第廿八話 地獄の始まり

「聞いた? 歩兵第三連隊の一個小隊が、民兵の奇襲で全滅したって。」


 夕餉を終えた食堂の片隅で、妙子が時子へそっと耳打ちした。


「ええ、聞いたわ。でも、民兵なんて訓練も受けていないはずでしょう?

 それなのに、どうして訓練された将兵が敗れるのかしら……」


 時子も眉をひそめて返す。

 妙子はさらに声をひそめ、唇だけで続けた。


「味方のふりをして村に誘い込み、油断させたところで襲ったらしいの。

 しかも、敵の中には女子供までいたって――」


 帝国陸軍はすでに台北を制圧し、南下して台湾全土の掌握を目指していた。

 当初は、清国軍の残党や民兵の抵抗など取るに足らぬと高を括っていたが、

 実際には、地の利を知り尽くした地元民兵が各地で蜂起し、執拗なゲリラ戦を仕掛けてきた。

 鬱蒼たる森も、瘴気に満ちた湿地も、彼らの味方である。

 帝国軍はいつしか、その土地そのものに呑まれつつあった。


 七月中旬、相次ぐ自軍の被害に、近衛師団長・桂川宮靖久親王はひとつの決断を下した。

 “無差別大掃討”――。

 既に、誰が民兵で、誰が良民かを見分ける術は、誰の手にも残されていなかった。


 夜明け前、時子たち異能科候補生分隊は、伊狭間特務中佐の点呼を受けて臨時朝礼に臨んだ。

 濡れたような熱気の中、ただならぬ気配に、六名は息を殺す。

 中佐は前に立ち、低く言葉を落とした。


「――三角湧での吉田隊の全滅を受け、司令部より新たな命令が下った。

 これより我々は、一帯の掃討作戦に加わる。

 良民と賊民の区別はもはや不要とのことだ。

 抵抗を示す者は、老若男女を問わず排除せよ――以上だ。」


 その瞬間、場の空気がぴたりと凍った。


「ちょっと待ってください。それって……どういう意味ですか?」


 海野が声をひそめ、恐る恐る伊狭間中佐に問いかける。


「――言葉どおりだ。」

 中佐は一拍置き、低く吐き出すように続けた。

「我が軍に歯向かう者は、即刻粛清する。老人だろうが女子供だろうが関係ない。

 実際、そうした者どもに寝首をかかれているのだ。同胞のためにも、敵を討ち、家を焼け。」


 再び沈黙が落ちた。

 夜明け前の空気は湿り気を帯びながらも、どこか冷たい。命令の重さが、誰の胸にもずしりと沈む。


「幸い我々には異能も神威もある。相手が殺意を表したその瞬間でも対処は可能だ。」

 中佐はわざと明るい声音で言い、手をパンと打った。


「……たとえ、子どもでも……?」

 妙子が口の中で呟く。時子はとっさに彼女の袖を掴む。だが中佐はその小さな声を聞き落とさなかった。


「そうだ。たとえ子どもでも、歯向かえば皆逆賊だ。」



 日の出から間もなく、異能科候補生分隊は近衛師団の一小隊と共に、本部を出立した。

 朝もやの竹林を抜ける小道を、軍靴の響きだけが律動のように続く。

 湿った土の匂いと、竹の葉を打つ露の音が混じり合い、遠くの空にはまだ薄紅が残っていた。


「……異様に静かだわ……」


 列の最後尾で、絢子がぽつりとつぶやく。

 時子も耳を澄ませたが、自分たちの足音以外、確かに鳥の声も、獣の気配もない。

 その沈黙が、かえって胸を締めつける。


 ――その時だった。


「待てっ! 警戒せよ!」


 先頭を歩いていた小隊長の松田大尉が、鋭く叫び、銃を構えた。

 列が一瞬で止まり、兵たちは息を呑むように一斉に銃口を森の奥へ向ける。

 清至と海野も刀の柄に手を掛け、いつでも抜刀できるように身構えた。


 風が止み、竹の葉がかすかに擦れ合う音だけが、あたりを支配する。

 湿った空気が肌に張りつき、時間が凍りついたようだった。


 ――その時。


 カサリ、と乾いた音が草むらの奥で鳴った。

 続いて、パンッと銃声が爆ぜ、兵の足元で土煙が跳ね上がる。

 誰かの悲鳴とともに、列がざわめいた。


「危ないっ!」


 時子は思わず一歩踏み出し、掌を掲げる。

 瞬間、氷の壁が地を割って立ち上がり、列の側面を覆った。

 次の瞬間、弾丸が雨のように打ちつけ、白い氷壁に無数の痕を刻む。

 氷壁は砕け、破片が飛び散り、冷気と硝煙の匂いが混ざり合った。


 射撃がやむと、森の奥から鬨の声が上がった。

 刃物や銃火器を手にした民兵が、黒い波のように押し寄せてくる。


 帝国軍も応射し、松田大尉の号令で森の中へと足を踏み入れる。

 乱戦となる直前、清至と海野が一歩前へ出た。

 迫りくる敵に向かって、同時に神威の威圧を解き放つ。


 二人の覇気は風のように空間を震わせ、衝撃波となって敵陣に突き抜けた。

 直撃した民兵たちは足から力を奪われ、その場に膝をつく。


「今だ! 進めーっ!」


 人智を超えた力に一瞬あっけに取られた隊員を、松田大尉が咆哮で叩き起こす。

 異能者との連携に慣れた彼の声は、戦場の混乱を貫く鋼のようだった。

 兵たちは再び銃剣を構え、倒れ伏す民兵を蹴散らして突撃した。


