第丗四話 口づけの刻、神は降る

 妙子が目を覚まし、絢子が出て行くのと入れ替わるように、林軍医監と衛生兵一名が現れた。

 昨日の戦闘の処置がようやく一段落したところで、桂川宮の指示により、候補生たちの再診を命じられたのだという。


「後西院候補生の処置の後とは、ちょうど良いところへ来ました。渡辺候補生は、我々でも対応できるほどに回復しています。」


 妙子の診察を終え、聴診器を外した林軍医監は、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「薬と栄養をしっかり摂れば、戦線への復帰も遠くはないでしょう。」


 林軍医監は言いながら、今度はベッドの上の時子を見下ろす。

 彼女の呼吸は穏やかで、顔色も悪くない。けれど、どれほど呼びかけても、瞼は開かないままだ。


「川村候補生はまだ目覚めませんか。いつ意識が戻ってもおかしくはないのですが……私の手には負えませんな。

 ――川村候補生と斎部候補生は、しばらく傷の化膿に注意を。これからも毎日衛生兵をよこしますから、患部は清潔に保ってください。」


 彼は静かにそう言い残し、衛生兵とともに病室を後にした。

 残されたのは、時子の寝息と、消毒薬のほのかな匂いだけだった。

 林軍医監の所感を聞いた桃蘇中将と伊狭間中佐も、一礼して幕屋を後にした。


 再び静寂が戻る。

 海野はいそいそと吸い口の水を用意し、妙子へと差し出した。


「海野……ありがとう。」


 妙子は吸い口から唇を離し、少しかすれた声で彼を見上げる。

「……後西院のおかげだ。俺は何もしていない。」


 海野が情けなさそうに視線を落とすと、妙子はゆるく首を振った。


「いいえ。絢子の神威もだけど、それまでずっと――私に話しかけて、神威で包んでくれていたでしょう?

 あれがなかったら、私はきっと命を落としていたと思うの。」


「え……?」


「私ね、たぶん、三途の川のほとりまで行っていたのよ。……ほんとうよ?

