第廿一話 清至の懊悩

 士官学校生活、最後の四月がやって来た。

 十五期生十八名は誰一人欠けることなく第三学年へと進級した。


 戦も中旬には下関で清国との講和条約が締結され、終結したかに見えた。

 一時は上級生のように出征するのではと緊張していた十五期生の神威持ちたちも、再び学業に励む日常へと戻っていった。


 ――しかし、清至には安堵は訪れなかった。


 彼を苛むのは、陽の気の暴走だった。

 発作の頻度はあの雪の日以来増しており、時折救護室に通っていた。

 四月からはさらにひどくなり、とうとう軍医に発作を鎮める方法を打ち明け、必要な時には随時救護室を使用できるよう許可を得ていた。


 演習中に発作を起こしたその午後、カーテンの内で時子と口づけを交わす清至の顔は、熱に浮かされたように赤かった。


「どう……かな? 落ち着いた?」


 時子もまた、頬を上気させてたずねる。


 清至は答えの代わりに、再び彼女を抱き寄せた。

 まるで、唇の熱に縋らねば己を保てぬかのように。


 再び深く口づけを交わし、唇が離れた瞬間、時子の身体がぐらりと揺らいだ。


「大丈夫かっ?!」


 後ろに倒れかけた彼女を、とっさに抱きとめる。清至は不安げにその顔をのぞき込んだ。


「うん……大丈夫。少しめまいがしただけ。横になれば治るわ。」


 力なく笑った彼女の目元は、熱に浮かされた人のように赤く染まっていた。


「……すまない。俺のために、こんな目に……」


 清至は自責の念に耐えきれず、視線を落とす。

 けれども時子はかすかに首を横に振った。


「気に病まないで。私はあなたの力になれて、うれしいのよ。だから、謝らなくていいの。」


 その声は掠れていたが、清至の頬に這わせた手は焼けるように熱かった。


 ――発作は増える一方。

 処置を重ねるたび、陰と陽の均衡は削られ、時子の顔色もまた少しずつ失われていく。

 それでも彼女は笑おうとする。その健気さが、清至にはたまらなく苦しかった。


 ――このままではいけない……。


 清至は二月ごろには、父へ手紙をしたためていた。

 発作の頻度が増していること、制御が利かなくなりつつあること――時子の存在は伏せたまま、必死に助言を求めた。


 だが、返ってきたのは簡潔な一文だけだった。

「成長による一過のものだ。時がくれば自然と治まる。自分もそうだったのだから、案ずるな」


 それは慰めにもならず、突き放されたように胸に響いた。


 父にさえ頼れぬのか――。

 それでも、どうしても答えが欲しかった清至は、斎部家の古き家令・仙吉を頼ることにした。


 喜寿を越えた仙吉は、清至が顔を見たこともない祖父・清義の代から斎部家に仕えてきた古老である。

 清至にとっては、留守がちだった両親に代わって養育してくれた、まさに祖父のような存在だった。


 清至はただひとり、仙吉にだけは、時子の存在とその関係を正直に綴った。


 いま仙吉は中野の斎部邸の留守を預かっており、手紙を出せばすぐに返事をもらえる状況だった。

 案の定、仙吉からはその週のうちに返信が届いた。


『若様が伴侶となられる女性を定められたこと、心よりお祝い申し上げます』


 そんな書き出しで始まった手紙には、清至が薄々感づいていた答えが綴られていた。


 仙吉の手紙によれば――


『契るべき御方が側にいながら、その関わりが不完全ゆえに、暴走の因ともなっておりましょう。

 もしその御方と契られれば、妻神の依り代として神威を行使できるはずにございます。

 その折には、若様の御身も、御方の御身も、劇的に快方へ向かわれることでございましょう』


 自分と時子を救う道が、そこに記されていた。


 ――誓いを破り、規則を犯してでも、彼女を救うために契りを選ぶべきなのか。


 目を閉じ、苦しげに眉を寄せたまま眠りについた時子の横顔を見つめながら、清至の心は懊悩の嵐に呑み込まれていた。


 ――もし、手紙のことを告げたなら……彼女はどう答えるだろう。

 救いとなるのか、それともさらに彼女を追い詰めてしまうのか。


 その想像だけで、清至の胸は締めつけられた。




 そんな四月の終わり、事態は急変した。


 下関にて清国と結ばれた講和条約では、台湾の割譲が決定した。

 しかし台湾では、清国の残兵と地元住民がこれに反発して蜂起。

 帝国は、陸軍中将・桂川宮靖久親王を師団長とする近衛師団の派兵を決定する。


 そのさなか、異能特務局には不穏な知らせが届いた。

 遼陽平原で殲滅したはずの“真武符兵隊”の隊長・楊宜辰が、台湾に落ち延び、武神「清源妙道真君」の化身を名乗ってゲリラ戦を指揮しているという。

 さらに、“真武符兵隊”の残党が影のように潜伏しているとの情報もあった。


 かくして、異能特務局にも再び派兵の要請が下される――。


「本当にね……陸軍上層部を説得できなかったのは、不徳の致すところだが――君たちに、出征命令が下った。」


 応接室に呼び出された十五期生の神威持ちカメラート六名。

 重苦しい沈黙の中、異能特務局局長・篠崎特務中将は深く頭を下げた。


「殊に……斎部候補生を出せとのお達しでな。昨年の砲兵科との合同演習での働きが、どうやら上層部の耳に入ったらしい。――大変期待されているそうだ。……候補生頼みというのも、どうかと思うがな。」


