第廿二話 一線を越える

 その夜、消灯前。

 時子はベッドに腰を下ろし、鼓動を数えるようにして、その時を待っていた。

 思いは自然と、出征を告げられてからのことへと遡っていく。


 ――あの午後。“一線を越える”と心に定めた時。

 戻って来た軍医に二人して頭を下げた。


「出征が決まりました。上層部が俺を指名したそうです。断ることはできません。」


「しかし……君の体調は、悪化の一途をたどっている。

 学舎でのように川村候補生から“処置”を受け続ければ、いずれ発覚する恐れもある。

 それに、川村候補生自身の負担も大きいようだ。」


 軍医は二人を心から案じているのが分かった。

 おそらく“処置”の内容をある程度察した上で、それでも救護室をいつでも開放してくれていたのだった。


「実家に伝を頼み、不可逆ですが……効果的な対処法を授かりました。

 この方法なら、俺たちの体調は恒久的に改善すると……」


「出征まで時間がありません。今夜、その方法を試したいのです。

 どうか――救護室を使わせていただけないでしょうか」


 時子も必死に頭を下げる。


「夫婦神を司る斎部の秘術か……」

 軍医は眉間に深い皺を刻み、低くうなった。

「つまり、私に軍紀違反を黙認しろというのだな。」


 二人は、息を呑んで言葉を失った。

 軍医は、その“方法”を、正しく推測していた。


「……理にはかなっている。だが――君たちはそれでいいのか。

 特に川村候補生。若い女性にとって、“それ”は大切なものだと思うのだが」


「かまいません。私の身体一つで斎部候補生が力を発揮できるのなら――惜しくはありません。」


 時子は瞳に決意を宿し、まっすぐ軍医を見返した。


「……君は、それを親御さんに胸を張って言えるのかね?」


「はい。――彼を失うことに比べれば、取るに足らぬことです。」


 軍医は、しばらく時子を見つめていたが、やがて視線を落とした。


「……わかった。私にできる限りのことをしよう。」

 しばし言葉を探し、吐息のように続ける。

「しかし――君たちがここまで苦しんでいたのに、私は何ひとつ助けられなかった……情けないものだな。」


 彼は疲れたように目元を手で覆った。


 それから軍医は、周囲に不審を抱かれぬよう取り計らい、夕食後に清至を、そして消灯直前に時子を、自らの名で呼び出すと約束してくれた。


 ――風呂にも入り、身を清めた。新品の下着も下ろした。

 明朝の着替えも、きちんと用意してある。


 胸の鼓動がいや増すなか、静かにドアがノックされる。


「川村候補生。軍医殿がお呼びです。救護室までお越しください。」


 いつかと同じように、伝令が告げる。


「はい――」


 あの夜と同じように、時子は寝間着の上に外套を羽織り、着替えを包みにして抱え、部屋を出た。



「朝までは誰も近づかぬようにしてある。私は宿直室にいるから、困ったことがあれば来なさい。」


 軍医は時子を迎え入れると、そう言い残してランプを消し、外から鍵をかけた。

 内側から開けられるとはいえ、外から見れば中は空室にしか見えない。


 時子は窓から射し込む月明かりを頼りに、ひとつだけカーテンが閉められたベッドへ、そろそろと歩み寄った。


「……清至」


 声をひそめて呼び、そっとカーテンをくぐる。

 そこには、軍用のシャツに軍袴の姿で腕を組み、目を閉じたまま思索に沈む清至の姿があった。


 やがて時子の気配に気づき、彼はそっと目を開いて顔を向ける。


「……時子」


 どこか心細げに名を呼ぶ声に、時子は持参した着替えの包みをサイドテーブルに置き、静かに微笑んで彼の隣に腰を下ろした。


「緊張しているの?」


「……ああ。」


 全身を強ばらせ、石のように動かない清至に、時子はそっと身を寄せる。


「軍紀違反……怖い?」


「自分が、というより……お前に、それを犯させてしまうのが。」


「いいのよ。二人で選んだことだもの。」


 時子は彼の頬に手を添え、伸びあがって唇を重ねた。

 清至は一瞬たじろいだが、すぐに覚悟を決めて目を閉じ、彼女を抱き返す。