 「我も」と、飛び出そうとした清至と海野を引き留めたのは、伊狭間特務中佐だった。

 二人の袖をつかんで引き戻し、耳元で低く告げる。


「――この戦場は、もう“人のもの”だ。彼らを立てよ。」


 その声には、有無を言わせない絶対的な響きがあった。

 清至と海野は黙って頷き、刀を下ろす。

 すでに敵の息は絶え、森には血と硝煙の匂いだけが漂っている。


 最後の一人を絶命させたのを確認すると、松田大尉が短く号令をかけた。

 隊は再び列を整え、竹林の奥へと進軍を再開した。



 やがて隊は、山間の村落へと辿り着いた。

 村はひっそりと静まり返り、通りには人影ひとつない。

 木の戸は閉ざされ、風も音を立てない。


「襲撃を警戒せよ!」


 松田大尉の号令に、時子たちも一斉に警戒を強めた。

 兵は足音を殺し、銃を構えたままゆっくりと村内を進む。

 時折、家屋の戸を押し開けて中を確かめたが、どこも空虚で、人の気配はない。


「……え?」


 列の中で、絢子が突然顔色を変え、目を見開いた。

 彼女が見つめていたのは、村の中央に建つ、ひときわ大きな建物――寺院のような造りだった。


「どうしたの?」


 時子が尋ねると、絢子は眉を寄せ、空気を探るように目を閉じた。

 数度深呼吸してから、松田大尉へ駆け寄る。


「隊長! あの建物から、強い呪詛の気配を感じます!」


「……呪詛だと?」


 松田大尉の表情が引き締まる。

「まことか」


「はい。はっきりと感じ取れます。――非常に強い、意図的なものです。」


「うむ……斎宮を務めた後西院候補生の言うことなら確かだろう。――よし、突入せよっ!」


 松田大尉は即座に決断し、手を振り下ろした。

 二か所ある入口を同時に押し破り、兵たちが突入する。

 間を置かず、銃声が轟いた。


 中からは悲鳴と物音が交錯し、陶磁器の砕ける音、叫び声、そして火薬の匂いが外まで流れ出す。

 しかし、やがてそのすべてが嘘のように静まり返った。


「我々では呪詛のことは分からぬ。――後西院候補生、中の様子を確認してもらえるか?」


 松田大尉の言葉に、絢子は一瞬顔色を失った。

 だが、自らの報告で突入を決断させたことを思い出し、唇を結んで頷く。


「承知いたしました。私が行きます。」


「私たちも援護させてください!」


 妙子を筆頭に、候補生たちも次々に名乗り出る。

 結局、六名全員で見分に向かうこととなった。


 松田大尉に引き連れられ、建物の中へ入ると、そこは目を覆うような有様だった。


 倒れているのは、女、子ども、老人ばかり。

 いずれも胸や腹を撃ち抜かれ、乾ききらぬ血が床板を濡らしている。

 その手には、それぞれ数珠が握られており――彼らが祈祷の最中に絶命したことは明らかだった。


 血と硝煙の混じる匂いに、絢子は思わず喉を詰まらせる。

 それでも足を止めず、最奥の祭壇へと歩み寄った。


 一段高い高座の上では、正装した老道士が胸に銃弾を受け、静かに息絶えていた。

 その顔には、驚愕とも諦念ともつかぬ表情が張りついている。


「……ごめんなさい。この人、どかしてもらえるかしら」


 絢子が静かに言うと、清至と海野がうなずき、二人がかりで道士の遺体を高座の下へ転がり落とした。

 鈍い音が響き、再び沈黙が戻る。


 絢子は道士の血に触れぬよう身を捌き、祭壇に近づいて、捧げられていた盆の一つをうやうやしく取り上げた。

 そのまま慎重に、松田大尉へ差し出す。


「後西院候補生……これは――」


 盆の中をのぞき込んだ松田大尉は、言葉を失った。

 木製の人形ひとがたが幾つも並び、そこには――桂川宮靖久親王をはじめ、第二師団長・山本少将、台湾総督に任ぜられた橋口海軍大将、さらには桃蘇特務中将に至るまで、台湾掃討に関わる帝国軍の要人の名が、ずらりと墨書されていた。


「帝国軍への、呪詛です。明らかな叛逆の証です。

  この呪物は、適切に処置しなければ、確実に禍をもたらすでしょう。」


「どうしたらいい……」


「私にはこれを扱う力量が足りません。直ちに桃蘇特務中将へ連絡を——本部までは私が運びます。」


 絢子が言い切ると、松田大尉は一瞬怯えたように顔を強ばらせたが、すぐに伝令に命じた。


 絢子は壇上から、経典を納めていた漆塗りの箱を下ろした。

 蓋を開けると、中の巻物を次々と引き抜き、乱暴に床へ放り出す。

 そして、指先が血や呪物に直接触れぬよう細心の注意を払いながら、木の人形をその中へと収め、蓋を閉じた。

 箱の周囲に符を並べ、低く呟きながら封印の印を結ぶ。


 その間中、彼女はかすれた声で繰り返していた。


「……この人たちは、帝国を呪っていた……この人たちは、逆賊よ……」


 誰に言い聞かせるでもなく、それはまるで自分自身を納得させるための呪文のようだった。

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