第丗七話 元の形ではない

「う……あ……あぁ……」


 時子が帰還したその夜、妙子はうめき声で目を覚ました。

 床に敷いた布団から飛び起き、隣のベッドをのぞき込む。


 時子は、ガタガタと全身を震わせながら、胸や喉元を掻きむしるようにもがいていた。

 目を固く閉じ、歯をガチガチと鳴らし、四肢は痙攣するようにこわばっている。


「時子っ! 時子っ!」


 妙子は顔色を変え、ベッドの上の彼女を揺り起こした。

 その手を握った瞬間――時子の手は、文字通り氷のように冷たかった。


 触れた掌から、這い上がるような重苦しい“気”が伝わってくる。

 それは水の異能、そして――陰の気の暴走だった。


「どっ……どうしようっ――誰かっ!」


 妙子が慌てて部屋を飛び出そうとした、その瞬間。

 時子の口から、かすれた声が漏れた。


「ちがっ……殺したかったわけじゃ……あああああっ!」


 振り返った妙子の目に映ったのは――

 虚空を見開いたまま涙を流す、時子の顔だった。


 その瞳は、暗い紫の光を帯びている。

 闇の中で、淡く、妖しく、光っていた。


 急激に、室内の温度が下がっていった。

 吐く息が白く曇り、窓硝子がきしむ。


 妙子は息を呑み、凍りつくような空気の中を飛び出した。

「寮母さん! 誰かっ、来てください!」


 ――ほどなく、時子の異変は学舎付きの軍医に伝えられる。

 軍医は彼女の容態を一目見るなり、即座に判断した。

 これは、自分ひとりの手には負えない――。


 その夜、特務局への打電が行われた。


 川村時子。

 台湾征討戦を生き延びた異能候補生にして、

 次代の英雄として名を連ねつつある少女である。


 異能特務局にとっても、彼女を失うわけにはいかなかった。


「戦闘による心的外傷――それに、強い呪詛の影響も見られる。

 それらが複雑に絡み合い、異能と陰の気の暴走を引き起こしている。私はそう見立てるがね」


 特務局専任の風張かざはり軍医監は、手を払うようにして式神を仕舞うと、深くため息をついた。


「……どのような治療方針を立てればよろしいでしょうか」


 学舎の軍医が顎に手をやり、恐る恐る問う。

 風張軍医監は、彼の上官であり、また師でもあった。


 風張家は、代々神威を媒介に式神を操り、病や外傷の鑑別から治癒までを担ってきた名家である。

 その中にあって彼は、帝国随一の“祈祷医”として知られていた。


「そもそもね――これほどの呪詛を刻まれながら、台湾で職務を全うできたのが不思議だ。

 おそらくこの呪詛は、例の清国の異能隊長が死に際に刻み込んだものだろう?」


 風張軍医監が眉をひそめた。


「当時、彼女を治療したのは――?」


「――近衛師団付きの林軍医監です」


 台湾帰還組として視線を向けられた妙子が、姿勢を正して答える。


「うむ。彼が無能だとは思わんが、異能者の扱いはからきしだ。

 呪詛にも気づかず、肩のきずへ通常の治療を施しただけであろう。

 ……なのに、中野へ戻るまで、川村候補生はぴんぴんしていた。――なぜだ?」


 風張軍医監は、時子の額、顎、喉、胸の中央、そしてへそ――と、順に指先で確かめていった。

 その動きは慎重で、まるで見えない糸の張り具合を探るようである。


 やがて、丹田に触れたとき。

「……おや?」と、軍医監は目を見開いた。


「――このには、伴侶がいるかね?」


「伴侶……? カメラートでしたら、斎部清至です。台湾から共に帰還した――」


 内情を知る軍医が、気まずそうに答える。

 その答えに、風張軍医監の動きがぴたりと止まった。


「――斎部? あの斎部か?」


 一瞬、場の空気が張りつめる。

 軍医監はゆっくりと顔を上げ、声を落として問う。


「斎部清孝特務中将の……血筋ということか?」


「はい。彼は、中将の継嗣です。」


「そうか……夫婦神の……。それなら理解できる。

 ――鍵は、そのカメラートだ。彼を呼べるかね?」


「……あの、しかし、ここは女子寮でございます。男子候補生をお入れするのは――」


 最後列に控えていた寮母が、申し訳なさそうに手を挙げた。

