第廿七話 旅順へ、群れの誓い
「候補生なのに、こんないい部屋をご用意していただいて……なんだか申し訳ありませんね。」
時子は、案内された船室をのぞき込みながら、後ろに立つ伊狭間中佐へと声をかけた。
横須賀を発った輸送艦は、一路旅順を目指している。順調にいけば、二週間足らずで目的地に着くという。
「異能特務局の士官は、いつも個室か二人部屋だ。異能者はいろいろとデリケートなもんでね。上層部も理解を示してくれているし、戦場に出れば相応の働きはするのだから」
伊狭間中佐の声音には、どこか皮肉めいた響きがあった。『特別扱い』という言葉を、世間がどう受け取るか――彼自身、よく知っているのだ。
「しかし……時子と二人部屋とは……軍紀違反に問われそうで怖いな……」
続いて入って来た清至が、室内を見回しながらつぶやいた。小ぶりな丸窓からは海が見え、潮風がうっすらと漂う。清至は苦笑を浮かべつつも、どこか居心地の悪そうな様子で帽子のひさしをいじった。
二人を部屋へ押し込んで、伊狭間中佐は後ろ手にドアを閉めた。金属の蝶番が低く鳴り、外の喧噪がすっと遠のく。
「若様、それも織り込み済みです」
中佐はわずかに口角を上げて、事務的に言葉を継いだ。
「特務局内では、すでにお二人を――婚姻を結んだ伴侶として扱うよう、内々に通達されております」
「は?」
「え?」
清至と時子は同時に、中佐の方へ振り返った。
「その目の色と髪の色。特務中将とその奥方と、同じですよね?」
「……!」
「見る者が見れば、すぐにわかります。西南戦争で猛威を振るったその色彩――良くも悪くも、忘れようにも忘れられぬものです」
「……しかし、俺たちは候補生……」
清至が困惑を隠せずにいると、中佐は痛ましげに視線を落とした。
「いいえ。私たち斎部の血脈に連なる者は殊に、そのようには接することができません。宗家お二方の色を継いだ時点で尊き存在。軍での立場を差し置いても――跪かざるを得ません」
そう言うと、伊狭間中佐は静かに片膝をついた。金属の床に膝が触れ、低く鈍い音が響く。
「若様。ご婚姻と、力のご継承――誠におめでとうございます。特務局としても、お二人を全力で支援する方針です」
中佐は顔を上げ、眉をひそめて皮肉めいた笑みを浮かべた。
「これからあなた方は、それだけ注目を浴びます。そして、それだけの働きを期待され、――旗印として利用されるのです。その代償と考えれば、同室で陰陽の気を整えることなど、取るに足らぬことではありませんか」
「……それでも、外では中佐は――中佐として、候補生の俺たちと接してほしい。功績もなく、このようにかしずかれたくはないのだ」
清至が頑なに首を振ると、伊狭間中佐は静かに息を吐いた。
「……わかりました。善処いたします」
伊狭間中佐が退室すると、清至と時子はしばらく、彼が出て行った扉を見つめていた。やがて、時子が長い溜息を吐く。ようやく二人の肩から力が抜けた。
「……なんか、大変なことになっちゃったわね。やっぱり清至と契ったの――早まったかしら……」
苦笑まじりの時子の言葉に、清至はぎょっとして一歩近づく。
「そんなこと、言わないでくれ。俺と寝たこと……後悔しているのか? それでも俺は、もうお前なしでは――」
清至は所在なさげに時子を抱きしめ、その額にそっと口づけを落とした。
「ふふ、冗談よ。そんなに動揺しないで。今こうして安心して台湾へ向かえているのは、あなたと契ったからなんだから」
時子はくすぐったそうに笑いながら、清至の背に手を回した。清至も彼女の腰を支え、二つ並んだベッドのうち一つへと彼女を横たえようとする。
「ちょ、ちょっと、だめよ清至。このあと妙子たちと合流する予定でしょ? だいたい昼間から二人で船室に引きこもってるなんて、いくら特務局が認めてくれるって言ったって――」
