第廿九話 朱の守り袋
「よし、火を付けろ!」
周辺の民家から、燃えそうなものがかき集められ、寺院の四方に積み上げられた。
火が放たれると、乾いた薪が弾け、瞬く間に炎が広がる。
呪物の詰まった箱を抱えたまま、絢子は唇を噛みしめ、徐々に炎に呑まれていく寺院を見つめていた。
やがて黒々とした煙が立ちのぼり、樹脂と鉄の焦げる匂いが漂う。
それが何を焼いているのか、誰も口にはしなかった。
「気にすることないわ。むしろ、絢子が見つけてくれたおかげで呪詛が止められた。
これは――帝国軍人として誇っていいことよ」
妙子が、無理に明るく言って絢子の肩を叩く。
「そうね……わかってる」
絢子は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
再び瞼を上げたとき、その表情には、もはや迷いはなかった。
隊は二手に分かれた。
一方は、燃えさかる寺院の炎が森へ延焼しないよう、周囲を見張る。
もう一方は、家々を再び見回って食料を回収し、必要に応じて火を放った。
隊は数日は本部に戻らない予定だった。
食料の予備は、少しでも確保しておきたい。
時子も清至と組になり、家々を見回る側にまわった。
「……家探しなんかして、私たち、まるで盗賊みたい……」
村のはずれの一軒で、食糧庫らしき場所をあさりながら、時子は清至に聞こえるか聞こえないかほどの声で呟いた。
家の中には、つい数日前まで人が暮らしていた痕跡が残っていたが、目ぼしいものはない。
壺に入った古い漬物が一つ、棚の隅にぽつんと残されているだけだった。
「――そうは言っても、掃討作戦がいつまで続くかわからないのだ。……その発言、他の者には聞かれるなよ」
「わかってる」
清至はベッドの掛布を払い落としながら言い、時子は小さくため息をついた。
結局、漬物の壺は置いていくことにした。
「この家も、何もないわね」
「ああ。略奪されることを知っていて、あらかじめ空にしたとしか考えられんな……」
清至が押し開けた戸をくぐり、時子も外へ出る。
「次は――」
次に入る家を定めようと視線を上げた、その瞬間だった。
パンッ――。
乾いた破裂音とともに、時子の足元で土埃が弾ける。
「っ……!」
ハッと顔を上げると、森の奥で無数の人影がうごめき、こちらに迫ってくるのが見えた。
時子はとっさに氷壁を立ち上げ、飛来する銃弾を防ぐ。
清至は即座に神威を発動し、敵の動きを圧して止めにかかった。
だが――神威は彼らに通じなかった。
「敵襲来っ!」
「敵ですっ!」
清至と時子は声を張り上げ、援軍を呼んだ。
「くそっ、なぜ神威が効かぬ……っ!」
清至は動揺を隠せぬまま抜刀し、神威を滾らせる。
その背後には、獣ともつかぬおぞましい黒い陽炎がゆらめいた。
時子も銃弾に砕かれる氷壁を、次々と立ち上げていく。
時子たちの危機に気づいた近衛師団の兵が、次々と援軍として駆けつけた。
「敵襲来――っ!」
救援の叫びが響く中、彼らもまた敵へと突っ込んでいく。
村落と森との境目で、ついに戦闘が始まった。
清至は掌から火球を放ち、接敵すると神威を纏わせた斬撃で次々と敵を切り伏せる。
時子も氷の刃を飛ばし、民兵の手を裂いて武器を叩き落とし、脚を傷つけてその進撃を止めた。
一瞬、敵の勢いが弱まったかに見えた――その時だった。
「
叫び声とともに、横合いから何者かが飛び出し、時子へ斬りかかる。
時子はとっさに抜刀し、その剣撃を受け止めた。
笠を目深にかぶった若い民兵が、殺気を滾らせて時子を押し倒し、刃を振り下ろそうとしていた。
「くっ……!」
時子は歯を食いしばり、全身の力で刀を押し返す。
が、若者の力は強く、切っ先はジリジリと時子の喉元へと近づいてくる。
笠の奥で、若者の殺意に満ちた目がギラリと光った。
――殺られる。
若者の吐く熱気が頬にかかる。
喉元に迫った刃が妙に冷たく生々しく感じられた。
思考は抜け落ち、身体が先に叫んだ。
――死にたくない。清至を残して死ねないっ
死が脳裏をかすめた瞬間、時子の異能が弾けた。
無数の氷刃が若者の身体を貫く。
鋭い音とともに血飛沫が散り、時子はその返り血を浴びた。
脱力したその身体を押し返し、時子は荒い息をついた。
若者がドサリと音を立てて倒れると、地面に血がじわりと広がっていく。
「時子っ!」
自らの相手を斬り捨てた清至が、彼女の危機に気づいて駆け寄った。
力なく地面にへたり込む時子に迫った民兵を一閃で倒し、そのまま彼女を抱き寄せる。
「あ……」
若者の笠が転がり落ち、光を失った目を見開いたままの顔が、時子の視界に飛び込んだ。
――女の子?
