第丗八話 雪の夜、溶けて
二月の晴れた日曜の昼下がり。
中野の斎部邸の縁側で、綿入れ半纏にくるまって、時子はぼんやりと庭を眺めていた。
庭の枯れ木には、昨夜の雪がまだ残っている。
午後の日差しを浴びるたび、雪片が重い音を立てて落ち、庭に撒いたパン屑に群がる雀が一斉に舞い上がった。
また一羽、また一羽と、恐る恐る戻ってくる雀を驚かさないように、時子はそっと呟いた。
「ねえ、清至……。いいのかなぁ……」
その声に、後ろの座敷で軍刀の手入れをしていた清至が、手を止めずに答える。
「いいのかなぁって、何が?」
「こうして、清至のお宅にお世話になりっぱなしなこと。
これじゃあ、もう、私たちの関係を言い逃れできないよ……」
時子は自分の膝を抱え、顔を埋めるようにうずくまった。
「そうは言っても致し方ない。
解呪には成功したとはいえ、おまえの気はまだ不安定だ。
俺からしばらく離れるだけで体調を崩す。――寮では、一人でいられまい。」
「わかってる……。わかってるんだけど――」
どうしようもないことは、時子にもわかっていた。
年末、中野学舎に帰還したその日に、八月末以来初めて清至と別の建物で夜を迎えた時――
彼女は盛大に体調を崩した。
そのまま特務局医務室の預かりとなり、解呪の経過を見ながら過ごした日々。
一月半ばになってようやく床上げがかなったものの、完全な快復とは言いがたい。
――彼女の気が安定するまで、斎部候補生と物理的に離すべきではない。
風張軍医監は、そう主張した。
だが、中野学舎に昼夜を問わず男女が同室にいられる場所などなく、
清至の自宅が学舎近くにあるのを幸いに、一月の下旬から、時子はここで世話になっている。
従軍の経験から、時子のあらかたの授業と演習は免除となり、
学舎で残すは本科との合同野営演習と、卒業式のみだった。
その野営演習すらも、風張軍医監から「出てもよい」とのお墨付きを、まだもらえていない。
「清至は、これでいいの? 昼間だったら、そろそろ私一人でも大丈夫かもしれない。
清至は、学校に行った方が――」
自分のカメラートであるというだけで、行動を制限されている彼に、時子は負い目を感じていた。
軽い音を立てて、軍刀が鞘に納まる。
それを文机の上に置くと、清至は立ち上がり、スタスタと縁側へ向かった。
その動きに驚いたように、庭の雀が一斉に飛び立ち、築地塀の向こうへと消えていった。
「構わない。
正直なところ、俺ももう――おまえから離れたくないのだ。
外聞が心配なら、おまえはまだ特務局で療養中ということになっている。問題はない。
……それとも、俺がいると何か不都合でも?」
清至は、どっかりと時子の横に腰を下ろした。
今日も単を着流しに羽織姿。
彼もまた、中野の自宅に戻って以来、軍服に袖を通していない。
「不都合ってことはないけれど……」
時子は、膝から顔を上げ、清至を見上げた。
「幼年学校の頃から、こんなにゆっくり過ごしたことがなくて……。
このまま卒業式を迎えて、任官されるのが、なんだか不安なの」
清至は、結われていない時子の髪をひと房すくい上げ、指先でさらさらと流しながら弄ぶ。
「心配することはないと思うがな。
卒業式が終われば、すぐに結納、そして結婚――。
新婚生活を楽しむ暇もなく、どうせ任務だ。」
「――そうなの?」
時子がたずねると、清至は髪を弄ぶ手を止め、そっと彼女の肩に手を回す。
「両親の神威が、急激に衰えてきているそうだ……」
何気ない調子で呟かれたその一言に、時子は目を見開く。
「ご両親って――斎部特務中将閣下、よね?」
「ああ、当たり前だ。今朝、書簡が届いた。
斎部の夫婦神の神威は、一組の夫婦にのみ授けられるのが正しい形らしい。
俺の成人から、徐々に代替わりが始まっていたが――いよいよ本格的に、父から俺へ神威が引き継がれる。」
「では、りよさまも?」
「ああ……。特務局としては、両親の神威喪失を伏せ、徐々に表舞台から退くそうだ。
