第廿五話 父の拳、戦場の誓い

 日曜の朝――。

 詰襟の軍服をきっちり着込み、緊張を隠せぬ二人が門前に立っていた。

 そこへ馬車が止まり、降り立った清孝の姿は、紋付き羽織袴である。


「……父さん、軍服じゃないのか?」


 思わず問いかけた清至に、清孝は羽織の袖を軽く示しながら答える。


「軍服で行けば、軍の対立になろう。今日は――父として行くのだ。」


「そうか……」


 少し考え込んだ清至に、清孝は手短に促した。


「乗れ。――言い訳はするな。

 謝罪と、これからどうするかの誠意を示せ。おまえにできるのは、それだけだ。」


 馬車が走り出すと、清孝は正面に座った息子をじっと見据えた。

 重苦しい沈黙が車内を満たす。清至の隣に座る時子もまた、心臓の高鳴りを押さえきれずにいた。


 やがて麹町に入り、川村家の屋敷が近づくと、三人は馬車を降りて徒歩で向かった。

 玄関先では、ちょうど手伝いのばあやが打ち水をしている。

 晴天続きで通りは埃っぽく、ぱしゃりと落ちる水が土煙を鎮めていた。


「まあ、お嬢様、お久しゅうございます。ずいぶんお変わりになられて――。奥様! 時子お嬢様がお見えですよ!」


 ばあやの声に応えて、ほどなく玄関口に現れたのは時子の母だった。


「まあ、時子……。そして――そちらが斎部さまですね。はじめまして、時子の母にございます。本日はようこそおいでくださいました」


 浅葱色の小袖に身を包み、にこやかに笑んだ彼女は、ほんの刹那、清至を射抜くように見つめた。

 その視線には、値踏みとも、疑いともつかぬ冷ややかさが宿る。

 しかしすぐに笑みを取り戻し、「主人も奥でお待ちしております。どうぞお入りくださいませ」と一礼して、三人を屋敷へといざなった。


 通された座敷の奥、時子の父・川村貞一は、海軍の軍服に身を固め、室内にもかかわらず制帽まで被ったまま座していた。

 帽子のつばの下から覗く眼光は鋭く、時子が見たこともないほど苛烈なもので、その威圧に清孝ですら息を呑む。


 ゆらりと立ち上がった貞一は、まっすぐ清至の前に歩み寄ると、胸倉をつかんで押し上げる。


「貴様が――斎部清至か」


 地の底から響くような声に、清至は完全に呑まれ、「……はい」とやっと答えた。


「そうか。貴様か……時子を、私の娘を、候補生の分際で手籠めにしたのは! ――歯を食いしばれっ!」


 怒号と同時に拳が閃き、清至の頬を直撃した。

 鈍い音が座敷に響き、清至の身体は後方へ弾き飛ばされ、廊下に派手な音を立てて転がった。


「きゃぁっ!」

 時子の悲鳴が座敷に響く。

 清孝は目を見開いたまま硬直し、時子の母はなおも微笑を浮かべたまま、廊下に転がった清至を静かに見下ろしていた。


 貞一はなおも清至を睨みつけ、荒い息を吐いていたが、やがて顔をひとなでし、ふっと口元に微笑を浮かべる。

 そして制帽を脱ぎ、軍服の上着を外し、剣帯から短剣を抜いて――そのすべてを妻の腕に静かに預けた。

 受け取った妻は、にこやかにうなずくだけで、一言も発さなかった。


 清至ものろのろと身を起こし、血のにじむ唇を拭いながら、その場に正座した。頬はすでに赤黒く腫れ始めている。


「……失敬。」

 川村貞一は、まるで先ほどの怒号などなかったかのように表情を和らげ、清孝に振り返った。

「斎部陸軍特務中将閣下。時子の父、川村貞一にございます。立ったままというのも失礼です――どうぞ、お座りください」


 柔らかな声音での招きに、清孝は一瞬、言葉を失った。

 が、気を取り直して一礼すると、勧められた席へと腰を下ろす。

 清至と時子も清孝の横の畳に正座した。

 その向かいには、川村夫妻が並んで座る。


「さて――閣下。」

 貞一は声を落とし、時子をちらりと見やった。

「……時子の髪と目の色が、ずいぶん変わってしまっている。事前に伺った通り――で、相違ないのでしょうな」


 清孝は深く一礼し、低く答えた。

「相違ございません。この度は我が息子の不始末――誠に申し訳なく存じます。

 必ずや責を負わせ、償わせますゆえ……将来においては、婚姻をお許しいただけますよう、伏して願い上げます」


「……まあ。私がここでどれほど反対しようと、時子の姿がここまで変わってしまっては――閣下のご子息に嫁がせるほか道はありますまい」


 低く吐き出すように言ってから、貞一の視線は清孝から清至へと移った。


「だが――父親としては、『はいそうですか』などと素直に言えるものではないのですよ」

 鋭い眼が射抜く。