 風張軍医監は振り返り、ゆるく首を横に振った。


「――この娘の命がかかっている。

 それに、運び出そうにも、これほど陰の気に傾いた身体に短時間でも触れれば、

 並の異能者では体調に甚大な被害を及ぼしかねん。

 私が許可する。

 ――誰か、彼女のカメラートを呼んできたまえ。」


「では、私が。」


 手を挙げた軍医が足早に部屋を出ていく。

 風張軍医監は、再び時子を見下ろし、深くため息をついた。


「――まあ、斎部の若造では、根本的な治療にはならんだろう。

 落ち着いたら、特務局の医務室へ移送してくれ。

 私は、早急に解呪に長けた家の者を招集しておく。」


 そう言うと、風張軍医監は荷をまとめ、静かに時子の部屋を後にした。



 ――しばらくして、慌ただしい足音が廊下に響く。

 額に汗を浮かべ、シャツに軍袴だけという格好の清至が、息を切らせて現れた。


 寝起きのまま駆けつけたのだろう。

 いつもはきっちり整えられた髪には、寝癖が残っている。


「――時子っ!」


 夜更けゆえに押さえた声。

 それでも、焦燥のにじむ叫びが、冷え切り、静まり返った部屋に震えた。


 妙子や寮母、軍医が、息をのんで見守る中――

 清至はツカツカと時子のもとへ歩み寄り、そっと手を差し伸べた。


 氷のように冷えきったその手を取り、両の掌で包み込む。

 唇を寄せ、祈るようにその指先へ触れると、

 彼は静かに――しかし確かに、己の炎の異能を解き放った。


 冷気を押し返すように、紅の光が二人の間にゆらめいた。

 さらに清至の全身から、陽の気がほとばしり、

 その瞳には青白い燐光が宿る。


「……そうか。斎部が、いつも時子の隣にいたから――」


 眼前に広がる、一見すれば幻想的な光景に、妙子が思わずつぶやいた。

 軍医はハッと我に返り、寮母の手を取る。


「見た目は美しいですが――陰陽や異能の気が乱れ飛んでいます。

 一般人には危険です、退避を」


「あ……はい……」


 寮母は圧倒されたまま、それでも視線を離しがたく、振り向きながら扉の外へと連れ出されていった。


 そのあいだにも、部屋を覆いつくしていた霜はゆっくりと溶け、

 時子の頬にうっすらと赤みが戻っていく。

 やがて眉間のしわがほどけ、規則正しい寝息が静かに響いた。


「――斎部……あんた、本当に、時子を変えちゃったんだね。

 ……自分用に。」


 部屋の隅にいた妙子が、ぽつりとつぶやいた。


「――申し開きもない。」


 清至は立ち上がりながら、平坦な声で言う。


「すぐに、結婚するの?」


「ああ。卒業したら、すぐに。」


「……そう。」


 妙子は床に視線を落とし、しばし考えこむと、部屋を出るために踵を返した。


「落ち着いたら、特務局に移送するって言ってた。

 あんたも一緒じゃなきゃダメでしょう?

 朝になったらまた来る。必要なもの、海野に言って用意させるから――考えといて。」


「わかった。恩に着る。」


 妙子は部屋の出口で少しだけ振り返る。


「……みんな、変わっていくね。

 仕方ないけど――寂しいわ。」


 そう言い残して、扉を静かに閉めた。





 翌朝。

 時子はまだ眠ったまま毛布にくるまれ、清至の腕に抱かれて馬車に乗せられた。

 行き先は――陸軍省内の異能特務局。とんぼ返りである


 局内の医務室ではすでに受け入れ態勢が整い、

 解呪に長けた異能者たちが待機していた。


「例の楊宜辰の命がけの呪詛でしょう? 腕が鳴りますねぇ」

「難しければ難しいほど、燃えますよ!」


 何やら浮き立つ解呪班に、清至は殺気にも匹敵する神威を乗せた怒気を飛ばした。

 その迫力に、さすがの異能者たちも口をつぐむ。


 ――そして、正月休暇の間を使い、

 時子にかけられていた呪詛は、無事に解除された。


 時子は大晦日には目を覚まし、

 年取りの夜を――病床ではあったが――清至と共に過ごすことができたのだった。

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