第丗三話 祈りの幕屋

「川村候補生は、たいしたものだな……。意識を失ってもう二日になるというのに、結界にいささかの揺らぎも見られん。」


「桂川宮殿下を中心に、寸分の乱れもなく張り続けております。――まあ、それ以前から、就寝中も途切れずに維持していたことに、もっと早く驚くべきだったのかもしれませんが。」


 救護室として張られた幕屋の中には、簡易ベッドが二つ並べられていた。

 幕屋の入口では、桃蘇特務中将と伊狭間特務中佐が、声をひそめて言葉を交わしている。


「しかしな……まさか、結界の明滅によって、自らの危機を知らせてくるとは。」


 桃蘇がわずかに笑みを浮かべると、伊狭間も苦笑まじりに首を振った。


「あれをモールス信号と見抜かれた中将閣下も、さすがでございますな。」


「ふっ、だてに二十年、将校をやってはおらんさ。」


 彼らの視線の先では、渦中の時子が、こんこんと眠り続けていた。

 傍らには、その手を握りしめたまま憔悴しきった清至が座り込んでいる。

 ベッドの縁に頭を預け、まどろみの中にいるようだった。


 彼自身も、操られた妙子に背を刺されていたが――肩甲骨と、土壇場での妙子の意思が刃を逸らし、かろうじて致命を免れたのだ。


 その妙子はといえば、身体こそ無傷であったが、精神操作に抗おうとした反動で、あの戦闘ののち一度も目を覚ましていない。

 精神回路を深く損傷している可能性が高く、林軍医監からは、永く昏睡が続くやもしれぬ――と告げられていた。

 彼女には主に海野が付き添い、彼の神威をもって何かできぬかと試みていた。

 しかし、その異能も神威も、戦闘や威圧には長けていても、癒やしの力にはほど遠い。

 結局のところ、彼にできるのは――ただ、彼女の無事な目覚めを祈ることだけであった。


「……もう目を覚まさないかもしれない、なんて言われて――いまさら気づくなんてなぁ。」


 力なくつぶやいた海野に、清至がゆっくりと目を開け、身を起こす。


「――まだ、決まったわけではないだろう。」


「大丈夫だよ。この二人が、ちょっとやそっとでどうにかなるタマじゃないだろう?」


 森本も、何度目になるか分からない慰めの言葉を口にした。


「川村は斎部がついているから心配ないが――渡辺は……」


 海野が視線を妙子の顔へと移す。

 この二日間、もう何度見たかわからない寝顔だった。

 明るい彼女の声が、いかにこの隊の士気を支えてきたかが、身に染みる。


「俺じゃあ、渡辺に何もしてやれない……ったく、こいつの“K”はどこで何をしているんだか……」


 吐き捨てるように言ったその言葉も、この二日間、海野が繰り返してきた嘆きの一つだった。


「後西院候補生は、昨日前線で戦った将兵の治療に専念している。」


 幕屋の入口から、伊狭間中佐が静かに声をかけた。

 桃蘇中将も、申し訳なさそうに言葉を添える。


「八卦山を陥とせたのは、君たちが楊と戦ってくれたおかげだ。しかし――彼女の治癒の力はいまの帝国軍にとって生命線の一つ。

 動揺を避けるためにも、後西院候補生には君たちのことは伏せてある。彼女が現れぬのは、彼女のせいではないのだよ。」


 多忙を極める身でありながら、ここを訪れているのは、ほんのわずかな罪悪感――そして、罪滅ぼしのつもりでもあった。


「わかっております。……わかってはおりますが――」


 海野は悔しげに拳を握りしめる。


「私も、この子らを助けたい……。だが、私の神威も、治癒には役に立たぬ。……すまぬ。」


 中将は静かに視線を落とした。


 海野は、布団の上に投げ出された妙子の手を取る。

 この二日間、何度も繰り返してきたように――清至の真似をして、自らの神威を掌から流し、彼女の身体を包むように注ぎ込んだ。


 しかし、彼女の表情は、眉ひとつ、目尻ひとつ、口端ひとつ、微動だにしない。


「……くそっ。俺じゃ、ダメなんだよなぁ――」


 口惜しげに吐き出したそのとき、にわかに幕屋の外が騒がしくなった。


「――離してっ! なんで私に黙って……! いいえ、今はそれどころじゃないっ――妙子っ、時子さんっ!」


 近衛兵の一団を振り払いながら幕屋に飛び込んできたのは、絢子だった。

 海野と森本が、はっと顔を上げ、清至もむっくりと頭を上げる。

 桃蘇中将と伊狭間中佐が止める間もなく、彼女はベッドに近寄ると、寝ている二人を見比べながら荒い息をつく。


