第丗話 結界と祈り

 掃討作戦から一週間。

 時子たちの小隊は幾度かの民兵との戦闘を経験し、いくつもの村を焼いた。

 生死の境をさまようような緊張の中で、時子はただ、生き延びることに必死だった。

 あの少女を撃って以来、何人かを手にかけたが――悔やむ暇さえ、もうなかった。


 そして七月の下旬、隊にはいったん本部への帰還命令が出た。

 異能に関して新たな進展があったとのことで、候補生たちが招集されたのだ。


 本部に戻ると、先に帰還していた絢子たちが出迎えてくれた。


「良かった……時子、斎部殿も。海野も森本も、みんな無事だったのね」


 絢子はそのまま腕を広げ、泥と汗にまみれた時子を力いっぱい抱きしめた。


「絢子さんも無事で本部に辿り着いたのね。――やだ、私、臭いでしょ。一週間、水浴びもしていないのよ」


「そんなの、気にするわけないじゃない」

 絢子の声は、安堵と涙で少し震えていた。

 妙子も後ろから駆け寄ってきて、絢子と共に時子を抱きしめた。


 一方、伊狭間特務中佐は清至たち男三人に近づき、こちらも無事を喜び合っている。


「絢子さん、あの呪符はどうなったの?」


 ひとしきり安堵の声を交わしたあと、時子が気になっていたことを尋ねた。


「ああ、あの後すぐに桃蘇特務中将が、出征している卜部家や後西院家など、陰陽道や神事に通じた局員を集めてくださってね。無害化は済んだの。――ふふ、私も解呪に参加したのよ。いい経験になったわ」


 絢子は少し得意げに胸をそらした。


 そうして笑い合っていると、奥から桃蘇特務中将が姿を現し、士官候補生たちを招いた。


「皆、ご苦労だった。

 初日の後西院候補生の判断により、呪詛を行っている集団の存在を確認できたこと、そしてそれを一つ潰せたこと――その意義は大きい。

 ……だが」


 彼女は腕を組んだまま、低く声を落とした。


「君たちの隊のように、適切に処置できた部隊は多くはない。

 今さらながら、台湾上陸時に特務局の士官級を散開させてしまったことが、あだとなっている。

 彼らはすでに各地で動いており、この事態を即座に報告するすべもない。

 そして、一般部隊には、呪詛を感知し、正しく対処できる者がほとんどいないのだ。」


 絢子たちはすでに事態を知っていたのか、視線を落とし、黙り込んでいた。

 一方、今帰還したばかりの時子たち候補生は、事の深刻さを測りかねて、ただ桃蘇中将を見つめるばかりだった。


「桂川宮殿下をはじめ、山本第二師団長など、多くの将兵が体調不良を訴え始めている。だが、実際のところ、それが呪詛の影響なのか、あるいは単なる風土病なのか――判断はつかない。