あどけなさの残るその顔は、時子よりも少し若い少女だった。
首から下げた朱色の守り袋が、異様なほど鮮やかだった。
やがて、松田大尉をはじめとする隊の主力が到着し、賊の生き残りは撤退した。
小隊は数名の犠牲者を出したものの、敵を撃退することに成功した。
二人の近くにやって来た松田大尉が、時子の目の前に転がる少女から、朱の守り袋を取りあげる。
「……これは……こんなものがここにまで広まっているのか」
「それは何でありますか?」
清至が聞くと、大尉はズイッとそれを清至に突き出した。
「神威の影響を抑える呪符だ。遼陽平原での戦いで、お前たち異能特務局が一時押された時があったのだが……。おそらく、真武符兵隊の入れ知恵だ。
あの時も、兵士たちがこれと同じ呪符を身に着けていて、神威が効かず、苦戦を強いられた。」
「……それで先ほど、神威による威圧が効かなかったのでありますか」
「ああ。こいつらは、朝の連中とは別の集団らしいな……」
松田大尉は足先で少女の遺体を小突き、短くため息をつくと、踵を返した。
「よし、長居は無用だ。撤退っ!」
「「「はっ!」」」
あたりの兵たちが呼応し、次々と踵を返していく。
清至も立ち上がり、時子に手を差し出した。
「……ごめん。ありがとう」
時子がその手を取ると、清至は一気に彼女を引き上げ、しっかりと立たせた。
「助けに入れず、すまない。無事でよかった」
清至は握った彼女の手を離さず、そのまま本隊へと歩き出す。
時子は一度だけ振り返り、
何も映していない少女の瞳を、静かに見つめた。
+++++
「ほぅれ、カエルが焼けたぞー! 食いたい奴、挙手しろー!」
「はいはいーっ、海野軍曹殿! わたくしが一番乗りでありますっ!」
若い近衛兵が手を挙げると、笑い声がどっと広がる。
戦闘後の野営地。海野と森本は、すっかり近衛師団の兵たちと打ち解けていた。
一方そのころ、絢子と妙子は、伊狭間中佐と共に、夕方に合流した別の小隊に付き添われ、呪物を本部へと輸送するため隊を離脱していた。
時子は賑やかな一団から少し離れ、野営地の隅の暗がりに腰を下ろしていた。
そこへ清至が、乾パンと昼間に村から接収した野菜や乾物で作ったスープを手にやってくる。
「……カエルなんか、よく食えるよな。――時子は、いるか?」
「ううん、いらない。さすがに遠慮しとくわ」
清至は海野の方を見て苦笑し、それから時子の隣に腰を下ろしてスープを差し出した。
そのスープの水を出したのも海野であり、命綱ともいえる水を自在に生み出せる彼は、小隊の中で――もはや一種の信仰にも似た崇敬を集めつつあった。
「スープはいるだろ?」
「うーん……でも、清至の分がなくなるよね?」
「二人で分ければいい」
清至が片眉を上げておどけるのがおかしくて、時子は思わずクスリと笑い、スープを受け取った。
器を口に運ぼうとしたその瞬間、風向きが変わり、海野の焼くカエルの肉の匂いが鼻を突いた。
「うっ……」
寺院で倒れていた、幾人もの老人や女や子ども。
炎の中で、それが焼ける匂い。
そして――襲いかかってきた少女。
時子の脳裏に、昼間の光景が瞬時に蘇った。
吐き気が込みあげ、思わずスープの器を取り落としそうになり、慌ててそれを清至に預ける。
「どうした?!」
器を受け取った清至が、心配そうに彼女をのぞき込む。
「はぁっ……はぁっ……」
息が吸えない。
胸が締めつけられるようで、肺が動かない。
時子は過呼吸に陥っていた。
清至はスープの器を脇に置き、彼女の背をやさしく撫でた。
「ゆっくり、深呼吸しろ……ほら……」
時子は、恥も外聞もなく清至にすがった。
彼は彼女を抱きしめ、規則正しく背をトントンと叩く。
「おーい、川村候補生、大丈夫かぁ?」
時子の異変に気づいた松田大尉が、二人のもとへやって来た。
「だ……大丈夫であります。少し、昼間のことを思い出してしまって――」
少し落ち着きを取り戻した時子は、力なく答える。だが今度は吐き気が込み上げ、無様にえずいた。
「――昼間……ああ。おまえが手をかけたのは、初めてだったか」
「……はい」
返事をした時子に、大尉はしゃがみ込み、目線を合わせた。
それから、清至と時子にだけ聞こえる声で、静かに言う。
「いいか、川村。誰だって最初は吐く。
それでいい。――吐くうちは、まだ人でいられる」
「……」
えずいたせいで涙に濡れた目を上げると、
真剣な表情の大尉の視線とぶつかった。
「……今日は、よくやった」
それだけ言うと、彼は静かに立ち上がり、
再び皆の輪の方へと踵を返した。
風向きが変わった。
「お次はイモリだぞー! 精をつけたい奴はだれだー!」
火のはぜる音と、海野の明るい声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます