最終話 春の光
三月。春のうららかな日差しの中、中野学舎では第十五期生の卒業式が執り行われた。
大講堂に整列した卒業生十七名の最後尾に、十八人目の後西院絢子がそっと加わる。
そのことに、先頭にいた台湾従軍組の五人は気づかなかった。
本科では、卒業証書は生徒隊の各中隊長にまとめて授与される。
だが、人数の少ない異能科では、一人ひとりに手渡されるのが慣例だ。
斎部清至を筆頭に、名を呼ばれた候補生たちが順に敬礼し、うやうやしく証書を受け取ってゆく。
「後西院絢子」
「――はい」
その名が呼ばれた瞬間、そして、あの澄んだ懐かしい声が響いたとき。
時子と妙子は、思わず身じろぎをした。
台湾以来、数か月ぶりに見る絢子は、どこか大人びて見えた。
薄く化粧をしているせいか、同じ軍服をまとっていても、
その姿はまるで後光が差すように美しかった。
胸には勲六等宝冠章が輝き、
彼女が一足早く叙勲を受けたことが知れる。
――絢子さん……。
何があったの? 今まで、どこで、何をしていたの?
清至の答辞が響く中、時子の心は千々に乱れていた。
やがて式が終わり、解散の号令がかかる。
「絢子さんっ!」
「絢子っ!」
時子と妙子は、誰よりも早く絢子のもとへ駆け寄った。
退室しようとしていた絢子の前には、台湾出征の縁で卒業式に臨席していた
桂川宮靖久親王や雅延王、そして侍従と思しき男の姿があった。
「――妙子、時子さん……」
絢子は振り返り、静かに目配せを送る。
待機していた男たちが軽くうなずくのを確かめると、
彼女は二人のもとへと歩み寄った。
「絢子……今まで、どこにいたの?
一緒に卒業できたけど、これから、どうするの?」
妙子は絢子の手を握りしめ、再会の喜びと、彼女のまとうどこか不穏な気配に涙を浮かべた。
「――私、ずっと桂川宮家にお世話になっていたの。
どういう形になるかはわからないけれど……
これからは、雅延王殿下のおそばに仕えたいと思っているわ」
彼女は――もうすべてを決めてしまった人のように、凪いだ表情で妙子を見返した。
「それって……もう軍には戻らないってこと?
それって、雅延王殿下と――」
言いかけた妙子の言葉を、絢子がそっと遮る。
「将来のことは、まだ分からない。
けれど、私が宝冠章を賜ったのは――これから、したいことを果たすためなの。
第一年次の“肝試し演習”、覚えている?
渡良瀬川沿いの、あの村で……私は、何もできなかった。
雅延王殿下はね、あの川の民にも、お心を砕いていらっしゃるの。
私たちは、台湾から帰って、何度も話し合ったの。
そして思ったの――私たちなら、あの川ごと……
いえ、富国強兵の陰で苦しむ各地の臣民に、手を差し伸べられるのではないかと。
そのために、手を取り合おう。
そう――誓い合ったのよ」
「絢子さん……」
突然の友の決意と、その中に滲む別れの気配に、時子は言葉を失った。
「――妙子、時子さん。
私たちの道は、ここで別たれるわ。
でもね、あなたたちは軍で、私は私の道で……
どちらも、この日の本の国を、少しでも良くし、
臣民のささやかな暮らしを守っていく。
ここで学んだこと、台湾で見聞きしたこと、
そしてあなたたちと過ごした日々――
全部、忘れないわ。」
それを聞いた妙子の涙腺はとうとう崩壊し、
わっと泣き出して、絢子に抱きついた。
「――絢子、私たち、カメラートだったのよ……!
嫌だ、絢子……」
「ええ。私のカメラートは、先にも後にも、あなただけ。
さあ、今日はめでたい日よ。――笑って、お互いを送り出しましょう?」
「絢子さま、そろそろお時間です」
侍従らしき人物が、懐中時計を見ながら静かに告げた。
「――はい。
では、皆さま、ごきげんよう。
妙子、時子さん、いつかゆっくりお茶でもしましょうね。
その時まで……お元気で」
絢子は一度だけ、ぎゅっと妙子を抱きしめ、
そっと肩を押して離れると、
優雅な貴婦人の所作で一礼した。
「絢子――」
妙子が最後にかすかに呼んだ声は、
もう絢子には届かなかった。
彼女が去った後には、
淡く舶来の香水の香りだけが、春の空気に溶けて残っていた。
+++++
「ねぇ、清至。
カメラートが除隊しちゃったら、どうしたらいいのかしらねぇ」
講堂を出て、寮へ向かう道。
少し前を、妙子と海野、森本の三人がじゃれ合いながら歩いている。
その背中を眺めつつ、時子はぽつりとつぶやいた。
「渡辺と後西院のことか?