その穴を、俺たちが塞ぐ――任官早々、そんな任務が与えられる見込みだとか……」
時子は、うれしいような、悲しいような――言葉にできない気持ちに襲われ、
そっと身体の重心を清至の方へと傾けた。
清至はその肩をそっと抱き寄せ、彼女の髪に鼻先をうずめて息を吸い込む。
陽射しが急に強まったような気がして、枝先から垂れる雫の音が、やけに鮮やかに響いた。
「――もしかして……この私の体調不良も、神威の継承に関わっていたりして……」
「その可能性は、おおいにあるな。」
清至は、彼女の髪を指先でそっと手櫛に梳きながら答えた。
時子は顔を上げ、清至をじっと見つめた。
彼は正しく、彼女の望みを嗅ぎ取り、その唇にそっと口づけを落とす。
「ふふ……」
時子は嬉しげに微笑み、頭を清至の胸に預けた。
清至の胸の奥には、昨年八月末――八卦山の夜が甦っていた。
あの夜、斎部の夫神から最終の確認があった。
時子を選ぶのか、と。
たぶん、あの夜に「是」と答えねば、彼女の命はなかったのだろう。
すでにその時、清至は時子を自らの唯一として選び取っていた。
だが、神から告げられたもう一つの継承の条件――
『次に交われば、彼女は完全な依り代として覚醒する。』
それが、両親の時代の終焉であり、そして自分たちの時代の始まり。
――そのことを、清至はいまだ時子に打ち明けてはいなかった。
また一枝、どさりと重い音を立てて、雪が落ちる。
静かな冬の午後が、ゆっくりと流れていった。
+++++
「ねぇ……清至……」
夜。
並べて敷かれた布団の中、掛布の下で手をつないだまま、清至が眠りに落ちかけていたころ――
時子が、思いつめたように囁いた。
「ん……なんだ……?」
暗闇の中、清至が顔だけ彼女の方へ向ける。
時子は、もぞりと身体を動かし、彼の方へ向き直った。
「その――あのね……」
珍しく歯切れの悪い声に、清至は眉をひそめる。
「どうした」
ただならぬ気配に、清至も時子の方へ向き直った。
それでも時子はしばらくもじもじとしていたが、やがて意を決し、視線をそらしたまま、囁くように言った。
「去年の旅順以来……その、してないじゃない? そろそろ、しないのかなって……」
「……なにを?」
清至がわずかに眉をしかめると、時子はますます挙動不審になり、破れかぶれで吐き出した。
「その――……まぐわい。
全然していないなって……そろそろ、したいなって……あーっ、もー、恥ずかしいなぁっ!」
時子は言ってしまってから、自分がゆでだこのように赤面しているのを自覚し、清至に背を向けた。
清至は、しばらくの沈黙ののち、ゆっくりと彼女の背を抱き寄せる。
「……俺と、したいと――思ってくれるのだな」
ため息のようなその囁きに、時子は身体の芯から震え、吐息とともに本音を漏らした。
「うん。……したい。抱いてほしい」
彼女の身体が、切なく震える。
清至はその身体をしっかりと抱きしめ、うなじに額を預けながら、覚悟を決めて吐き出した。
「俺も――おまえを抱きたい。
……でも、まだダメなんだ」
「なんで?」
温かい彼の手のひらを肌で感じながら、時子は声を震わせる。
「――次に交われば、夫婦神の神威の継承が完成する。
だから、もう俺たちだけの問題じゃない。
おそらく両親も、それを知っていて……婚姻の日取りを決めていると思う。」
「……そっか」
時子が残念そうに身体を離そうとした瞬間、清至は力強く彼女を抱き寄せた。
「でも――せっかく勇気を出してくれたおまえの気持ちを、無碍にはしたくない……」
彼の手が、不埒に彼女の輪郭をなぞる。
「あ……」
逃げようとする彼女を捕まえて、手繰り寄せ、その背を撫で上げる。
「今宵は――おまえの勇気に敬意を表して、俺が奉仕者となろう……」
耳朶を打つ、艶めいた清至の声に、時子はただ小さく笑った。
その笑みの奥で、冬の夜がゆっくりと溶けていった。
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