「一体どういう状況?! 時子さんと斎部殿が刺されて、妙子が意識を取り戻さないとは聞いたけど――」


 絢子が言い返すと、幕屋の入口から将兵の一人が鋭く声を上げた。


「後西院候補生っ! 持ち場を離れる許可は出ておりませんっ。

 勝手な行動は軍紀違反となります、謹んでただちに持ち場へお戻りください!」


「候補生よりも将官を優先なさいっ! ――彼らは前線では戦っていないのです。治癒の順番は、後回しにすべきですぞ!」


 後ろから、大佐の徽章をつけた男が声を荒げた。


「――っ、カメラートを放って、他所を助けろ、ですって?」


 絢子は目を見開き、鬼気迫る表情のままゆっくりと入口へ振り返った。

 彼女の全身から金色の神威が立ちのぼり、瞳は苛烈な朱に燃える。幕屋の空気が凍りつき、温度が一気に数度上がったように感じられ、将兵たちは思わずたじろいだ。


「し……しかし――」


 本能的に退きそうになるのを理性で押さえ込み、大佐はなおも食い下がろうとする。だが、その手前で桃蘇中将がさっと右手を上げて制した。


「上原大佐殿、他科の君においては察しがつきにくいことと存じますが――異能科の候補生にとって、カメラートは肉親に勝るとも劣らぬ存在、半身の如きものにございます。

 それがこのような事態に陥っていると知りながら無理に引き戻せば、彼女は軍を捨てるやもしれぬ。貴重なる治癒の担い手を失うことが、果たして得策でありましょうか。」


 静かに、呟くように言った桃蘇中将に、別の若い将兵が不平をもらした。


「チッ……これだから異能科は。前線にも出ていないくせに、特別扱いかよ……」


 その声を聞き洩らす桃蘇中将ではない。


「貴君が知らぬだけのことだ。この子らは、すでに前線で戦っておる。

 殿下を守るこの結界も、そこで眠る川村候補生が意識を失いながら張り続けている。

 そもそも彼らは、候補生の身でありながら“真武符兵隊”の隊長――楊宜辰と互角に渡り合い、その討伐にも大きく貢献した。

 彼らの働きなくして、この台湾征討戦がいかに過酷なものになっていたか、想像するがよい。」


 その声とともに、桃蘇中将の全身からも神威があふれ出す。

 圧倒的な力の気配に、絢子を追ってきた将兵たちは思わず後ずさった。


「知らぬからこそ、上がそう望むからこそ、これまで黙してきた。――だが、口には気をつけることだ。」


「す……すみませんっ。では、そやつらの治療が終わり次第、ただちに現場へ戻るよう――!」


 大佐は額に冷や汗を浮かべながら言い、兵士の袖を引いて踵を返した。

 桃蘇中将と伊狭間中佐は、忌々しげにその背を見送る。


 その間にも、絢子は時子と妙子を順に診て回り、重傷の妙子を前にして言葉を失った。


「こんなことになっていたなんて……。

 すぐに来られなくて、ごめんなさい。――ここに“斎照の鏡”はないけれど、できる限りのことは、させてもらうわ。」


 言うなり、絢子は両の手を合わせ、その場に膝まづく。

 唇から、静かな祝詞がこぼれはじめた。


 次の瞬間、彼女の掌から光の奔流が溢れ出し、無数の粒子が舞い踊る。

 やがて光は妙子へと集まり、包み込み、――一閃。


 眩い閃光がはじけたのち、すべてが静まり返る。

 空気が落ち着きを取り戻した頃、絢子はゆっくりと目を開け、立ち上がった。


「……時子さんと斎部殿は、天津神と国津神の理の外にいる者。――私には、何もしてあげられない……」


 悔しげに眉を寄せたその刹那、妙子がかすかに唸り声を上げ、目を細く開いた。


「……渡辺?!」


 海野がいち早く気づき、その顔をのぞき込んで手を握り直す。


「う……んの?」


 妙子がかすれた声で、彼を見返した。


「後西院が――お前を助けてくれた! ほらっ!」


 海野が絢子を見上げたとき、彼女はすでに踵を返し、幕屋を去ろうとしていた。


「もう行かなくちゃ。……まだ、私を待っている人がいるの。」


「でも――!」


 森本も思わずその背に声をかける。

 絢子は首だけを少し振り返り、静かに言った。


「――海野さん、妙子をお願い。」


 その唇は、かすかに、寂しげに歪んでいた。

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