第廿六話 橘の花、出征の朝に

 学舎に戻ったところで、出征準備のため外出していた海野や妙子たち四人と鉢合わせた。

 清至はその顔を見られるなり、ひとしきり笑われた。


「うわぁ、斎部殿の――麗しいかんばせがっ!」


「ひでぇ顔だなぁ。斎部清至ともあろう男が、まさか顔にそんな青あざ作る日が来ようとは……

 くーっ、ぷぷぷっ、だめだ! これで笑うなって方が無理だ!」


 清至の顔を見て動揺する森本の隣で、腹を抱えた海野がのたうち回る。


「あはははは! 時子の父上――川村少将って、海軍兵学校仕込みなんでしょ? よくそれで済んだわねぇ」


 時子の父を知る妙子も、面白がって笑い転げた。


「で、お父上の許しは得られたのかしら?」


 周囲の耳目を意識して、あえて“結婚”という言葉だけは口にせず、

 絢子だけが笑いもせずに時子へと振り返った。


「いいえ。許しは得られなかったわ。

 台湾から無事に帰ること、そして武功を立てること――話はそれからだって。」


「まあ、妥当ね。――何はともあれ、斎部殿が殺されたり、軍法会議にかけられたりしなくて済んだだけでも、御の字と思わなければ。」


「そうだけど――あの顔で壮行会の壇上に上がったら……」


 時子は、不意に数日後に控えた出征前の壮行会のことを思い出し、青ざめた。


「カメラート二人で“夫婦神”の象徴みたいな色を纏って、

 あの優等生の斎部清至が頬に青あざ――噂の渦中になるのは避けられないわ。

 本当に、数日後には戦地に発つのが幸いね。」


「俺は気にしない。これは――時子を娶るための第一歩、男の勲章だ。」


 清至は、笑い転げている海野と妙子を一瞥し、憮然とした面持ちで絢子へと振り返った。


「はいはい、そういうことを――恥ずかしげもなく言わないでくださる?