 大きな川の向こうに、綺麗な花畑があって――子供の頃に亡くなったばあやと、三つのときに死んだ弟が、並んでおいでおいでって、手招きしていたの。」


 海野が目を見開き、吸い口を横の卓に置くと、両手で妙子の手を包み込んだ。


「川にね、一歩ずつ近づくたびに、全身の痛みが引いて、身体が軽くなって、気持ちよくなっていくの。

 だから私、このままあっちへ行ってしまおうって――思ったの。

 そしたら、海野の声が聞こえたのよ。『帰ってこい』って、『逝くな』って。

 それから、あなたの神威も――」


 妙子はかすかに微笑み、海野の手を握り返した。


「海野……帰ってきたよ。」


 微笑む妙子の顔を、海野は言葉もなく見つめた。

 やがて、その瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。

 涙はとめどなく頬を伝い、彼は握りしめた妙子の手に額を押し当て、嗚咽をかみ殺した。


「……よかった……ちゃんと届いたんだな……よかった……」


 とぎれとぎれに言葉を漏らす海野に、妙子はくすりと笑みをこぼし、ゆっくりと体を起こす。

 空いているもう一方の手を伸ばし、黒々と少し硬い彼の髪を撫でながら、やさしく言った。


「……ふふ、男がこんなことで泣かないの。でも、ありがとう。」


 それから、妙子はゆっくりと清至の方へ視線を向けた。


「斎部。……刺して、ごめん。裁きは受ける。致命傷にならなくてよかった。」


 少し低く、改まった声で妙子が言う。

 清至はベッドに頭を預けたまま、静かに答えた。


「お前が精神干渉を受けていたことは、すでに認められている。

 そのうえで――俺を守るために抵抗を試みたことも、だ。

 おかげで俺は生きている。お前は罪には問われない。」


「そう……」


 妙子は複雑な表情を浮かべると、ふっと目元に疲労の色を滲ませ、そっとベッドへ身を横たえた。


「――疲れた……もう一眠りさせて……

 海野……もう少しだけ、あなたの神威を……私に送ってくれるかしら……」


 そう言って、彼女は海野の腕を抱きしめ、身体を小さく丸める。

 深く息を吐くと、そのまま静かに瞼を閉じた。



 +++++


 その夜、森本は自分の幕屋へ戻り、海野は妙子の傍らで眠っていた。

 清至だけが、妙に冴えた頭のまま、ずきずきと痛む肩を意識しながら、薄明かりの中で時子の寝顔を見つめていた。


 彼女は、規則正しい寝息を立て、寝言ひとつ発さず、眉ひとつ動かさない。


 ――時子さんと斎部殿は、天津神と国津神の理の外にいる者。

 私には、何もしてあげられない……。


 昼間の絢子の言葉が、静かな夜気の中に蘇る。

 たしかに、彼女の神威が幕屋の空気を満たし、場が浄化されていくのを感じた。

 だが、それが自分や時子の神威、あるいは肉体に影響を及ぼしたのか――その実感はなかった。


 そもそも、楊の結界も、妙子の通信を遮れこそすれ、時子の結界には一切影響を及ぼせなかったのだ。


 理の外にある神、戸神名神とかむなのかみ美都香比売みとのかびめ

 父・清孝の記録によれば、彼らは今からおよそ四千年前に生まれた神だという。


 人類の歴史を二千年ほどとする学者もいる中で、四千年とはずいぶん大きく出た話である。

 だが、天照大神の神威も、中華の四千年に連なる武神たちも手を出せぬ――異なる理のもとに在る存在だというなら、さもありなん。


 けれども、眷属もなく、影響し合えるのはただ互いのみ――。

 その圧倒的な孤独と唯一性を、この日、清至ははっきりと思い知らされた。


 絢子の祈祷に、まったく期待しなかったわけではない。


 けれども、「私には、何もしてあげられない……」という彼女の声を聞いたとき、

 清至の胸に去来したのは――恐怖と、落胆と、そして圧倒的な独占欲だった。


 時子の手を取り、その純潔を奪い、妻神として据えた今――

 自分を変えるのも、彼女を癒すのも、もはや互いしかいないのだ。


 清至は、物音を立てぬよう静かに身を起こし、

 ゆるやかにベッドへ身を乗り上げた。


 指先で彼女の滑らかな頬をなぞる。

 その感触に、ふいに胸の奥で震えが走る。

 気づいてしまった。

 この独占の愉悦こそが、

 自分の中に眠る“神の本能”なのだと――。


「起きろよ……時子……我が妻……」


 彼女の唇の輪郭を指の腹でなぞりながら囁く。

 けれども、時子は目を覚まさない。


 二日間、清至はずっと彼女の手を握り、神威を、陽の気を、

 さらには炎の異能までも流し続けてみた。


 それでも彼女は眠ったままだ。


 焦りと渇きが胸の内で絡み合い、理性の境をひそやかに侵していく。

 癒したいのか、奪いたいのか――その違いさえ、もはや分からなかった。


 清至は時子の唇を見つめた。

 桜色のそれは少しかさつきながらも、ひどく美しい。

 ただ見つめるだけで、胸の奥に熱がこもる。


 あたりの気配を探る。

 起きて動く者の気配はない。


 清至は時子のおとがいに指を添え、そっと上向かせた。

 かすかに開いた唇から、静かな吐息がこぼれる。


 時子が結界を張るようになってから、二人は頻繁に手を取り合い、陽の気を送り合ってきた。

 だが、台北を発って以来、それ以上の触れ合いは避けてきた。

 戦場では、たとえ特務局から夫婦と認知されていても、そうした行為が許される空気ではなかったのだ。


 いざ、その禁を解こうとする今――

 たかが口づけひとつなのに、胸の奥が妙に熱を帯び、鼓動が高鳴る。


 清至は、口から心臓が飛び出しそうな気さえした。

 それでも、ゆっくりとまぶたを閉じ、彼女の唇へと自分の唇を近づけていく。


 唇と唇が触れ合う、その刹那――

 世界が、音もなく時を止めた。


 次に気づいたとき、清至は真っ白な空間に立っていた。


 眼前には、見覚えのある簡易ベッド。

 その上で、時子が横たわり、

 そして自分が彼女に覆いかぶさり、今にも口づけしようとしている。


 ――それを、第三者の視点で見ていた。


 背後から、カツ、カツ、と乾いた足音が響いた。

 清至ははっとして振り返る。


 金色の髪に、抜けるような天色の瞳をした若い男が、

 楽しげにこちらへ歩み寄ってくるところだった。


『どう? 自分の艶事を、客観的に眺めるって。

 必死で、滑稽で――それでいて、美しいだろ?』


 男は、ニヤニヤと口端を歪め、ベッドの上の二人を愉快そうに見下ろしている。


「……悪趣味だな。おまえは誰だ。」


 清至が忌々しげにベッドから目をそらし、低く問いかける。

 男はそんな清至の反応をいっそう面白がり、口端に笑みを深めた。


『わかってるくせに。君の予想を言ってごらんよ。』


 清至は目を細める。

 その髪の色、その瞳の色――そして、この非現実の空間。

 彼はその伝承を、父から聞いていた。


「……戸神名神とかむなのかみ。」


『ご明察!』


 神はパチンと両手を打ち鳴らし、満足げに微笑んだ。


『僕が君をここに招いたのは、他でもない。――君に最終確認をしたくてね。

 この娘は、たとえ君と身体を繋いだとしても、まだ正式な依り代とは定まっていない。

 今ここが、君が引き返せる最後の時だ。』


 神はカツ、カツ、と靴音を響かせながら、清至の周りをゆっくりと歩き始めた。

 気がつけば、その姿は陸軍大将の正装に変わっている。


『――川村時子。いい女だねぇ。

 僕の数千年の記憶の中にも、あれほどの女は数えるほどしかいない。

 だが、あれに決めてしまえば――君では太刀打ちできないよ。

 尻に敷かれる。その気配、もう感じているだろう?』


 神は清至の正面まで歩み寄ると、

 手を背に組んだまま、ぴたりと立ち止まった。

 ゆっくりと顔を向け、淡い笑みを浮かべる。


『――妻神の神威を、余すところなく振るう彼女に、

 君は、かしづくほかない。

 彼女は君を立てるだろう。だが、本質的には――君は従僕だ。

 それでも、彼女を選ぶのかい?』


 神の問いかけに、清至は刹那の迷いもなかった。


「――当たり前だ。俺は時子を選ぶ。あれは、俺の運命だ。」


 その答えに、神は満足げに頷く。

 その笑みは、どこか慈愛にも似ていた。


『うん、上出来。それでこそ――僕の依り代だ。』


 神はそう言うと、ゆっくりと清至の方へ身体を向け、歩み寄ってきた。


『――口づければ、彼女は目覚める。

 次に交われば、彼女は依り代として覚醒する。』


 一歩、また一歩と、神は距離を詰めていく。

 ついには清至の眼前まで迫り、その蒼い瞳が真正面から彼を射抜いた。


『――健闘を、祈る。』


 その言葉とともに、神は最後の一歩を踏み出す。

 輪郭がゆらめき、スッと清至と重なった。

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