第丗一話 祓と顕現

 絢子は自室で軍服を脱ぎ、内地から念のために持ってきていた采女の衣装に袖を通した。

 ちょうどその時、帰ってきた妙子がドアの前に立つ雅延王の姿を見て驚き、慌てて敬礼をしてから室内へ入る。


「ああ、ちょうどいいわ。――やはり大神は見ておられるのね。

 妙子、これから祓の儀を執り行うのだけれど、手を貸してくださる?」


「いいけれど……何をすればいいの?」


 妙子がたずねると、絢子は部屋の端、卓の上に置かれた木箱を指さした。


「私は神楽鈴を持つから、その箱をお願い。」


「いいけど……何が入ってるの?」


「御神鏡よ。神宮から賜った“斎照の鏡”。」


「ひっ、そんな大層なもの、私に預けていいの?!」


 妙子は思わず手を引っ込める。

 絢子は微笑みながら卓へ歩み寄ると、木箱の下に敷かれていた緋色の絹布ごと持ち上げ、ひょいと妙子の手に押し付けた。


「いいの。あなたなら信頼できるわ。

 私のカメラートを務められている時点で、大神もあなたを認めているもの。」


「そうは言っても……ねぇ」


 押しつけられた妙子は、緊張のあまり、まるで儀典官のように背筋を伸ばし、うやうやしく箱を捧げ持つ。

 その様子にもう一度ふふっと笑うと、絢子は桐箱から神楽鈴を取り出した。


「では、私が先行するから、妙子は私の後ろへついてきてね。」


「了解――って、どこへ!?」


 妙子の焦る声には答えず、絢子はきびきびと歩き出した。


 廊下で合流した雅延王は、軍服とはまた異なる、絢子の凛然とした采女装束に思わず息を呑んだ。


「――さあ、参りましょう。」


 挑むようでもあり、神前に立つ巫女のようでもある自信に満ちた眼差しに、

 雅延王の頬には、かすかな朱が差した。




 絢子たちが案内されたのは、木々に囲まれた、風通しのよい露台だった。

 その中央には藤製の寝椅子が据えられ、桂川宮靖久親王が静かに横たわっている。


 今日はことのほか体調がすぐれぬらしく、眠りながらも、時折苦しげにうめき声を漏らしていた。

 傍らには林軍医監と衛生兵が控え、親王の介抱にあたっていたが、絢子の姿を認めるや、すっと露台の隅へと下がった。


「では、妙子。鏡をこの卓へ。」


 絢子は寝椅子の前に置かれた小卓を指さす。妙子が箱をそっと置くと、絢子は神楽鈴を預け、箱から鏡台と御鏡を取り出した。

 角度を慎重に調え、反射光が桂川宮をやわらかく照らすように合わせる。


「――それでは、祓えの儀を執り行います。

 軍医監殿、殿下がお召しになるお薬を御鏡の前へ。

 わたくしの神威を帯びた薬でしたら、よりよく効くでしょう。」


 衛生兵は一瞬、眉をしかめたが、林軍医監が静かにうなずくと、

 彼はくすり箱を掲げ持ち、御鏡の前へとそっと置いた。


 すべてが整うと、絢子はひざまずき、深く礼拝する。

 声を発せずに祝詞を唱えると、太陽の光がひときわ強まったように感じられた。


 やがて、ゆるやかに立ち上がる。


 ――シャン。


 神楽鈴が澄んだ音を立てた。


 絢子はゆったりとした所作で、幽玄の舞を舞う。

 鈴の音が響くたび、場の空気が清められ、澄み渡ってゆくのを、その場にいた誰もが感じ取った。

 千早が翻り、艶やかな烏の濡羽色の髪が風に舞う。


 彼女の舞は太陽の御光と清浄な風を呼び、

 やがてあたりの空気は、細やかな光の粒子に満たされていった。


「……美しい」


 絢子が再びひざまずき、舞の動きを止めたとき、

 思わず漏れた雅延王のつぶやきが、清められた空間に静かに響いた。


 その声に我へ返った林軍医監と衛生兵が、慌てて桂川宮のもとへ駆け寄る。

 親王の顔色は血の気を取り戻し、苦しげだった表情は和らいで、

 呼吸もゆるやかに整っていた。


「……すばらしい。

 これが――斎王いつきのおおきみの御力なのですね……」


 絢子の傍らに片膝をつき、そっと手を差し伸べながら、雅延王は感嘆の言葉を洩らした。


「いいえ、私は斎王ではございません。

 かつての斎宮でございました。

 ――私は依り代。

 ――私は舞台。

 ――そして、私は御座みくら。」


 謎かけのように呟きながら、雅延王を見上げた絢子の瞳は、朱を帯びた金に輝き、

 その唇は、玉虫色の光を宿して妖しくきらめいた。


 彼の手を取った彼女は、確かに天照大神の神威を宿していて――


 雅延王は、息を呑んだ。

 神の御手を握っているはずなのに、その温もりはあまりにも人のものだった。

 その瞬間、胸を焦がすような熱が走る。

 離さねばならぬと知りながら、指先はわずかに震え、どうしても解けなかった。



 +++++



「時子〜っ! どうしよぉぉぉぉぉ、絢子がお嫁に行っちゃうぅぅぅぅぅ!」


 露営の幕屋に、妙子の悲鳴が響き渡った。

 時子は半ば呆れながらなだめ、清至は耳を指でふさぐ。

 海野と森本は、面白そうにニヤニヤしている。


 八月下旬。

