第丗二話 遅すぎた救援

 相手が強敵だと悟った刹那、時子の瞳が鮮やかな紫紅に煌めいた。

 次の瞬間、全身から奔流のように神威があふれ出す。


 捕らえられた右腕から、氷の蔦が楊宜辰の手首を這い上がり、瞬く間にその腕を凍りつかせた。

 手から力が抜ける――その一瞬を逃さず、時子は身をひるがえして地を蹴る。

 三歩、後ろへ。

 着地と同時に両手を構えた。


 楊は忌々し気に腕を一振りすると、氷はあっけなく振り払われる。

 それから空を見上げて、時子の結界にまったく揺らぎがないことに、半ば呆れたように苦笑した。


怪哉おかしいな……按我所查私の調べでは川村时子虽川村時子は颇有才確かに才ある女だが然断无此等とてもこのような神力神威はないはずだ

 なぁ、川村時子――、いったい貴様は……何者になったのだ……」


「貴様に説明する必要などないっ!」


 時子は叫ぶやいなや、幾百もの氷刃を放った。

 刃は鋭い風切り音を立てながら、矢のごとく楊へと殺到する。

 しかし彼は、道服の袖と裾をふわりと翻すだけで、その軌道を易々と逸らしてみせた。


「ふむ――、“麹町の喧嘩牡丹イノシシ”の異名は変わらずか。

 気は短く、手が早い……まったく、聞きしに勝る。」


「……なぜ、その名を……」


 陸軍幼年学校・異能女子特別科の出身者しか知らない、ごく内輪の呼び名。

 それが、今しがた会ったばかりの男の口から紡がれた――その事実に、時子は息を呑んだ。


「ふふふ……はははは。

 春日井さき――彼女の遺体は、倭国へ帰ってきたかねぇ?

 ……帰ってきていないはずだ。我らが鹵獲したのだから。

 わざわざ、士官候補生を狙って殺したのだよ。」


 楊は、愉快そうに笑いながら、覗いた記憶を思い返すように目を細めた。


「彼女の記憶は――甘美だった。

 生まれてから息絶えるまでの、少女らしい視点。反吐が出るほど純粋で、脆い。

 だが、おかげで手に入った。

 最新の倭語、そして国外からは絶対に得られぬ、陸軍士官学校異能科の情報をなぁ。」


 時子の脳裏を、記憶が閃光のように駆け抜けた。


 女子寮の玄関前。卜部候補生を見て、はんなりと微笑んだ春日井。

 出征が決まり、生還を誓い合って植え込みの陰で交わした口づけ。

 作戦の都合で卜部と離れ、明日こそ再会できると信じた――その矢先の、襲撃と絶望。


「き……貴様ぁっ!」


 押さえがたい怒りが全身を駆け抜け、頭に血が上る。

 時子は反射的に手を振り上げた。


「落ち着け、時子! 精神介入だっ、挑発に乗るなっ!」


 背後で清至が叫ぶ。


「川村っ、それは俺たちの知らない記憶だ! 楊はお前をわざと挑発してる!」


 海野の声も響いた。


 二人の声が届いた瞬間、時子の視界がぐにゃりと揺らいだ。

 鋭い痛みが頭を貫き、思わずこめかみを押さえる。

 氷の結界の輪郭がにじみ、空気が震えている――。


「くっ……私たちだけじゃ抑えきれないっ!

