第十九話 雪の夜、救護室にて

 帝国軍は十月、九連城と旅順要塞を相次いで攻略し、それを足掛かりに清国内へ本格的に戦端を開いた。

 区隊長の峰岸中尉に引率された候補生部隊も、旅順で異能特務局本隊と合流したとの報が、中野学舎に届いた。

 彼らが具体的にどんな任務に就いたかは不明だったが、比較的安全な後方守備に当たっている――そんな話だけが伝わってきた。


 季節は冬へと移り、第三学年の十四期生は、六人の仲間を戦地に送り出したまま、三年間の集大成である本校との合同『野営演習』の準備を着々と進めていた。

『野営演習』は、三月卒業の中野学舎と、六月卒業の本校とのすり合わせで、例年三月初めに行われている。

 清国にも異能部隊が存在することが公となった今、例年以上に本校の教官たちは異能科との合同演習に期待と緊張を寄せていた。

 その中でも、驚異の力である神威持ちを交えた演習が期待されたが――、彼らは出征中である。


 そこで指名されたのは、時子たち十五期生の神威持ちと、そのカメラートだった。


 誰も口にはしなかったが、来年の卒業前に行われるはずの野営演習を、彼らが無事に経験できるとは誰ひとり思っていなかった。

 その頃には――彼らも、十四期生の神威持ちたちと同じく、戦場に立っているだろうと、皆が覚悟していたからだった。


「もう……上級生に交じると、気後れしちゃうわ。足を引っ張るんじゃないかって――」


 十五期生の神威持ちを交えて初めて行われた野営演習の作戦会議。帰り道で妙子が疲れた顔をして愚痴をこぼした。


「そうね。でも主任も言っていたでしょう? 演習の主役はあくまで卒業生。私たちは補欠要員。支援に徹せよって」


 絢子が笑うと、森本がぽつりとつぶやいた。


「……でもさ、僕たち異能者が主戦力になれないのかな?