 時子の結界と絢子の祓の儀、そして軍医監たちの奮闘によって、徐々に病魔を退けていった帝国軍は、

 彰化・八卦山へと兵を進め、いよいよ決戦の時を迎えようとしていた。

 桂川宮も前線へと赴き、それに随って時子たちも、親王の護衛として前線へ従軍していた。


 時子は相変わらず清至の補助を受けながら、結界を展開し、呪詛を防いでいた。


 一方、絢子は最初の祓の儀以来、雅延王がまるで侍従――いや、信奉者のようになってしまい、

 四六時中、彼が付き従っている。

 絢子もそんな彼を巧みに使い、軍のあちこちを巡っては兵士たちに祓えの儀を施しており、

 時子たちと共に過ごす時間は格段に減っていた。


「妙子、気持ちはわかるけれど、絢子さんは大切なお勤めをなさっているのだから――」


 時子がとりなすと、横から海野が茶々を入れた。


「でもなぁ、俺はわかるぜ。雅延王殿下のあのご様子、後西院を見つめるあの視線――ただ事じゃないからなぁ」


「そのうち新聞社にすっぱ抜かれるんじゃないかな。

『高貴な御方と候補生の茨の道』とか……ぼかされはするだろうけど、ねぇ」


 森本が頬杖をつきながら、面白がるように言った。

 妙子は涙目になって、じとりと海野たちを睨む。


「あんたたちはいいわよ。海野と森本は、それぞれ結婚したって一緒に仕事するんでしょ?

 時子と斎部はそのまま夫婦神だし――。

 でも絢子が殿下に嫁いじゃったら、一人ぼっちになった私はどうしたらいいのよぉ」


「しかし、それは無理ではないか。後西院家は由緒正しい家とはいえ伯爵位……王に嫁ぐことはできまい。

 後西院自身もそれをわかっていて、殿下を利用しているにすぎぬように見える」


 清至が冷静に言うと、妙子は勢いよく首を横に振った。


「それはそれで、殿下が不憫よぉ。

 愛しているのに結ばれないなんて……あぁ、なんて悲しいのかしらぁ」


「めんどくせぇ女だなぁ。じゃあ、後西院に振られたら、俺んとこ来るか?

 相棒でも嫁でも、どっちでもいいけど――」


「ちょっと幸昌っ! 僕を捨てるって言うの?!」


 うんざりした顔で言った海野に、森本が光速で振り返った。


「海野じゃやだぁ、森本はもっとヤダ〜!」


「ぐはっ、渡辺ひどいっ!」


 森本が大げさに胸を押さえて見せる。

 誰かがぷっと噴き出し、やがて五人は腹を抱えて笑い出した。


「ねぇ、清至。戦が終わって――卒業したら、みんな、どうなるんだろうね……」


 陽の気の補充の時間になったことに気づいた時子が、清至に手を差し伸べながらたずねた。


「変わらんだろう。任務で別れ別れになることはあっても、俺たちはずっと異能特務局所属だ。

 退役したとしても、第十五期生であることは、一生変わらん。」


 清至は差し出された手を、宝物のように両手で包み、そっと目を閉じて陽の気を送った。

 その様子に、笑っていた三人もすっと押し黙る。


 時子の結界越しに見える、紫がかった半月が、ゆっくりと山の端へ沈みかけていた。


 候補生の幕屋に影が差す。

 やって来たのは、いつも林軍医監のそばに控えている衛生兵だった。


「川村候補生。桂川宮殿下がお呼びです。すぐにお越しください。」


「私……ですか? 後西院候補生ではなく?」


 時子はいぶかしげに眉をひそめた。

 彼女が重要な任に就いているのは確かだったが、

 桂川宮本人から呼び出しを受けるのは、これが初めてだった。


「――はい。川村候補生です。」


 言い切られて、時子は不思議に思いながらも清至の手を離し、立ち上がって彼に近づく。


「わかりました。参りましょう。――斎部候補生は同伴しても構いませんか?」


「いいえ。おひとりでお越しください。」


 衛生兵はそう答えると、時子へ歩み寄り、彼女の手をむんずとつかんだ。


 その瞬間だった。

 青白い電撃のような神威が、時子の全身を駆け抜ける。


「うっ……!」


 鋭い痛みに、時子は思わず目をつぶった。

 神威を持つ清至と海野が、即座に異変を察知し、脇に置かれた刀へと手を掛けた。


「おっとぉ――もう気づいたのかねぇ? 少し、おまえたちを侮っていたようだな……」


 時子の腕を、握りつぶさんばかりの力でつかんだまま、

 衛生兵の顔が、ぐにゃりと歪んだ。


「――っ……おまえは、誰だっ!」

「帝国軍の兵ではないな!」


 清至と海野が刀を構え、妙子と森本を背にかばう。

 その者から発される気配は、恐ろしく強大で、

 ただものではないことが一目でわかった。


「――いかにも。」


 やがて、相手の本当の顔が現れる。

 その顔を、候補生たちは皆、知っていた。


 台湾への渡航が決まったとき、

 頭に叩き込まれた敵の姿絵――。


 清国異能部隊 真武符兵隊の元隊長。

 今は、道教の武神の化身を名乗る男――

 楊宜辰だった。

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