十八話 秘密の契り

 清潔なリネンの香りと、微かな消毒薬の匂いが鼻をくすぐる。

 時子はゆっくりと目を開け、夕焼けの橙に染められた天井を、仕切り布越しに見上げた。


 ここは、中野学舎の救護室のベッド。

 右手に温もりを感じて視線をやると、手を握ったまま床に座り込み、ベッドに頬をあずけて清至が眠っていた。


「……清至?」


 身じろぎした気配に、彼はすぐに目を覚ます。


 砲兵科との合同演習が午前中だった。

 実弾による砲撃訓練の記憶の先は、途切れている。


「起きたか……」


 清至はむくりと起き上がるが、時子の手は握ったままだった。


「私……どうなってた?」


「軍医いわく、西欧式に言えば“魔力切れ”だそうだ。

 気が付くまで、俺の力を分けていた。俺を守るために、短時間で異能を連発したからな」


「ああ……」


 時子の脳裏に、砲煙と怒声の中で力を使い果たした光景が、じわじわと蘇ってくる。


「……すまなかった。」


 清至は目を伏せ、声を押し殺すように呟いた。


「何が?」


 謝られる心当たりのない時子は、いぶかしげに眉を寄せる。


「……瀬川少尉に注意を受けた。あの三発目――。俺は自身の力を過信しすぎた。おまえの機転がなければ、大けがを負っていた、と。」


「ああ……そのことね。いいのよ。二人で決めたことだもの。あなただけ叱責を受けるのは筋違いだわ。むしろ、訓練であれを実践できて、よかったと思っているくらい。」


「しかしだな……当然のように、おまえありきで、己の力を試すような真似を――」


 依然として俯いたままの清至に、時子は思わずくすりと笑った。ベッドの上で体勢を直し、彼の手を両手で包み込む。


「“私ありき”でいいじゃない。

 私たちはカメラート。それに、卒業したら、求婚してくれるのでしょう?

