第十三話 口吸いの余韻、春の兆し
帰営して二、三日、候補生たちには自由時間が与えられた。
本来二泊三日で組まれていた対怪異演習だったが、怪異は一夜で片付いてしまい、現地は想定以上に汚染が深刻だったため、早々に現地を発った。
瀬川少尉に従って猿の物の怪退治に参加した候補生たちは、祝勝ムードに酔い、帰りの汽車で羽目を外して伊狭間中佐に喝を入れられる一幕もあったものの、帰営した後もその浮ついた雰囲気は続いた。
一方、伊狭間中佐と共に鬼の討伐に関わった組は、それぞれが複雑な思いを抱えていた。
腕を取られた絢子は、自分のふがいなさに加え、目の前の苦しんでいる人を救わなかったという葛藤から、図書館に通っては、帝国議会の速記録を報じた新聞記事をあさり、鉱毒の記事を追った。
そんな絢子に妙子は、軍人たる本分がおろそかになるのではないかと、心配こそすれ、はらはらと見守るばかり。
時子はそんな二人を一歩引いた場所から見ながら、自分の清至への気持ちや口づけの事を棚上げした。
一方、男子たちも――。
「斎部。中佐にはああ言われたが……俺たちに黙っているなんて、水臭いじゃないか。
あの夜のこと、ちゃんと説明してくれるよな?」
帰営した翌夜の自由時間、海野と森本は清至の部屋を訪れていた。
海野の顔は真剣で、茶化すような気配は微塵もない。
「あの夜? 何のことだ」
清至はしれっとした顔で聞き返す。
「何のことって……時子ちゃんと、その……キス、してただろ」
「時子と、きす? ――ああ、口吸いのことか。ふん、なぜお前たちに説明せねばならん」
迷惑そうに視線を逸らす清至に、海野の声は低くなる。
「いや、気になるに決まってるだろ。やってることは明らかに軍規違反だ。
時子ちゃんは納得しているのか? お前は、彼女を将来どうするつもりなんだよ」
「伊狭間中佐との会話を聞いていたなら、大体は察しているだろう。
俺の神威の行使には、彼女が不可欠だ。ただその処置に付き合ってもらっただけにすぎん。
……何なんだお前たちは。興味本位で首を突っ込んでいるだけだろう?」
「そうです、興味本位ですよ!」
黙っていた森本が口を挟む。
「だって、憧れの斎部殿の、あんな公序良俗に反した行為を見せつけられたら……
川村がうらやましくて、夜しか安らかに眠れません!」
「夜は眠れるんかよ……」
海野が低く突っ込むと、森本は舌を出してごまかした。
清至は「ばかばかしい」と切り捨てる。
「……いや。今後もああいうことがあるなら、俺たちにも何か協力できるんじゃないかと思ってな。
そもそも、お前、時子ちゃんといつの間に恋仲になったんだ?」
海野の問いに、清至は不思議そうに首を傾げた。
「……時子と、恋仲? いや――」
言い淀んだ彼に、森本がすかさず噛みつく。
「ちょっと待って! さすがに斎部殿でも、それは引くわ。
乙女にとって唇を許すのは特別なんだよ? それなのに……え、本当に川村を処置の道具としか思ってないの?
ええっ、それじゃあ、彼女があまりに不憫すぎる!」
「だがしかし、あれは俺のカメラートで、時子も納得してくれて……」
「なぁ、斎部。お前、時子ちゃんのこと、どう思ってるんだ?」
海野がじっと清至を見つめる。
「どう思ってるって……」
「俺は、お前を友達だと思っているから、あえて言う。
もし本当に彼女を都合のいい道具か何かだと思っているなら――お前は最低だぞ」
「っ――」
清至は虚を突かれ、言葉を失った。
「確かに、女を同じ人間と見ない者もいる。だが川村は俺たちと同じ士官候補生で、仲間だ。
それに……お前を見ていると、彼女に情があるんじゃないか?
