第十二話 口づけと軍律

「時子……いいか?」


 荒い息の下で清至が囁く。

 その身体は火照り、声も熱に浮かされたように上ずっていた。


「……また、いる? その……唇」


 尋ねながら、時子は胸が否応なく高鳴るのに身を任せる。


「……ああ。そうしてもらえると助かる」


「……わかった。いいよ」


 返事をした瞬間、清至は飢えた獣のように唇を奪った。


「ん――っ」


 烈しさと羞恥に、時子は固く目をつぶる。

 けれども拒絶はしなかった。

 腕に絡め取られ、一心不乱に求められていることが、

 どうしようもなく奥を震わせ、甘い疼きとなって広がっていった。


 頭の芯がしびれて、外界が遠のく。

 時子を満たしているのは、清至から与えられる感覚だけだった。


「おい斎部、そろそろ引き上げ――って、な、何してるっ!」


「え、ええええっ!? 斎部殿が……川村と!?」


 森本の掲げた火球が瞬き、ふたりの姿を白々と浮かび上がらせる。

 唇を重ね、絡み合った腕。

 目を見開いた海野の顔が光に照らされ、その声が広間に響き渡った。


 伊狭間中佐はちょうど絢子の右手を懐紙に包みあげたところだった。

 その手を持つまま、目を丸くして固まっている。


「口づけが必要なほどだと……?」


 中佐は眉を寄せ、一瞬沈黙した。だが、海野と森本の狼狽を見やって咳払いをする。


「海野、森本。今見たことは外に漏らすな。斎部にとって必要なことで、川村は協力したに過ぎん。面白おかしく広めることがあれば、厳罰に処す。」


「しかし――」


「しつこいぞ、異論は認めん。」


 中佐が二人を睨みつけると、ようやく唇が離れた。

 ぼんやりと見つめ合う清至と時子に、彼はツカツカと歩み寄る。


「若様。口づけが必要なほどでしたか。触れているだけでは収まりませんでしたか?」


「ああ……血が沸騰するようで、耐えきれなかった。時子の唇でようやく鎮まった。」


 清至はしっかりと時子を抱き締めたまま、かすれた声で答える。

 ようやく耳に外の音が戻った時子は、他者の視線を思い出し、羞恥に頬を赤らめて清至の胸に顔を埋めた。


「俺も若き日に、……神威を宗家へ返上するまでは、その熱に苛まれておりました。

 差し出がましいながら……お父上のように妻神を迎えられれば、いくらかは楽になろうかと存じます。」


「妻を迎えろだと? 候補生に婚姻など許されぬ。どうしろと言う!」


 清至は吐き捨てるように言い放った。


「今はこれでいい。昼間よりも熱は早く鎮まった。身体が神威に慣れれば、やがて口づけに頼らずとも済むはずだ」


「しかし、いずれ限界を迎えましょう。皆の前で醜態をさらす前に――、川村候補生の尊厳のためにも、お父上にご相談なさいませ!」


 伊狭間中佐に強く言われ、清至は悔しげに押し黙った。


「と……とりあえず、山を下りようよ。後西院の手も早く戻した方がいいんだろ?」


 森本がいたたまれない空気に、声を上げる。


「そうだな。よし、引き上げるぞ」


 中佐は話を打ち切るように踵を返した。

 海野も森本もまだ納得できない顔だったが、中佐に続いて歩き出す。


 殿しんがりを務める清至は、時子の膝の裏に手を入れて抱き上げる。


「ちょ、清至、降ろして、歩ける……」


 時子が抵抗するが、清至は譲らない。


「……昼に続いて無理をさせた。お前の身体が心配なんだ。……大人しく運ばれろ」


 その声音がどうしようもなく胸に沁みて、時子は黙るしかなかった。





 集会所に戻ると、ちょうど瀬川隊と鉢合わせた。


「伊狭間中佐! 首尾は上々にございます。一匹も討ち洩らさず、この通り!」


 瀬川少尉は興奮した面持ちで、候補生たちが手分けして運んでいた猿の首を指し示した。


「うむ、ご苦労。首級は今夜のうちに焼き尽くし、灰は川に流せ。村人には見られるなよ。

 こちらも戦果あり、後西院候補生の手を取り戻した。大勝利と言えよう」


「では、後西院候補生は早急に?」


「ああ、すぐに戻そう」


 伊狭間中佐が瀬川少尉にうなずくと、少尉は候補生たちへ声を張り上げた。


「火の異能を持つ者は首級を焼却せよ! 残りは大広間に集まれ!」


