第丗六話 笑い声のある場所へ

「お帰りぃぃぃ、生きててよかったよぉぉぉ!」


 校門から飛び出した妙子が、涙ぐみながら時子に抱きついた。

 その後ろから、海野、森本、そして他の候補生たちも次々と駆け寄ってくる。


 司令部での解散報告を終えた翌朝――。

 清至と時子、そして二人を特務局から学舎まで引率してきた伊狭間中佐が中野学舎へ到着すると、校門の前には第十五期生がずらりと整列していた。


 昨夜の帰都はすでに学舎にも伝わっており、第三学年は特別に授業と演習が中止され、二人の帰営を出迎えることが許されていたのだ。


「すげぇな、斎部! 出征組は任官前に叙勲だって、もっぱらの噂だぞ!」

「なんたって、あの清国の異能隊長を倒したんだろ?」

「川村は、宮殿下だけじゃなく総督閣下の覚えもめでたいとか。――来春からは台湾か?」


 押し寄せる歓声と質問の嵐に、時子と清至はすっかり囲まれてしまった。


「と……とりあえず、中に入りましょう? ここでは往来の目が――」


 時子が慌てて言うと、後ろで伊狭間中佐が声を上げて笑った。


「おいおい、お前ら。こいつらは長旅でくたびれてるんだ。まずは座らせてやれ!」


 そう言い残して、中佐は教官室へと歩き出し、瀬川少尉ら教官たちを呼びに行った。



 寮に荷物を置く暇もなく、大講堂へと連れ込まれ、帰還を祝して万歳三唱。

 さらに、清至は胴上げまでされ、最後は皆で軍歌を歌い出した。


「♪てーきはいくまん あーりとてーもー すーべてうごうのへーいなーるもー」


 肩を組み、揺れながら、笑いながら、声を合わせる。

 歌の輪が広がり、やがて瀬川少尉をはじめ、講義や演習のない教官たちまでもが加わってきた。


 大講堂の天井に、若い声が反響する。

 それは勝利の歌であると同時に――、生きて帰れた者たちの、ひそやかな祈りでもあった。


「斎部! 川村! よく帰って来た!」


 三番まで歌いきったあと、拍手と歓声の渦の中で、瀬川少尉が二人に歩み寄った。

 そして清至と時子をまとめて肩に抱き寄せる。


「しかも、大きな武功まで立てやがって……俺は教官として誇らしいぞ!」


 力のこもった手が、容赦なく二人の背を叩く。

 時子はよろめき、清至は背中の傷に思わず顔をしかめた。

 その痛みにさえ、どこか笑いが混じる。


 やがて、歓声と笑いがひとしきり落ち着いたころ、

 清至と時子は改めて瀬川少尉をはじめ教官たちの前に進み、背筋を正した。


「陸軍士官学校・異能科、斎部清至――只今、帰営いたしました!」

「同じく、川村時子――只今、帰還いたしました!」


 二人が声を張り上げると、その場にいた誰もが息をのんだ。

 張りつめた静寂の中、やがてあちこちから、すすり泣きが聞こえ始める。


「……本当に、ご苦労だった。

 聞けば、激戦に次ぐ激戦、呪詛に病魔、そしてゲリラの襲撃――。

 それらをくぐり抜け、こうして無事に帰ってきた。

 これ以上の喜びはない」


 副校長は背筋を正し、静かに右手を上げて敬礼を送った。

 それに続いて、教官たち、在校生たちも一斉に敬礼する。


 しんと静まり返った講堂に、軍靴が床を鳴らす音だけが響いた。



 やがて散会となり、男子寮では祝勝会が開かれるということで、清至は仲間たちに担がれるようにして連れ去られていった。


 そんな男たちの背を見送りながら、妙子が時子の荷をひょいと持ち上げる。


「今夜は二人で、ゆっくりしない? 特別に、同じ部屋で寝てもいいって。寮母さんに許可、取ってあるの」


 振り返った妙子の顔に、淡い笑みが浮かぶ。


 時子は、その笑顔を見つめながら、帰営以来ずっと胸に引っかかっていたことを、ついに口にした。


「ねぇ、絢子さんは――どうしたの? もしかして、具合でも悪いの?」


 その名を出した瞬間、妙子の表情が、かすかに歪んだ。

 何かを堪えるように唇を噛み、しばし黙り込む。


「……実は、絢子、まだ中野学舎には戻ってないの。

 どこにいるのか、はっきりしたことは誰も知らない。

 宮内庁にいるとか、神祇庁に預けられたとか、桂川宮家にかくまわれてるとか――噂はいろいろあるけど、どれも確証がないの。」


 妙子は小さく息をつき、続けた。


「十二月の初めに、手紙が届いたの。

 卒業式には出るつもりだって……それだけ。」


「そう……なんだ。」


 返した声は、自分でも驚くほど小さかった。

 時子は、さっきまで胸を満たしていた熱狂が、すうっと身体の芯から冷えていくのを感じた。


「ご、ごめん。時子が帰って来たお祝いなのに……」

 妙子は気まずそうに笑い、言葉を継ぐ。

「帰ろう? 時子が帰ってきたらお祝いしようと思って、シャンペンサイダーを用意してあるの。なかなか手に入らない高級品なんだから。」


 その言葉に、時子はかすかに笑みを返した。

 友の優しさが、冷えた胸にじんわりと染みていく。


「高級品なら、アイスクリンが食べたいわ」


 冗談めかして言うと、妙子が思わず噴き出した。


「この真冬に、そんな冷たいもの誰が食べるのよ!