 仮にもあなたたちは秘すべき関係なのだし、ばれたら終わりってことを自覚して行動しなければ、

 時子さんが傷付くのよ?」


 清至を睨み上げた絢子を横目に、時子は――

 彼がそういえば、もともと外聞を気にしない人間だったことを思い出し、

 戦地での振る舞いに一抹の不安を覚えるのだった。



 +++++



 出征にあたっては、陸軍からの通達書や証明書の発布に加え、軍服をはじめとした装備の準備・点検、

 さらには現地の風土病などに関する衛生講習など、手続きは多岐にわたった。


 ことに、形式上とはいえ遺書をしたため、学舎に残る瀬川少尉へと預けたとき、

 自分たちが本当に戦地へ赴くのだという実感と覚悟を改めて突きつけられた。


 異能科特有のものと言えば――。


 海野の実家からは、軍刀として携行するようにと、家宝の日本刀が送られてきた。

 天正年間、先祖が戦で大手柄を立てた折の刀だと手紙にあり、

 清至や森本をはじめ、異能科の男子学生たちは興味津々でうらやましがった。


 絢子が斎宮を務めていた神宮からは、奉納されていた古鏡が、彼女の出征を祝して下賜された。

 天照大神の御力を宿すというそれは、彼女の浄化の力を増幅するとのことで、

 絢子は疫病が多いと聞く現地での働きを胸に誓っていた。


 清至と時子は、出征を前に軍医に頼み込み、救護室に泊まり込んで陰陽の気を整えた。

 身体を繋げることで陽と陰の均衡を保つためである。

 一度その儀を経験してしまえば、これが最も効率的で、かつ持続性のある方法であると知れていた。

 清至の母であり、妻神の依り代でもあるりよの言によれば、

 正式な婚姻を結び“妻神たち”と邂逅するまでは、子を孕むことはないという。

 時子にはその理屈がさっぱりわからなかったが、

 妊娠の心配がないという一点だけは、出征前の大きな安心材料だった。



 そして、迎えた壮行会。


 大講堂には、昨年と同じように――出征する六名、一人ひとりの名が記された祝い旗が吊るされていた。


「武運長久」と染め抜かれた紅白のたすきを掛けられ、

「祝 出征 川村時子君 陸軍士官学校異能科」と大書された自らの名を見上げたとき、

 時子の胸の奥がじんわりと熱くなり、涙がこみ上げた。


 ――昨年は、あの壇上を見上げる側だった。

 今は、自分がその立場にある。


 残留する同期生の代表として、真崎宗徳が祝辞を述べ、

 それに答えたのは、清至であった。


「――私たちは、陸軍士官学校異能科の士官候補生として、

 今日この日を迎えられたことを、誇りに思います。

 戦地に赴く身ではありますが、決して名誉のために戦うのではなく、

 国と民の安寧を護るため、ただその一念に従うのみです。」


 堂々たる清至の声が、大講堂の隅々まで響き渡る。

 時子はその背を見つめながら、一瞬だけ昨夜の彼を思い出し、そっと目をそらした。


「私たちがこの学舎で学び得たものは、術や武だけではありません。

 互いを信じ、共に立つ心――それこそが、何よりの力だと信じています。」


 在校生の列に目をやると、第二学年の先頭に斎部八千代の姿があった。

 彼女は一学年の初めに謹慎処分を受けて以来、律儀に誓いを守り、時子たちの前には姿を見せていなかった。

 だが、今はその面差しにも落ち着きがあり、壇上の清至を見つめる瞳には尊敬の光こそあれ、恋情の影はない。


「どうか後に続く諸君も、我らが築いた歩みを絶やさぬよう、

 一層の鍛錬を積まれんことを願います。

 そして、我らが再びこの中野の空の下に帰る日には、

 変わらぬ友情と誇りをもって迎えていただければ幸いです。」


 ――再び、この学舎に戻ることはあるのだろうか。

 昨年の春日井候補生のような例でなくとも、卒業までに帰営できるのだろうか。

 もしかすると、ここにいる皆と顔を合わせるのは、これが今生の別れかもしれない。


「最後に、ここまで導いてくださった諸教官、ならびに諸君に、

 心よりの感謝を申し上げます。

 我ら一同、異能科の名を辱めぬよう、武運を賭して任にあたることを誓います。」


 清至が深々と礼をすると、

 一同の間から、静かな拍手が湧き上がった。


 時子はもう一度、清至の背に視線を戻す。


 ――斎部清至。彼だけが、決して離れることのない、私の運命。


 その凛とした立ち姿に、

 彼が自分のカメラートであると同時に、

 将来を誓った伴侶でもあることが、

 たまらなく誇らしく思えた。




 その夜、寮へ戻ると、一通の手紙が添えられた小さな小包が届いていた。


 差出人は――川村貞一。

 日曜日に別れたばかりの、父からだった。


 時子はまず、添えられた手紙の封を切る。

 そこには、軍令部随一と評される、美しい父の筆跡で、娘への思いが綴られていた。


『時子へ


 先日は、ゆっくり話すこともできず、残念だった。


 君の務めは、ただ――生きて帰ることに尽きる。

 そのために心を乱すことなく、己の持てる力を使い、役目を果たせ。


 斎部の若者を支えるのは、君自身の選択であろう。ならば、迷うな。


 私が言うまでもないが、戦場での情は足かせになる。

 だが、情を忘れた者もまた、生きては帰れぬ。

 この二つの言葉を、胸に刻め。


 母は相変わらず元気だ。おまえのことを案じている。

 私も、折々に報せが届くのを待つ。


 川村貞一


 追伸――私の懐中時計を同封した。

 正確なので、安心して使うように。』


 時子は手紙を机に置くと、小包の紐をほどいた。


 中から現れたのは、使い込まれた銀製の懐中時計。

 柔らかな布に丁寧に包まれ、長い年月を経た鈍い輝きを放っていた。


 それは、時子もよく知る品だった。

 幼いころ、父の膝の上で、彼が誇らしげに見せてくれた時計――

 幾多の軍艦に共に乗り、幾度もの軍議を見届けたという。


「……お父さん。」


 時子はその時計をそっと握りしめた。

 どこまでも自分を信じ、背中を押してくれる父の姿が、

 まぶたの裏に浮かんで離れなかった。




 そして、翌朝。


 残留する瀬川少尉と十五期生十二名に見送られ、

 出征する六名は、伊狭間中佐の引率で中野学舎を後にした。


 横須賀より艦に乗り、旅順を目指す。


 その日は、抜けるような晴天だった。

 門扉脇の橘が、白い花を揺らしながら、新緑の中に眩しく光っていた。

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