 なら、これからずっと一緒なのだから、もう私がいる前提で考えた方がいいと思うわ。」


 時子の言葉に、清至はゆっくりと視線を上げる。

 目が合うと、時子はにこりと微笑んだ。


「――俺の妻となってくれるか?」


「そうね。……でも、ちゃんと求婚はしてほしいわ。」


 その言葉に、清至はいそいそと正座をし、深く頭を垂れる。


「川村時子。俺の妻となってほしい。生涯、共に歩んでほしい。」


「もう……ずるいわ。卒業したらって言ったでしょう?」


「しかし――、やはりこれ以上は待てない。おまえが俺のものだと、証が欲しい……」


 思いつめた彼の眼差しに、時子の理性と決意が揺らぐ。

 しばらく見つめ返し、やがて静かに口を開いた。


「今すぐ結婚できないのは、わかっているわよね。

 なら――私たちの関係を、カメラートから……ゲフェルテへ進めましょう。恋人として。」


「恋人……」


「ええ。でもこれは、二人だけの秘密。絶対に周りには内緒よ。海野候補生たちにも、妙子や絢子にも――誰にも知られてはいけないの。」


「二人だけの……秘密……」


 清至はその響きを口の中で転がし、その甘美さに思わず息を呑んだ。頬から耳の先まで真っ赤に染まっていく。

 そんな彼がどうしようもなく愛おしく、可愛く思えて、時子はさらに言葉を重ねる。


「そう、絶対に秘密。結婚前の、今だけの関係よ。何ひとつ確かな証はない――ただ、互いの心だけを頼りとするの。」


 時子の言葉を、清至は熱に浮かされたような顔で聞いていた。喉を鳴らして生唾を呑み込み、やがて覚悟を決めたように時子の手を強く握り返す。


「時子――俺の恋人になってほしい。何よりもおまえを大切にする。だから――」


「ええ、いいわ。でも、清至――よそ見したら承知しないからね?」


 軽口で照れ隠しをする時子に、清至は真剣な眼差しを向け、顔を近づけた。


「そんなことするものか。おまえさえいれば、何もいらない。……口づけても、いいか?」


 時子は返事の代わりに静かに目を閉じ、そっと唇を差し出した。



 口づけは、初めてではなかった。

 けれども清至はひどく緊張し、上気した顔で、そっと時子の唇に触れる。

 時子は静かに唇を開き、その熱を受け止めると、二人はただ夢中で口づけを重ね続けた。


 初秋の夕日が山の端に沈み、空は燃えるような朱に染まっていく。

 やがて室内が夕闇に沈み、軍医が夕餉を告げに現れるまで、二人の口づけは途切れることなく続けられた。




 十月。清国との戦は、朝鮮半島からいよいよ清国本土へと舞台を移した。

 陸軍は最終的に北京での決戦を目論んでいたが、八月以来の戦闘で、一つ予想外の事態が起きていた。


 東アジア諸国――殊に儒教の色濃い地域では、異能は封建時代を通じて邪道とみなされてきた。

 日本でも、江戸幕府のもとでキリシタンのような弾圧こそなかったものの、武士階級にとっては恥ずべきものとされ、異能を持つ子は徹底して力を隠すよう仕込まれた。

 町人や農民の間では逆に珍しがられ、大道芸の一座や遊女屋に売られる例も少なくなかった。


 しかし、明治維新直後に“異能特務局”が陸軍の一部局として発足し、異能者は諸外国に先駆けて、軍務の場に居場所を得ることとなった。


 一方、清国や朝鮮では旧態依然とした軍制が続き、異能の部隊など存在しない――帝国軍はそう踏んでいた。

 だが彼らの前に立ちはだかったのは、清国の異能部隊――“真武符兵隊”の道士たちであった。


 彼らは“異能特務局”のように神威こそ持たなかったが、中華四千年の歴史の中で培われた仙道を極め、

 符術やタオ、そして異能を増幅させる宝具を駆使して、帝国軍を翻弄した。


 当初は本隊の補助として派兵されていた“異能特務局”も、やがて持てる兵力を逐次投入する事態となる。

 そしてついに、派兵の要請は士官学校中野学舎の候補生にまで及んだ。



「結局、第三学年からカメラート三組が出征か……。皆、神威持ちの組よね?」


 壮行会の帰り道、時子が誰にともなくつぶやいたのを、妙子が拾った。


「ええ。でもね、当初は三学年の十四期生を全員、とか、私たち二学年の神威持ちの組まで、なんて要請が軍上層部からあったらしいのよ。そんな無茶、できるはずないじゃない。

 校長と副校長、それに特務局長まで加わって抵抗した結果、三学年の神威持ちの組に限る、ということになったそうよ。本科や他の兵科の候補生は誰も出征しないのに、ですって。」


「神威は清国の道士隊に殊の外効くらしいから、猫の手も借りたいのでしょうね。」


 並んで歩いていた絢子も、会話に加わった。


「神威による威圧か……だが、神の種類次第で、得手不得手もあるだろうに――」


 一歩後ろで海野たちと肩を並べていた清至が、ぽつりと吐き捨てるように言った。


「上層部にとっては、異能者など一絡げにしか見えんのだろう……」


「おっと斎部、口は慎めよ。誰が聞いているかわからんからな。」


 横から海野が口を挟む。


「まあ、出征した先輩方は、その従軍を単位とみなして他の十四期生と同時に卒業できるらしいし、何より人より早く戦場に立って帝国の役に立てるんだ。誇らしいし、羨ましくもあるな。」


「海野殿、他人事のように言っているけれど――次はおそらく、私たちの番よ?」


 絢子が振り返って、ぴしゃりと言い放った。


 実のところ、この六人が常に行動を共にしているのには理由があった。

 時子と妙子、清至と海野が旧友の縁で結ばれていたこともある。だが何よりも大きかったのは、彼らが皆、神威持ちのカメラートという立場を分かち合っていたからである。


 神威という人知を超えた力を、生まれつき宿した者と、その相方として組む異能者――。

 その背負う重責は、一般の異能者同士のカメラートに比べて、自然と大きなものとなる。


 また、異能者には表向き平等に出世の機会が与えられているように見えるが、神威は格別で、その将来は約束されているかのように思われた。

 そこに向けられる感情は、羨望ばかりではない。嫉妬や反感、時に畏怖さえも混じっていた。


「来年まで清国との戦が続いていたら、きっと私たちがあの場に立つのよね。」


 時子は壮行会の光景を思い返しながら呟いた。


 大講堂には、六名の名を一本一本に記した旗が高々と吊るされ、校長ばかりか特務局長までもが祝辞を述べた。


 十四期生の神威持ちには男女の組が一つあった。卜部うらべ智記ともき春日井かすがいさきの組である。

 そして、今日送り出された彼女は神威持ちではなかった――時子と同じ立場だったのだ。


 女子寮に、卜部が春日井を迎えに来る姿を、時子は幾度となく目にしていた。

 卜部家は平安以来の陰陽師の家系であり、智記はその嫡男。

 清至と同じく、一大派閥の後継として周囲から重く見られていた。


 二人は仲睦まじかったが、“G”と囁かれることはなく、そもそもそうした噂を寄せつけぬ空気があった。


 ――でも、もしかすると、あの二人も……私と清至のように……


「どうしたの、時子? 次は自分の番だと思ったら、怖気づいた?

 大丈夫よ。私たち六人、戦場に出ても同じ候補生部隊として扱われるわ。候補生である限り、ずっと一緒よ。」


 妙子がからからと笑う。

 時子は「怖気づいてなんかいない」と笑みを作って返した。

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