第廿話 次は、自分たちだ

「で、結局、時子は実家に帰らなかったのね」


「帰ったわよ。――元日の夕方までだけど」


 正月休暇が明け、寮に戻った妙子に、時子はさっそく問い詰められていた。

 京の実家から帰ったばかりの絢子も、土産の菓子箱を卓に置き、楽しげに時子をうかがう。


「斎部殿のために残ったんですって? お体の具合が悪かったとか――」


「そうよ。カメラートなら当然でしょ」


 内心ひやひやしながらも、時子は平静を装って答える。すると絢子は菓子箱から練り切りをひとつつまみ、手のひらにのせて見せびらかした。


「“当然”ねえ……ただの候補生のあなたに、斎部殿のご体調をどうこうできるのかしら?

 正直におっしゃいなさい。――言えないのなら、わたくしの好物、『菊理堂』の練り切りは差し上げられなくてよ?」


「ぐぬぬ……絢子さん、お菓子で乙女を釣るなんて卑怯だわ! 帝国軍人の風上にも置けない!」


「ふふ、何とでも言いなさいな。秋口からずっと、あなたの様子がおかしいのは見抜いていたのよ。黙って見逃していた私たちの優しさに、まずは感謝すべきじゃなくて?」


 絢子は笑みを浮かべ、懐紙を取り出すと卓上に敷き、その上に練り切りを載せて妙子へと差し出した。

 鶴をかたどったそれを、妙子は無邪気に喜び、さっそく黒文字の楊枝で切り分ける。


「あー、最高! 『菊理堂』は塩加減が絶妙だし、甘さも澄み切って上品で……ほんと、絢子のカメラートで良かったって心から思う!」


 本来は茶席で静かにいただくべき菓子を、妙子は心のままにほおばり、愉悦に蕩けた表情でこれ見よがしに言った。

 その様子に満足げに目を細めた絢子は、もう一枚の懐紙に今度は梅の形の練り切りを載せ、時子の前にスッと差し出す。


「けれど、そろそろ年貢の納め時。――さあ、白状なさいな。今なら特別に、『菊理堂』の練り切りを進呈してあげる」


 時子はしばらく菓子を見つめていたが、おもむろに楊枝を取り、切り分けた一片を口に運んだ。

 妙子にならって放り込み、用意してあった番茶でさらりと流し込む。

 そして、静かに息を吐いた。


「……お見通し、ね。――あなたたちにはかなわないわ」


 欠けた梅の花を見下ろしながら、時子は観念すると同時に、覚悟を決めていた。


「清至の個人的なことだから、すべては話せないわ。けれど――実は彼、昨夏以来、ときどき体調を崩しているの。

 神威を行使するたび、体内の気の均衡が乱れることがあって……私はその調整を、カメラートとして手伝っているのよ」


「それって、時子じゃなきゃできないの? 教官とか軍医殿とか……もっと経験のある異能者じゃ、代わりにならないの?」


 妙子は最後のひとかけを楊枝に突き刺しながら、首をかしげた。


「わからない。でも……彼は私がいいって言うの。気が合う、みたいな……」


「斎部殿が――あなたでなければ、と仰ったのね。

 斎部家の神威に詳しいわけではないけれど……あの家の神は、二神一柱の夫婦神でしょう?

