みにしておられるか存じ上げませんが――
僕は、あなたに恋人になってほしくてこの話を持ちかけたわけではありません。
僕は、仕事上の相棒が必要だから、あなたに申し入れをしたまでです。」
卜部は小さく息を吐き、苦笑を漏らした。
「――それは失礼した。無礼を許してくれたまえ。
では、年が明けたら、そろって局長へ挨拶がてら直談判といこう。
ああ、四月が楽しみだな……こんな気持ちは、二年ぶりだ。」
どこか遠くを見るようにつぶやいた卜部少尉の瞳に、
春日井候補生の面影が確かに映っているのを知りながら、
森本は黙ってコーヒーを口に運んだ。
――これで、いい。
自分にいろいろな噂が付きまとっているのは知っている。
だからこそ、かつて女を愛し、その影を今も宿すこの人と組むことは、
自分にとっても有益だ。
利害を共にしてこそ、背中を預け合う。
まったくもって、カメラートを失う自分に――これ以上の相手はいない。
窓の外では、雪がしんしんと降り続いていた。
それぞれの過去を静かに覆い隠すように。
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