 やがて二人はもつれ合うようにして、ベッドへと身を横たえた。


「……本当にいいのか? 始めれば、もう引き返せないぞ。後悔はしないか?」


 時子の背をベッドに押さえつけ、見下ろした清至が問いかける。


「しないわ。でも、一つだけお願いがあるの。」


 熱に浮かされたような顔で、時子は真っ直ぐに彼を見上げる。

 その色香に、清至は思わず生唾を呑み込み、早まる鼓動を必死に抑えた。


「……なんだ?」


「今この時から――夜が明けるまで、二人でいる間は……身体のことも、因果のことも、全部忘れて。私を、ひとりの女として抱いて欲しいの。」


 そう言った彼女の顔には確かに欲情の炎が灯っていて、

 清至は自分の理性が音を立てて崩れるのを感じた。


「……いいだろう。おまえも俺を、ただ一人の男として受け入れてくれ。」


 そこから先は、言葉もなく、拙くともただ本能のままに互いを求め合う。


 交わりが深まるほどに、抗えぬほど自分と相手の異能や神威が変化していくのを、二人は身をもって知った。


 そして――


 涙を零しながら甘い震えに身を委ねる時子と、彼女を抱き締め果てる清至。

 その瞬間、清至は暴れ狂い彼を苦しめ続けてきた陽の気が、力となって体内を駆け巡るのを感じ、

 時子は、自らの内に神が宿り、神威と陰の気が満ち溢れるのを感じた。


「……時子」


 上った息を整えながら、清至はゆっくりと目を開いた。

 名を呼ばれた時子も、固く閉じていた瞼をそっと開け、彼を見返す。


「清至――、目が……」


 時子が息を呑む。

 清至の瞳は、闇の中で天色の光を湛えていた。


「お前も……目が。それに、髪まで……」


 清至もまた、驚きに目を見開く。

 時子の瞳と髪は、紫の光を帯びて揺らめいていた。


+++++


 翌朝、軍医が救護室を訪れたときには、清至も時子もすでに支度を整えていた。


「……その瞳……!」


 彼らの変化にいち早く気づき、軍医は言葉を失う。

 だが清至も時子も、すでに覚悟を決めた後の者のように、他者の口出しを許さぬ強い光を瞳に宿していた。


「軍医殿、ご協力ありがとうございました。

 おかげで俺の陽の気は安定し、時子は妻神の神威と尽きぬ陰の気を宿しました。

 これでもう、生涯この気に苦しめられることはありません。」


「しかしな……まさかここまで外見まで変わるとは。――どう言い訳するつもりだ?」


 軍医の問いに、二人はすでに昨夜のうちに答えを用意していた。

 時子が清至を見上げて、こくりと頷く。


「度重なる“処置”の結果……そう申すほかありません。」


 清至は軍医をじっと見据えて答える。

 軍医は髪をかき上げ、深いため息をついた。


「……そんな言い訳がどこまで通じるか。お前たちに悪い知らせがある。

 朝一番、起床と同時に、斎部候補生のご両親が学舎を訪れた。

 斎部家当主にして特務中将――ありとあらゆる権力を振りかざし、君たちとの面会を強く求めている。」


「……両親が?」


 清至は思いがけぬ言葉に、怪訝そうに眉をひそめた。


「ああ。本来なら日曜以外の面会は事前申請なしには認められんのだが……すでに応接室で待っておられる。

 今おまえと共にいる者も呼べ、とのことだ。――川村候補生もだ。」


「時子も?」


「ああ。今、瀬川少尉が応対している。今日の宿直が彼でね……歴戦の勇者相手に、冷や汗をかいていたから、早く行ってやれ。」


 軍医の言葉に、清至と時子は顔を見合わせ、すぐに応接室へと急いだ。



「斎部清至、川村時子、只今参りました。」


 清至が声をかけてドアを開けると、瀬川少尉は背を向けて座っていた。

 その向かいに座った、清至の両親が視線を上げる。


  父・清孝は天色の瞳を、母・りよは紫の瞳と髪を――


 それはまさに、今の清至と時子が宿す光と同じ色彩であった。


「お、お前たち――」


 清孝は思わず目を見開き、りよは口元を手で覆った。

 二人の反応に気づき振り返った瀬川少尉も、呆気にとられたように目を剥き、言葉を失った。

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