 ――時子さん、まだ私たちに隠していることがあるのではなくて? そんなの、薄情だわ」


「……」


 気まずげに押し黙り、視線をそらす時子。その様子に、絢子はますます笑みを深め、妙子は「え? えぇ?」と二人を交互に見比べた。


「まさか……時子さん。あなた、斎部殿の妻神に選ばれたのではなくて?」


「ええっ!? 本当なの、時子!」


「ち……ちがっ、まだ――」


 口走った時子に、絢子は追撃の手を緩めない。


「“まだ”、ね。……ふぅん」


 意味深に追い詰める絢子に、時子はとうとう陥落した。


「……ええ、“まだ”よ。それに、神だとか大げさなものじゃないわ。

 ただ――卒業しても、相方として関係を続けようと……そう、約束しているだけ。

 候補生の本分は――きちんと守っているつもりよ」


「“つもり”、ねえ。まあ、まじめな時子さんに限って、道を踏み外すことはないのでしょうけれど……。

 男女のカメラートって、結局はみんな、そこへ行き着くのよね」


「みんなって――?」


 時子がいぶかしげに問い返すと、今度は妙子が湯呑を置いて、指を一本立てた。


「十三期生の北村少尉と西少尉は、卒業後すぐに結婚なさったじゃない? 半年もたたずに出産したって噂だから……在学中からそういう関係だったってわけ。

 それに、十四期の卜部候補生と春日井候補生。あれだけ硬派ぶっていたのに、出征前に学舎裏の茂みの影で口づけしていたのを、森本が見たんだって」


「私も聞いたわ。……少しショックではあったけれど、同時に、当然だとも思えたの。

 だから、秋口に時子さんたちもそういう関係になったのかと早合点してしまったけれど――節度を守っているのなら、私も安心だわ」


 すべてを見透かすような絢子の微笑に、時子はただ、苦笑を返すしかなかった。



 +++++



 二月上旬、帝国軍は威海衛湾の制圧に成功したとの報が本国に届いた。

 そこには清国北洋艦隊の残存艦艇が集結しており、追い詰められた清国の異能部隊“真武符兵隊”の道士たちも多数籠っていた。異能特務局の部隊もまた、その討伐に大きく投入されたと伝えられ、中野学舎の候補生たちにも噂が広がった。


 戦勝の報と並んで、陸軍は清国との戦いで初めての高級将校の戦死を出し、その訃報が新聞の大見出しを飾った。


「ねえ、時子、新聞見た?」


 登校前、妙子が焦ったように声をかける。

 手には、閲覧室から持ってきた新聞の一面が握られていた。


「新聞――ああ、歩兵少将閣下の記事のこと?」


 時子も少し前に目を通していたのでうなずくと、妙子は首を横に振った。


「その記事の最後よ。威海衛戦での戦死者が列記されてるところ。……『春日井佐紀特務少尉』って、見た?」


 妙子は紙面の一部を指さし、時子に見せてくる。

 のぞき込むと、確かに妙子の言う通りの名前があった。


「え? まさか、異能科十四期生の春日井候補生?

 でも、名前は漢字だし、階級も少尉だし……合わないわよ?」


「わからない。でも、これを“さき”と読むなら、春日井候補生じゃない?」


 時子はしばらく黙って紙面を見つめ、それから静かに口を開いた。


「……まだ確定じゃないわ。新聞社が誤植することだってあるし、同じ名の将校かもしれない。

 だけど――もし本当にそうなら……」


 そこで言葉を切った時子の胸に、じわじわと冷たいものが広がっていった。


 軍に身を投じると決めたときから、戦場で命を落とすこともあると、覚悟していたつもりだった。

 けれども、自分と同じ立場の、顔を知る者が戦死したかもしれない――その事実は初めて現実を突きつけてきた。


 ――次は、自分たちだ。


 時子も妙子も口にはできなかったが、その思いは確かに胸に刻まれた。



 そして三月上旬。十四期生との『野営演習』の帰途にあって、遼陽平原での作戦中に異能特務局が清国の“真武符兵隊”を殲滅したとの報が届いた。

 あわせて、本隊に先駆けて出征していた候補生たちが帰営したとの知らせも伝わる。


 その報に、十四期生たちは色めき立った。出征していた仲間とともに卒業式を迎えられる――その喜びに、帰途の一行は一気に沸き立った。


 しかし――、学舎に帰った彼らに待ち受けていたのは、春日井さきの訃報だった。


「やっぱり……あの記事の『春日井佐紀特務少尉』は、あの春日井候補生だったのね」


 帰営した五名と十四期生が、再会と仲間の喪失に涙しながら肩をたたき合う様子を、時子は遠目に見つめてつぶやいた。


「ああ。彼女の守備についていた輸送部隊が奇襲に遭ったらしい。異能者ゆえ、真っ先に狙われたと……実は、少し前に耳にしていた」


 清至は妙に凪いだ顔で、仲間の慰めに応じる卜部候補生を見つめながら、ぼそりとこぼす。


「……そうか。後方支援なら危険は少ない、ってことだったのに、ね」


「戦場に安全な場所などない。人材不足とはいえ、候補生をそこへ投入した後ろめたさがあったからこそ……新聞では“特務少尉”なんて書き方にしたんだろう」


「……清至は、二月の時点で知っていたのね」


「ああ。黙っていて、すまない」


 そう答えた清至は、目を細め、痛みに耐えるような表情を浮かべたが、時子には彼が何を考えているかまではわからなかった。



 やがて――。

 カメラートを失った卜部候補生が衆目の前に姿を現したのは、卒業式当日であった。

 出征前に撮られたらしい、軍服の白い夏衣姿の春日井候補生の写真を額に入れ、胸の前に抱えて入場してきたのである。

 卒業式では、戦死した彼女の名も呼ばれ、特別に特務中尉への昇進が告げられた。


 その名が響いたとき、返事をしたのは卜部候補生だった。

 帝国軍人らしく一切表情を動かさず、うやうやしく証書を受け取ったが――その目は赤く腫れ、頬には幾筋もの涙がとめどなく伝っていた。

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