 軍医殿は医療の面から、我々本部の神威持ちは呪詛返しの面から対策を進めているが、どうにも人手が足りない。

 よって、君たちにも本日より呪詛返しの祈祷隊に加わってもらう。」


「呪詛返し――でありますか?」


 清至がわずかに戸惑いを見せて聞き返した。


「ああ。海野候補生は、ご実家でもこうした祈祷に携わっているだろう。

 斎部家は、その種の神威ではなかったな。

 だが安心したまえ。君の妻神――川村候補生は結界が張れる。君はその補助に回ればいい。」


「そうなのか?」

 清至が尋ねると、時子は静かにうなずいた。


「ええ。りよさまから、少し教わっているわ。……うまくできるかはわからないけれど」


「おお、りよ殿の教えか。それならば安心だ。――自信を持ちたまえ」


 桃蘇中将はぱっと表情を明るくし、時子に柔らかな笑みを向けた。



 +++++



「特務局の怖さって、これよねぇ……。ただの候補生なのに、神威や異能次第で、やってることは将官にも匹敵するって……」


 妙子は薄紫の膜がかかった空を見上げてため息をつく。


「妙子、買いかぶり過ぎよ。私は私のできることをしているだけだわ。

 それに――私一人の力じゃない。清至がいるから、できるのよ?」


 本部に帰営して翌日から、時子は結界を張り始めた。


 りよによれば、斎部の妻神――“美都香みとのか比売ひめのみこと”の力は、神代の昔、神津毛国かみつけのくに一国を滅ぼしたほどのものだったという。

 その力はあまりにも強大で、清至との婚姻が未だ不完全であるにもかかわらず、時子は師団司令部全体を常時覆う規模の結界を展開することができた。


 代償として、時折清至と手を握り合い、陰陽の気の均衡を保つ必要があった。

 だが、その結界の内側にいる限り、台湾各地から押し寄せる呪詛の波からは守られ、桂川宮をはじめとする高官たちの体調も、いくらか回復の兆しを見せた。


 とはいえ、体調不良の原因がすべて呪詛というわけではなかった。

 熱帯特有の風土病――マラリア、赤痢、そしてコレラが、旅団全体をじわじわと蝕みつつあった。


「時子、そろそろ時間だ。――手を」


 そばに控えていた清至が、懐中時計を確認しながら手を差し出した。


「あ、はいはい」


 時子がその手を取ると、清至は静かに目を閉じ、陽の気を彼女へと送り込む。

 その様子を見ていた妙子は、くすりと笑った。


「中野学舎にいた頃とは、まるで反対ね。

 まさか時子が斎部に陽の気を分けてもらって、調整が必要になるなんて」


「本当に、ね。」


 時子も眉を下げてくすりと笑った。


 +++++


 その頃、絢子は桂川宮の庶子――雅延王に呼び出されていた。


 雅延王は近衛師団の中尉で、父・靖久親王と共に台湾へ出征していた。

 当初は小隊を率いていたが、呪詛の存在が明らかになると、司令部に呼び戻され、

 現在は時子の張った結界の内側で職務に就いているのだった。


「後西院伯爵家のご令嬢、絢子殿で間違いありませんか?

 ――かつて斎宮をお務めになったと伺いましたが」


「はい、左様でございます。

 現在は陸軍士官学校異能科の候補生として、この地におります。」


 絢子は、実家を引き合いに出され、わずかに眉をひそめた。

 彼女は、後西院の名を持ち出されるのを好まなかった。


「神宮より、斎照いつてるかがみを下賜されたと伺いました。

 どうか……その御光で、父をお救い願えませぬか」


 雅延王は一歩踏み出し、絢子の手を取った。

 絢子はその勢いに気圧され、思わず一歩退く。


「しかし――桂川宮殿下には、プロイセン帰りの軍医監殿がおられるではありませんか。

 わたくしのような者の出る幕では……」


「軍医監殿も、全力を尽くしてくださっております。

 ――しかし、どうにも快方へは向かわぬのです。

 六月の半ばより、幾度も発熱と解熱を繰り返しており……」


 雅延王は言葉を選ぶように息をつぎ、

 静かに絢子を見つめた。


「絢子殿は、治癒や浄化に優れた神威をお持ちと伺っております。

 治せとは申しません。

 ――父を、少しでも楽にして差し上げてはいただけませんか」


 絢子も、雅延王をじっと見返した。

 彼女の胸の内には、まだ戸惑いがあった。

 自らの力に自信がなかったわけではない。

 ただ――医の領分を侵すことに、どうしてもためらいがあった。


「……わかりました。

 ですが、桂川宮殿下ご本人と、軍医監殿のお許しを得てからにしてください。

 勝手に神威や異能を振るうわけにはまいりませんので……」


「ご心配には及びません。

 殿下ご自身も、後西院候補生の治療をお望みです。

 私からも、許可いたしましょう」


 柱の陰から姿を現したのは、軍医監だった。

 名をはやしといい、桂川宮の主治医も務めている。


「西欧では、聖魔法と医療とを組み合わせた治療法の研究が進んでおります。

 後西院候補生の神威は、その“聖魔法”に類するものではないか――と、以前より注目しておりました」


「絢子殿は、天照大神あまてらすおおみかみの神威を宿していると聞いております。

 皇統に連なる父上とは、相性もよろしいはず。どうか、ぜひ」


 林軍医監と雅延王に一度に促され、絢子はなおも逡巡した。

 けれども、ついに小さく息をのみ、うなずいた。


「……わかりました。わたくしでお力になれるのでしたら」


「本当ですか!? それでは、さっそく――!」


 雅延王は破顔し、思わず絢子の手を取った。


「あっ、お待ちください……鏡は、自室に置いてございます!」


「では、すぐに取りに行きましょう! ――いや、本当にありがたい。感謝いたします」


 ――変な方……。

 私よりずっと高貴なお立場なのに、こんなにも丁寧に接してくださるなんて。


 雅延王の嬉しそうな横顔を見つめながら、絢子は胸の奥が、そっとくすぐられるような感覚を覚えた。

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