 清至の隣に立っていた時子が、息を呑むのが聞こえた。

 恐らく、清至の体調不良を思ってのことだろう。


 清至自身も、どうしようもない焦燥感が胸の奥で広がってゆく。

 その様子に気づいたのかどうか、篠崎局長は表情を変えず、淡々と告げた。


「出立は五月八日。旅順にて近衛師団と合流し、そのまま台湾を目指す。

 あまり日が無いが、準備を進めてくれ。……昨年の春日井候補生のこともある。

 ――思い残しはないように、な。」


 ――候補生に拒否権はない。


「「「はっ!」」」


 六名は背筋を伸ばし、一斉に敬礼した。

 篠崎は眉を曇らせ、痛ましげな眼差しを彼らに注ぎ続けていた。



「時子……この後、救護室まで――来てくれないか?」


 応接室を出るなり、清至は海野や絢子たちの後ろでそっと時子の腕を引いた。


「発作? 大丈夫なの?」


 時子の顔に一瞬で不安の色が広がる。清至は慌てて首を横に振った。


「いや……違う。ただ、そのことについて――お前と話しておかねばならない。」


 深刻な眼差しに、時子はすぐうなずく。


「……わかった。

 ――妙子、絢子さん、清至にまた発作が出そうなの。救護室へ寄ってくるから、先に帰ってて。」


 そう言い残し、彼女は踵を返した。




 救護室には候補生の姿はなく、控えていた軍医も、二人を認めると慣れた様子で静かに席を外した。

 清至と時子は、いつものようにカーテンを閉め、ベッドの上で向かい合って腰を下ろす。


「本当に……体調は何ともないのよね?」


 時子が念を押すように尋ねると、清至は深くうなずいた。


「ああ。だが……発作は増える一方だ。このままでは、戦力になるどころか――足を引っ張るだけだ……」


 時子の眉が曇り、唇がかすかに震える。

「では……出征を、辞退するの?」


 清至はすぐに首を横に振った。


「不可能だろう。俺ひとりの問題じゃない。父や母にも……そしておまえにさえ迷惑がかかる……」


「じゃあ、どうするの……? まさか、捨て身の覚悟で――」


 時子が身を乗り出したとき、清至は内ポケットから一通の手紙を取り出し、彼女に差し出した。


「……一つだけ、打開の道がある。だが、それを選べば……お前は――」


 言葉を濁し、目を伏せる清至。

 時子はいぶかしげに手紙を開いた。


 行を追うごとに、彼女の指は小さく震え、目が見開いてゆく。


「ちょっと待って……清至……これって――」


「我が家の家令からの手紙だ。父の影の相談役でもある、何でも知っている男だ……。

 その男が言うんだ。――お前と契れば、と。」


「契るって……その……あれ、よね?」


「――ああ。俺の初めてを差し出し、お前は純潔を失う。軍紀を破る、あの行為だ。」


 時子の頬が赤く染まり、声がかすかに上ずる。

「で、でも……それで確実なの? あなたと契ったら、本当に妻神の依り代になれるの? 絶対に助かるの?」


 清至は一瞬ためらい、低く答えた。

「……確実だと思う。母は妻神の依り代だ。陰の気を帯びた神威で、父の陽の気を鎮めている。」


「そ……う……」


 時子は唇を噛みしめ、視線をさまよわせながら、混乱の中で必死に考えを巡らせていた。

 清至は黙したまま、うつむき、重苦しい沈黙が流れる。


 やがて、時子はゆっくりと両の手を清至の膝に重ねた。

 清至はビクリと身を震わせ、息を呑んで顔を上げる。


 そこには――覚悟を宿した目で、微笑む時子がいた。


「いいよ……契ろう。」


 短く言い切ったその声に、今度は清至が動揺した。


「――いいのか? 卒業まで待つって約束を破ってしまうんだぞ……」


「ええ。もう仕方ないじゃない。」


「でも……契ってしまえば――依り代になってしまえば、お前は一生、俺から離れられなくなるんだぞ?」


「望むところだわ。だって、いずれ結婚するつもりなんでしょう?」


「でも――」


 清至は必死に言葉を紡ぎ、否定の理由を並べようとした。

 けれども、時子は凪のような微笑を浮かべ、そのすべてを静かに受け止めた。


「あなたを守れるなら、私はなんだって差し出すわ。

 あなたを失うなんて――考えるのも嫌だもの……」


 そう言って彼を抱きしめ、そっと唇を重ねる。


 気づけば、一筋の涙が清至の頬を伝っていた。


「……時子――」


 彼女の名を震える声で呼び、今度は清至が彼女を抱き寄せ、口づけを返した。


 その時、彼らの心にはもう、後戻りできない決意が宿っていた。

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