 だいたい、ここまで持ってきたら溶けちゃうわ」


「フッフッフッ、妙子君、私を誰だと思っているのかね?

 当代随一の氷の使い手――川村時子軍曹であるぞ!」…


「出た、“氷壁の魔女”!」

 妙子が笑いながら肩を叩き、時子もつられて笑う。


 学舎の廊下を、二人の笑い声が転がっていった。



 その夜。

 昼間の冗談を本当にしようと、二人は食堂から特別に牛乳と卵、それから砂糖を分けてもらった。

 時子の異能で氷を作り、湯気立つ部屋の中で、冷たいアイスクリンをこしらえる。


 妙子はベッドに寝転がり、時子は椅子に腰かけて、匙でアイスクリンを静かにつついた。

 傍らにはシャンペンサイダーも時子によってキンキンに冷やされ、微かな泡のはじける音をさせている。


「……絢子の手紙にね」

 妙子が、少し躊躇いながら口を開く。

「もしかしたら、彼女――退校するかもしれないって書いてあったの。

 まだはっきりとはわからないけれど、卒業しても任官されない可能性が高いって……」


 その言葉が、溶けかけた甘さのように、静かに胸に沁みていった。


「それって……雅延王殿下が関わってる?」


 時子は言葉を選びながら、そっと問い返した。


「それもあるけれど……雅延王殿下だけじゃなく、桂川宮家――

 いえ、もしかしたら陛下ご自身も関わっているかもしれないの」


 妙子は声を潜め、枕元に肘をつきながら続ける。


「時子は知ってるかわからないけど、絢子は靖久親王殿下を“直接治癒”して差し上げたのよ。

 ここからは完全に私の推測だけど……絢子は、親王殿下の命の恩人そのもの。

 だから、叙勲程度ではすまないと思う。

 叙爵とか――もしかしたら、公爵家に養女になって宮家に婚姻とか……そんな話も出ているかもしれないの」


 妙子は、最後のひと口になったアイスクリンをじっと見つめながら言った。


「後西院家は伯爵家。

 その身分では、雅延王殿下へは嫁げない――そんな話を、台湾でしたわね……。

 でも、絢子さんはそういう華族社会の窮屈さを嫌って、士官学校へ飛び込んだのでしょう?」


「うん。それが、公爵家だの宮家だの――。

 そもそも、たとえ雅延王に嫁げたとしても……絢子がそれで幸せになれるのか――私にはわからない。」


 妙子の声は、憐憫とも、哀しみともつかぬ響きを帯びていた。


「まあ、卒業式には来るつもりみたいだし、そのときに全部わかるわよ。

 ――それよりも」


 時子の声音が少し明るく変わる。


「私に、言うことあるんじゃないですかねぇ? 渡辺妙子候補生」


 彼女は匙の先で妙子を指し、いたずらっぽく口を尖らせた。


「言うこと?」

 妙子は、きょとんとした顔で首をかしげる。


 時子はにやりと笑い、本題に切り込んだ。


「台湾から帰って――何か、いいことがあったんじゃないですか?

 たとえば、“恋人ができた”とか……」


 妙子は一瞬、虚をつかれたように固まり――次の瞬間、盛大に赤面して布団に突っ伏した。


「ちょ、ちょっと待って! えっ、なんで時子、知ってるの!?

 あんた、あの時まだ寝てたじゃない――あーーーっっ、斎部に聞いたでしょ!」


「いいえ?」

 時子は涼しい顔で匙をくるくると回しながら言う。

「私が目を覚ましたときね、海野が盛大に寝言を言ってたの。

 『妙子! 俺はお前に結婚を申し込むぞ! 否とは言わせない!』――って」


「ひ、ひぃぃぃぃっっ!! なんでそれ聞いてんのよぉぉぉ!!」

 妙子は布団の中でのたうちながら、悲鳴を上げた。

 時子はもう堪えきれず、笑い出した。


「で――あんたたちは、どこまで進んだの?」


 時子がニヤニヤと笑いながら尋ねると、

 妙子は顔を真っ赤にしながら、ここぞとばかりに叫んだ。


「て、手……つないだ! あと、く、口づけもっ!

 あああああ――――っっっ!

 あんたたちに比べたら、お子様ですよーっっ!

 どうせ帰りの船でも、仲良く乳繰り合ってたんでしょーっっっ!」


「ちょ、ちょっと待って!? やってないから!

 五月に旅順を出てから、いかがわしいことなんて一度もしていないっっ!!」


 時子は真っ赤になり、両手をぶんぶん振った。


「旅順まではやってたんじゃないっ!」


 妙子は布団の上で転げ回りながら笑い、

 その笑い声につられて、時子もついに吹き出した。


 寮の灯の下に、二人の笑い声が、いつまでも響いていた。

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