「なぁ、清至くん。なぜ候補生の分際で、婚約すらせずに手を出した? ……なぜ、それが私の娘でなければならなかった?」


 座敷の空気が一気に凍りつく。

 清至は一瞬言葉を失ったが、すぐに背筋を正し、貞一をまっすぐに見据えた。


「……不徳の致すところ、まことに申し訳ございません。

 しかし――時子さんは、私の人生においてなくてはならぬ伴侶。……初めて目にしたその時から、そう悟りました」


 貞一はわずかに笑みを深め、低い声で応じる。


「君の複雑な体質については、お父上からの手紙で拝見しましたよ。

 ――『伴侶』などと麗しい言葉を並べてみても、結局はその体質ゆえに、時子を都合よく利用しているだけではないのかね?」


「お父さん! そんなふうに言わないで!」

 横から時子が思わず声を上げた。

「私たちはカメラート――無二の相棒でもあるの。いよいよ出征という時に、清至は本当に困っていて、私は彼を助けたかった! 私……彼を失ったら、生きていけない……だから――私も納得して、この身を差し出したのよ」

 時子の声は震え、頬に涙が滲んでいる。


 貞一は苦しげに眉をひそめ、低く答えた。


「わかってるよ、時子。だからこそ、私は許せないんだ」

 拳を膝の上でぎゅっと握りしめる。

「おまえは優しい子だから、そうやって他人のためにためらいなく自分を差し出してしまう。

 そんなおまえに、その覚悟をさせた斎部家の因習や、その小僧が……私は本当に憎い」


「……申し開きもありません。卒業の暁には、時子さんを妻として迎え、生涯大切にし、決して二心など抱きませぬゆえ……どうか結婚をお許しいただけますよう――」


 清至が深々と頭を下げると、時子も並んで頭を垂れた。

「お父さん、私からもお願いいたします。清至との結婚を許してください」


「……候補生の分際で、責任もとれないくせに……ぬけぬけと」

 貞一の声音に再び怒気が混じる。

「それに――お前たちは、近々台湾へ出征するそうだな」


 座敷に重苦しい沈黙が落ちる。


「私の娘は、お前がいないと生きていけないそうだ……。

 ――まずは、台湾から二人そろって必ず生きて帰れ。話はそれからだ。」


 清至はそろそろと顔を上げると、貞一の鋭い視線とぶつかる。


「そして、時子を傷つけることも許さん。娘の身も心も、完璧に守って見せろ。

 その上で、帝国のために力を揮い、武勲を立てよ。

 ……それが最低条件だ」


 あまりに過酷な要求の数々に、清至は思わず息を呑んだ。

 だが次の瞬間、きりりと表情を引き締め、再び深々と頭を下げる。


「承知いたしました! この斎部清至、必ずやそのお約束を果たしてみせます!」


 凛と響く声は、座敷の襖までも震わせた。

 貞一は黙してその姿を見据え、母は微笑を崩さぬまま、静かに清至を見守っていた。



 +++++


「……本当に、恐ろしかった……」


 帰りの馬車の中、清至がぽつりとつぶやいた。

 お茶でも、と誘われることもなく、三人は早々に川村邸を辞してきたばかりだった。


 彼の呟きに、隣に座る時子はそっと清至の袖口に手を添える。

 向かいに座る清孝は、フンと鼻を鳴らした。


「娘の父親とは――ああいうものなのだろう。さすがに私も気圧された。」


「父さんも?」


 清至が意外そうに聞くと、清孝は静かに頷く。


「……清至、ああは言ったがな。戦場で武勲を焦り、軍律を乱すような真似は慎めよ」


「わかってる。肝に銘じます」


 表情を改めて返答した清至の手に、思いきったように時子が手を重ねる。


「清至は、いつも通りにすればいいと思う。与えられた任務を、確実にこなしましょう」

 時子が微笑むと、ようやく清至の肩から力が抜けた。


 それから、思い出したように彼女は懐からハンケチを取り出し、異能で作った小さな氷を包んで差し出した。


「でも――父がいきなり殴りかかるとは思わなかったわ。……随分、男らしい顔になっちゃって。ほら、これで冷やして」


「ああ、すまない」

 清至はそれを受け取り、そっと腫れた頬に当てた。ひやりとした感触に、思わず小さく息を吐く。


 清孝はそんな二人から視線を外し、窓の外へと目をやった。

 彼も許しきれぬ思いと複雑な気持ちを胸に、ただ黙して見守るしかなかった。


 馬車は、固い土の道を軽やかに音を立てながら――中野学舎へと帰路を進んでいった。


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