お前が自覚しているかどうかは別としても」
「……だがしかし、候補生は恋愛禁止――」
「それは建前だろう? 別に彼女に思いを告げたって、喧伝しなければ問題ない。
それよりも、あやふやなままで身体だけ差し出させるなんて……卑怯だし、無責任だと思わないか」
「……」
とうとう清至は視線を落とし、押し黙った。
しばらく彼を睨んでいた海野は、やがてふっと表情を緩める。
「本当に、そこまで考えてなかったなんて……優秀で尊大な斎部にしては、可愛いじゃないか。
ま、お前が本気で時子ちゃんを道具だと言いきったら、縁を切ろうと思ってたけど――そうじゃなくて安心したよ」
「……」
視線を上げると、清至は憮然として海野を睨んだ。
「まあ、ゆっくり考えな。これからしばらく神威を使うような機会はないだろうから、時間はたっぷりある。
相談したかったら、なんでも乗るから気軽に声をかけてくれ。
この恋においては百戦錬磨、海野
海野はへらへらと笑いながら冗談めかして言った。
清至はぼそりとつぶやく。
「……低俗な恋愛小説の知識だろう。この童貞が」
+++++
海野の言った通り、その後しばらく神威を使う機会は訪れず、月日は流れて年が改まった。
清至と時子も、口づけを交わした直後こそ多少ぎくしゃくしたが、慌ただしい学業と訓練の中で次第に元の気安い関係に戻っていく。
そして清至は、自らの時子への思いを、結局は棚上げにしたままであった。
二人の関係は明るみに出ることはなく、内実進展もせず、やがて冬が終わり、また春がやって来た。
「ねぇ、時子。廊下の掲示板、見た?」
「あ、妙子。うん、見た。あれ何? 士官候補生たるもの軍紀を厳正に守り、公序良俗を乱すな、って……」
教科書をまとめていた時子に、妙子がこっそり耳打ちする。
「先日卒業した十三期生で、男女のカメラートだった北村候補生と西候補生、覚えてる?
あの二人、卒業してすぐご結婚なさったんだって。どうも、西候補生の妊娠が発覚したらしくて……」
「ええっ? じゃあ、在学中にそういう関係に?」
「ええ、前から噂はあったんだけど――とうとう卒業式前夜に寮を抜け出して、倉庫で逢引してたのを用務員に見つかったらしいのよ」
「うわぁ、壮絶ね」
思わず想像してしまった時子は、頬を熱くした。
そんな彼女に、妙子が意地悪そうな笑みを浮かべ、一層声をひそめる。
「で、時子は? そういうこと、ないの?」
「は?」
「ほら、十五期生唯一の男女カメラートは、どこまで進んでるのかなーって。
告白は? 交際は? キスは? それとも、それとも――」
「あ、あ、あるわけないじゃん! 私たちは、そういう関係じゃないっ!」
思わず声を荒げた時子は、講堂にいた候補生たちの注目を一斉に浴びてしまった。
周囲を慌てて見回し、顔を真っ赤にすると、椅子に縮こまるように小さくなる。
「ごめんごめん、ちょっとからかっただけ。
ま、なんかあったら、時子だったらすぐに相談してくれるもんね」
からからと笑う妙子に、時子の脳裏には昨夏の出来事がよぎり、必死に平静を装った。
――でも、あれからはお互い忙しくて、何もない。
日曜だって一緒に出かけはするけど、必要な物を買ったり、疲れを癒したりするばかりで……二人の仲は何も進展していない。
時子はちらりと、窓際で海野と話している清至を横目で見る。
清至は書類を指し示しながら何やら真剣な表情で、春の陽射しの逆光になった横顔に、時子の心臓はドキリと跳ねる。
――「進展していない」ですって?
私は……進展を期待しているの?
自分の心の動きに気づいた瞬間、時子はぶんぶんと頭を振り、こみ上げてくる熱を必死に散らした。
それでも淡い期待は消えず、時子は始まった二年目の学舎生活に想いを馳せていた。
――事件は、その翌日の午後に起こる。
その日は入校式で、第十六期生二十二名を新たに迎え入れた。
女子候補生は史上最多の五名。
彼女たちは数日前から入寮していたが、入校式までは在校生と日課がまったく違い、顔を合わせることはなかった。
入校式は例年通り午前中に市ヶ谷台の本校で執り行われ、午後からは中野学舎に戻って異能科だけの式典となった。
その帰り道、真新しい軍服に身を包んだ新入生たちが寮へ向かうのを遠目に眺めながら、時子は清至や海野、妙子らいつもの六名と連れ立って、
「去年の私たちも、あんなふうだったわね」
と笑い合っていた。
と、その一団から、一人の女子候補生が離れ、一直線にこちらへ駆けてくる。
「なんだなんだ?」といぶかしむ間もなく、彼女は満面の笑みを浮かべて清至に飛びついた。
「若様! お会いしたかったですぅ!」
長い髪を二つに結んだその少女は、時子の目から見ても「いかにも女の子」といった可憐な容姿をしている。
「お、お前は……八千代っ!」
清至は頬をひきつらせ、ぴたりと固まった。
八千代はそんな反応など意に介さず、砂糖菓子のような甘ったるい笑みを浮かべる。
「はぁい、若様。八千代が参りました。若様の最愛の許嫁が、晴れて入校いたしましたの。
今日から若様のカメラートは、この八千代でございますぅ」
――婚姻はおろか、婚約すら許されぬ恋愛禁止の士官学校で。
「最愛」だの「許嫁」だのを堂々と口にする八千代に、時子はただただ立ち尽くすしかなかった。
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