 候補生たちは一斉に動き出す。

 その輪の外で、清至はそっと時子を降ろした。

 勝利に沸く彼らは、幸い二人の姿に気付いていなかった。



 大広間では、憔悴した様子の妙子が一同を待ち受けていた。

 帰ってきた候補生の中に時子と海野を見つけると、ぱっと表情を明るくする。


「妙子、取り返してきたよ!」


 時子が駆け寄ると、妙子はその胸に抱きつき、「無事でよかった」と涙をこぼした。

 清至と森本は焼却の組に加わっている。


 伊狭間中佐は海野に場を清める祝詞を唱えさせ、絢子の手をあるべき場所へ戻す。

 目も眩む閃光があたりを満たし、光が消えたときには、彼女の腕は元通りに戻っていた。


「もう大丈夫だろう。今夜は携行食と持参の水、あるいは海野か川村が異能で出した水だけを口にせよ。明朝すぐに出立する。外にいる者にも伝達しろ。

 この村の物を口にした者は、帰還後ただちに申し出ること」


 中佐はそう告げると、ふうとため息をつき、部屋の隅へ歩いた。

 刀帯を解き、静かに腰を下ろす。


 絢子は規則正しい寝息を立てていた。

 もう大丈夫だとわかり、妙子と時子はその場に崩れ落ちた。



 +++++



 次の朝、日の出前から候補生たちは起き出し、帰還の準備を整えていた。


「昨日の昼過ぎに着いて、もう出立。忙しないわ……」


 荷物をまとめ直しながら時子が愚痴をこぼす。


「まあ、任務は昨夜のうちに片付いたんだもの。さっさと帰るに越したことはないけど――」


 母親から借りた着物を丁寧にたたみながら妙子も笑った。

 二人の横で、携行していた乾パンを少しずつかじっていた絢子は、明るいやり取りには混じらず、昨日の神の言葉を思い返していた。


「ねぇ……力を持つ者が、その力で人を救えるのに救わないのって、卑怯だと思う?」


 思いつめたつぶやきに、妙子と時子は荷造りの手を止める。


「……絢子、昨日の神に言われたことなら、気に病む必要はないの。

 私たちは何者である前に、帝国軍人であり士官候補生。その前提を忘れちゃダメ」


 妙子が眉をしかめて言うと、絢子は傷ついたように顔をゆがめた。


「それでも……」


 絢子は言葉を探し、やがて覚悟を決めると乾パンを包みに戻して立ち上がる。


「でも、一度だけでも浄化できないか、上官にかけあってみる!」


「ちょ、絢子!」


 絢子は妙子の制止を振りきって、大広間を後にした。




 一足先に表の石段に腰を下ろし、煙をくゆらせていた伊狭間中佐に、絢子は鬼気迫る面持ちで駆け寄った。


「どうかお許しください。私の異能で、この村の毒を浄化させてください。

 あの神は、私にその力があると告げました。

 けれど私は軍の一員であることを理由に断り……そのせいで、あんな事態を招いてしまったのです。だから――」


 中佐はゆっくり煙を吐き、長い間を置いて答えた。


「毒の元はこの村にない。上流から絶え間なく流れてくる。

 今浄化しても、束の間のことだ」


「でも、一時でも――!」


 絢子が言い募ると、中佐は厳しい眼差しを向ける。


「一時的に浄化して、その後はどうするのだ。お前がずっとここに留まり、浄化し続けるのか?

 それに、汚染された村はここだけではない。お前ひとりで全てを回ることなど不可能だ。他の村は見捨てるのか?」


「それは……」


 絢子は唇を噛み、言葉を失った。


「お前の気持ちがわからぬわけではない。だが、目の前のことに囚われるな。長い目で物事を見よ」


 中佐は煙草を咥えたまま立ち上がり、絢子の肩に軽く手を置いた。


「俺たちの異能や神威は、個人のものではない。公の役に立ってこそだ。

 賢くなれ。本当の意味で、この村々を救う手立てを――ゆっくり考えるのだ。

 お前がそれを成せる立場に就く時まで、その思いを忘れるなよ」


「……承知……いたしました……」


 口惜しげに呟く絢子を満足そうに見つめると、彼は瀬川少尉の方へ歩き出した。

「帰営したら、毒を取り込んだ連中を浄化してやれ」──短く、しかし確かな命令が残った。

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