 妙子っ、誰でもいい、応援を呼べっ!」


 風の異能を持つ彼女は、雷をも操り、通信術に長けていた。

 伝令は、何よりも彼女の得意とするところ――そのはずだった。


「さっきから呼んでるっ! でも――誰も来ないのっ!」


 妙子は蒼ざめた顔で、歯を食いしばりながら叫んだ。


「誰も来ないぞぉ。そんなこと、させるものか……川村時子。

 貴様の息の根を止め、結界を解かせるまでは――!」


 楊はニヤリと笑うと、右手をブンと振り上げた。

 その掌には、いつの間にか三叉の鉾が握られている。

 同時に、額の中央で“第三の目”がぱっくりと開いた。


 次の瞬間、彼の全身からあふれんばかりの神威が噴き上がり、

 青白い雷撃となって空気を裂く。

 長い辮髪と道服の裾が、重力に逆らってふわりと舞い上がった。


「私も研究したのだよ――。

 四千年の粋を集めた、我が“真武符兵隊”を容易く薙ぎ払った、倭国の神威とやらをな。

 隊は壊滅したが、私は手に入れた……

 ――武神・清源妙道真君の力を。」


 楊の輪郭が、ゆらりと歪んだ。

 道服の裾が溶けるように形を変え、瞳の色が、異様な青に染まっていく。


「私は、何にでも擬態できる。

 そう……たとえば、倭国最強の男――斎部清孝にでも。」


「え……」


 男が微笑んだその瞬間、

 五人の前に立っていたのは、陸軍中将の軍服を纏うひとりの男――。

 清至の父にして、帝国最強の異能者、そして“英雄”の名を欲しいままにした人物。


 斎部清孝が、そこにいた。


 彼はいつの間にか、手にしていた得物――軍刀を抜き放ち、正眼に構えた。


「川村時子、覚悟しろ。貴様の息の根を止める。」


 その声は、斎部清孝そのものだった。

 刀の切っ先まで神威が滾り、空気がびりびりと震える。

 そして、男は一気に時子へと斬りかかった。


 時子が氷壁を立ち上げようとした、その刹那――

 背後から清至が飛び出す。

 炎と神威を纏わせた刀を振りかざし、楊の軍刀を受け止めた。


 刃と刃が競り合い、火花が散る。

 ぶつかり合う神威は確かに同質で、その模倣の精巧さに、時子は息を呑んだ。


 脇から海野が斬り込み、後方では森本と妙子が異能による援護射撃を放つ。

 五人がそれぞれの持ち場を守り、時子を中心にして楊を囲む構図となった。


 だが、楊の一撃一撃は、まるで本物の斎部清孝のそれのように重く、鋭かった。

 いかに優秀な候補生といえど、その力は余りある。


 多人数で攻めても、じわじわと押されていく。


 清至が踏み込みざまに弾き飛ばされ、

 振りかぶった海野の得物が宙を舞う。

 放たれた神威の威圧が、疲労の蓄積した妙子と森本を襲い、

 二人は思わずひざを折った。


 ――どうしよう……勝てない、このままでは。


 絶え間なく氷刃を降らせ続ける時子の胸に、焦りが滲んだ。


 ――どうしたら援軍を呼べる? どうしたら、この危機を友軍に伝えられる?


 せわしなく思考を巡らせ――

 やがて、ひとつの可能性に辿り着く。


 ――そうか。私たちは楊の結界の中にいる。

 にもかかわらず、私の結界は陣に貼られたまま……ならば――。


 いつもは抜かない軍刀の柄に、手が伸びた。

 時子は口端に微笑を浮かべ、軍刀を抜き放つ。

 その瞬間、全身に冷気と神威が滾り、彼女の周囲の空気がきしんだ。

「たぁぁぁぁっっ!」


 咆哮を上げ、時子は楊へと切り込んだ。


「時子っ、無謀だっ!」

「無茶よ、やめてっ!」


 清至と妙子の声が響く。

 しかし、時子は止まらなかった。


 刃がぶつかり合い、火花が散る。

 圧されるたびに、陣を覆う結界がチカチカと明滅し、空気が不安定に震えた。


 ――お願い……気づいて……


 時子は必死に斬撃を受け止めながら、心の奥底で祈る。


 吹き飛ばされた清至が再び立ち上がり、刀を構える。

 だが、手足にしびれが走り、うまく力が入らない。


 刃が時子の頬をかすめ、ひと房の髪がはらりと闇に散った。


 次の一撃が迫る。


 ――もう、避けられない……。


 時子は覚悟して目を閉じ、それでも最後の抵抗とばかりに、

 氷と水と神威で織り上げた防御壁を展開した。


「時子ぉぉぉっっ!」


 清至は痺れる四肢に鞭を打ち、

 残された力を振り絞って駆け出す。


 ――そして、それは同時だった。


 時子の肩に“三叉の鉾”がめり込むのと、

 清至の背に軍刀が突き立てられるのと――。


「――……」


 予期せぬ衝撃に、清至が目を見開いた。

 一言も発せぬまま、前のめりに崩れ落ちる。


 彼の背に軍刀を突き立てていたのは――妙子だった。


「な……んで……」


 愕然と見開かれた海野の目に映る彼女は、

 一切の表情が抜け落ち、うつろな光のない瞳をしていた。


 時子もその場に崩れ落ち、負傷した肩を押さえる。

 結界はチカチカと不安定に明滅し、今にも崩れそうだった。


「はははははっ! そこの坊主に邪魔されたくありませんからねぇ!

 どうですか?! 仲良しのお仲間に刺される気分は!

 ――ちょっと心に隙があれば、小娘ひとり操るなど朝飯前!」


 楊の笑い声が、唐突に途切れた。


……」


 彼の腹から、一本の刃が突き出ていた。


「……間に合った、か?」


 楊を背後から刺し貫いたのは、桃蘇阿多香特務中将だった。

 彼女は素早く刀を引き抜き、続けざまに袈裟懸けに斬り捨てる。


 時子はその姿を見届けながら、ふっと口端をゆるめた。


「――少し、遅かったかも……」


 表情がぐしゃりと歪み、彼女はそのまま後ろへ倒れ込んだ。


 風が止み、戦場は静まり返る。

 ただひとつ――時子の結界は、揺らめきも瞬きもせず、淡い紫の光をいつものように放っていた。

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