「……そうだな」
清至はしぶしぶといった様子で、彼女をそっと解放した。時子は少し乱れた裾を払うと、彼女にしかわからないほど、わずかに憮然としている清至の顔を見て、ぷっと噴き出した。
「機嫌直してよ。船旅は長いんだから」
そう言って、彼の頬にそっと口づけを落とした。ちょうどその時、汽笛が鳴り、港湾から外洋へと出たことが知らされた。
船旅は天候に恵まれ、順調に進んだ。予定通り旅順へ到着すると、近衛師団との合流が行われた。異能特務局の士官だけでも五十名、下士官を含めれば三百名近くが集結しており、“真武符兵隊”残党の殲滅にどれほどの戦力を注いでいるかがうかがえた。
「こんなに異能者が集まっているって、圧巻よね」
妙子が時子に囁く。台湾への出航を前に、異能特務局は決起集会を開いていた。候補生六名もその隅に控え、静かに様子を見守っている。
「そうよね。中野学舎だって常時いるのは六十名弱だもの。ここにいるすべての人が異能者だと思うと……少し怖くなるわ」
「よく言うわね。最恐夫婦の筆頭がその口で」
「……夫婦じゃない」
時子は肘で妙子をつついて黙らせた。
異能特務局は、今回の台湾掃討戦に、特務旅団長として
仕官以来の男装姿で、桃蘇中将はつかつかと壇上へ上がる。観衆の視線を一身に集め、凛と張りのある声で口を開いた。
「諸君。
我らは昨年遼陽平原で“真武符兵隊”を壊滅させた。だが、あの勝利は多くの犠牲の上に成り立っている。戦友を失い、祖国へ帰ることのなかった者たちの名を、私は決して忘れぬ。
だが敵はまだ息絶えてはいない。真武符兵隊の残党は台湾に逃れ、そこに巣くい、神を名乗って民を惑わせている。幻術と呪詛で人心を縛り、戦線を拡大しているという。
我々の任務は明確だ。台湾に潜む残党を掃討し、彼らが掲げる偽りの神威を打ち砕くこと。
そして――元隊長、楊宜辰を必ず討ち果たす。
失われた同志のために、我らは再び立つ。恐怖に屈することなく、術に惑わされず、誇りを胸に進め。
この戦は、祖国の未来を決する戦いである。
異能特務局の名にかけて、勝利を掴み取れっ!」
壇上で桃蘇特務中将が高く拳を掲げると、会場はそれに呼応して一斉に気勢を上げた。太鼓の音が一つ、合図のように鳴り響く。
時子の胸をよぎったのは、ついこの前の卒業式の光景だった。春日井候補生の写真を胸に抱き、無言で涙を拭う卜部少尉の横顔――彼の嗚咽の残響までもが、今ここに蘇るようだった。あの無念を晴らすためにも、自分は全力を尽くそう。時子は静かに、しかし確かにそう誓った。
時子たち候補生は旅順を発ち、桂川宮靖久親王率いる近衛師団に付属する異能科候補生分隊として、行動を共にすることになった。隊長を務めるのは伊狭間中佐――一学年の対怪異演習の折からの馴染み深い指揮官である。その顔ぶれを見て、候補生たちは張りつめていた気持ちを、わずかに緩めた。
琉球を経由し、五月二十九日には台湾へ上陸した。上陸の折には早くも襲撃に遭い、それが彼らにとって最初の戦闘となったが、時子たちは後方に待機しており、直接の被害を受けることはなかった。その後、台北へと進軍。先だって建国を宣言していた台湾民主国は、一か月と持たずに瓦解し、六月半ばには近衛師団による無血開城を迎えた。
一方で、時子たち以外の異能部隊――ことに士官級の五十名は、二、三名ずつの小隊に分かれ、台湾各地へと散開していた。彼らは陸軍本隊から完全に離れ、真武符兵隊の残党狩りに専念していたのである。また、異能を有する下士官たちは、陸軍各旅団や兵站部の付属分隊として後方支援に回っていた。
しかし、真の戦いはまだ始まってすらいなかった。
そのことを、誰も――まだ、知らなかった。
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