 斎部殿の火の異能なんて、九糎臼砲や二十八糎榴弾砲にだって匹敵するのに……。それでも教官たちは口をそろえて、『異能者は補助、本隊が主役だ』って――」


「千尋、それは危ない考え方だぞ。俺たちは人並み外れた力を持ってはいるが、所詮は少数派だ。

 陸軍の兵力は八万。その中で異能者はせいぜい二千人。――士官クラスは、三百もいないんだ。結局は兵の数がものを言う」


 海野がのんびりと言うと、清至も頷いた。


「人は自分たちの理解できない力を持つ者を畏れ、排除しようとするものだ。

 だからこそ俺たちは、目立たず、奢らず、役に立っていると示すこと――それが生き残る道だと思う」


「そうね……私たちは奉仕者――忘れないようにしなくちゃ……」


 時子がつぶやいたその時、にびいろの空からひらりひらりと白いものが舞い始めた。


「雪だわ。もう年の瀬ね。みんな、今年の正月休暇はどうするの?」

 妙子が雪のひとひらを掌に受け止めながら尋ねる。


「私は京の実家に帰るわ。曾祖母の卒寿なの」

 絢子が微笑むと、森本がすかさず手を挙げた。


「僕は東京に残留だよ。薩麻さつまは遠すぎる!」


「俺も残るさ。わざわざ寒い科野しなのの山奥まで帰る気にはならん」

 そう言って森本の肩を抱き、ニカッと笑ったのは海野だった。


「私は、麹町の実家に戻るわ。清至はどうするの?」


 時子が尋ねると、清至は楽しげにじゃれ合う海野と森本を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。


「……俺も自宅に帰るかな。すぐそこだからな」




 それは、正月休暇を二日後に控えた、いつも通りの夕食後のことだった。

 寮で寝支度を整えていた時子は、突然、軍医からの呼び出しを受けた。


 理由は告げられず、伝令に急かされるまま、寝間着の上に外套だけを引っかけて部屋を飛び出す。


 辿り着いた先は、薄暗い救護室だった。


「急に呼び出してすまないね」


 初老の軍医が物腰柔らかく迎え入れる。彼は国内でも数少ない、異能に精通した医師のひとりだった。


「用件を伺っていないのですが……何か、私に?」

 不安げにたずねる時子を、軍医はカーテンの閉じられた一角へと案内する。


 そこには、額に汗を浮かべ、苦しげに眉をひそめて荒い息を吐く清至の姿があった。


「君のカメラートがね、帰寮後すぐに体調を崩したんだ。談話室で同期生と話していたとき、急に陽の気が暴走してね……。海野候補生と森本候補生がここまで運んでくれた」


 時子は軍医の目もはばからず清至のそばに駆け寄り、シーツの上に無造作に落ちていた彼の手を強く握った。


「彼は……大丈夫なのですか?」


「正直、よくない」

 軍医は眉を寄せ、静かに続けた。

「海野候補生の報告によれば――以前、第一学年の対怪異演習でも同じことがあったそうだね。そのときは、君が斎部候補生に処置を施して事なきを得た、と」


 ――処置……? あの、口づけのことよね……。


 時子は昨年の夏の出来事を思い出し、ビクリと身体を震わせた。

 まさか、あの口づけまで軍医に報告されているのでは――そう思うと、背筋に冷たい汗が流れる。


「また、彼に処置を施してくれるかね?」


 軍医は無表情のまま、視線を手元の記録に落とした。その顔からは、どこまで知っているのかを一切悟らせなかった。

 だが、時子に迷う余地はなかった。

 羞恥心に震えながらも、彼女は軍医に告げる。


「……承知しました。ただ――その……斎部候補生と二人きりにしていただけますか。

 どうしても、人目に触れさせたくない処置ですので……」


 軍医は書類から目を上げ、時子をじっと見つめた。

 長い沈黙ののち、ため息をつき、手にしていた書類を静かに机へ置く。


「……わかった。私は退出しよう。処置のために行われたことは、いかなる内容でも不問とする。

 宿直室にいるから、帰寮するなら声をかけなさい。泊まり込むつもりなら、明朝、着がえを届けさせよう」


「ありがとうございます」


 深く頭を下げる時子を一瞥し、彼は踵を返して静かに救護室を出ていった。

 ドアの閉まる音を確かめると、時子は清至の顔をのぞき込んだ。


「清至……意識はある?」


 汗ばんだ髪を撫でつけながら問いかけると、清至はうっすらと目を開け、唇を震わせる。


「と、きこ……」


 かすれた声は頼りなく、普段の彼とはまるで別人のようだった。


「……わかった、今楽にしてあげるから――」


 時子は目を閉じ、決意を固めると、彼の顔へと自分の顔を近づける。

 唇が触れると、清至はためらうように舌を触れさせ、やがて深く深く口づけを交わした。


 身体の奥底から何かが引きずり出される感覚を、時子は以前にも増してはっきりと感じた。

 それと同時に、彼から熱いものが流れ込んできて、自分の身体も火にあぶられるように熱を帯びる。

 頭の芯がジンとしびれ、意識が夢の中を漂うように揺らいだ。


 やがて、しばらく陰陽の気をやり取りしたのち、そっと唇を離す。

 そのときには、清至の目はすでに力を取り戻し、はっきりと時子を映していた。


「時子……ありがとう……もう大丈夫だ……」


「清至、いったい何があったの? 以前は神威を行使した時になったけど、まさか寮で?」


「いや――」

 清至は気まずそうに目をそらす。


「実は……おまえと恋人関係になってから、陽の気が時折暴走するようになってな……。これまでは自分で抑え込めていたんだが、今夜は、どうにもならなかった」


「時折暴走? そんな大事なこと、どうして黙ってたの!」


 思わず叱責の声音になり、時子はハッとして口を押さえた。

「……ごめん、責めたいわけじゃないの」


「……すまん」

 清至は言葉を探すように息をつき、視線をそらす。

「ここのところ、お互い忙しくて……口づけも、していなかっただろう。……まるでねだっているようで、言い出せなかったのだ」


「え……?」

 時子の頬がみるみる赤く染まってゆく。


「斎部の男はな……伴侶となる女がそばにいながら、触れ合わずにいると陽の気が暴走する――そんな厄介な性分らしくてな。……すまない」


「……ねだってくれたって、良かったのよ? 女から申し出るのは、はしたないでしょ?

 だから……あなたの口から求めてくれた方が、私は――うれしいの」


「……うれしいのか?」


 清至に繰り返され、時子は頬が今にも火を噴きそうなほど赤くなり、慌てて顔をそらす。


「……そんなこと、言わせないで……」


 そんな時子を見て、清至はクスリと笑い、そっと腕を伸ばして抱き寄せた。


「わかった。次からはちゃんと言う。おまえに助けを求める」


「……約束よ」


 時子は素直に彼の胸に身を寄せ、小さく息をついて静かに目を閉じる。

 清至はその意図を正しく受け取り、もはや処置ではない、ただの恋人としての口づけを落とした。


 降り始めた雪は、しんしんと降り積もって、時子が寮へと帰る道を閉ざした。

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