まあ、士官学校を出れば、カメラートを解消する者もいれば、
別の者と組む者もいる。――渡辺のことなら、おまえが心配するまでもないだろう」
「えー、心配よ。だって妙子に、変な虫がついたらいやだもの」
口を尖らせた時子に、清至はひょいと眉を上げる。
「なら、おまえが俺とカメラートを解消して、あいつと組むか?」
「う゛……それは絶対にいや。
清至と離れるなんて、冗談抜きで生きていけない」
時子はぶるっと身震いし、自分を抱きしめながら、せわしなく腕をさすった。
「――だろう? 俺もまっぴらだ。
……だから、自分のどうしようもないところに、いちいちやきもきするな」
「うー……それでも、ねぇ?」
眉をしかめた時子に、清至は苦笑しつつ、そっと身を寄せた。
「まあ、この件は万事丸くおさまるさ。
――四月
「……清至、何か隠しているわね?」
時子が思わずにらむと、清至は面白そうに口の端を上げた。
「ああ、男同士の軍事機密だ。
まあ、作戦が成功するかどうかは――俺は知らんがね」
「何が軍事機密よ。いやらしいわね」
「ククッ」
時子のふくれっ面に、清至が喉の奥で小さく笑った。
「ちょっとそこー! 卒業したからって、いちゃいちゃしなーい!」
妙子の大声に、はっと顔を上げる。
気づけば、少し前を歩いていた三人が、そろって振り返っていた。
「いちゃいちゃなんてしてませーん。そんなふうに見えるのは、妙子の心が曇ってるか――欲求不満だからよ」
「いっ……言ったわねぇっ!」
妙子が寄ってきて、時子の頬をつねって引き延ばす。
「ほふぇ――」
奇声が漏れ、次の瞬間、清至を含めた五人全員が笑い転げた。
明治二十九年三月吉日。
陸軍士官学校異能科を卒業した第十五期生は十八名。
それぞれが新たな道へ歩み出し、
この国がまだ若く、夢を信じられた時代を生きていた。
春の風が校庭の桜を揺らし、笑い声に花びらがほころぶ。
卒業の列はゆっくりと門へ向かい、
その背に射す陽の光は、まるで新しい時代の幕を告げるかのようだった。
清至と時子。
帝国の黎明に生きた二人の姿も、
いつかその光の中へと溶けていった。
了
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
本作は、前作『荒魂の旦那様は、最初の妻を離さない』に登場した斎部家の、次の世代の物語です。
彼らが築いた“異能特務局”が発足し、制度として根づいていく中――
その中で育つ子どもたちの時代を描きたいと思い、筆を取りました。
最初は、まったく未知の明治中期。
文化に軍政、士官学校の仕組み、さらに日清戦争や台湾征討……。
史実を織り込みながら「もしこの世界に異能があったら?」を想定し、
資料を読み、単語を調べ、物の導入年・開発年・輸入年までひとつひとつ確認するという、大変な作業でした(笑)
本編は、この最終話をもってひとまず完結となりますが――
清至と時子の結婚式、
四月一日に発表された“あの件”、
そして海野は? 妙子は? 森本は?(笑)
……など、気になる方も多いと思います。(というか、気になってほしい!)
そのあたりを数話の外伝として投稿したのち、
本当にこの物語を終える予定です。
なお、前作『荒魂の旦那様は、最初の妻を離さない ――一年契約の花嫁は、和魂の巫女でした』をまだお読みでない方は、ぜひこちらも。
清至の父母である清孝とりよのなれそめ、
さらに篠崎特務局長や桃蘇阿多香特務中将の若き日の姿も描かれています。
そして次作は――
清至と時子の子世代、大正ロマン編を予定しています。
帝都異能記シリーズは、まだまだ続きます。
これからも応援していただけたら嬉しいです。
それでは、ここまで読んでくださいまして、本当にありがとうございました!
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