第十一話 鬼哭の広場

 時は、夕刻に差しかかろうとしていた。

 戦闘の準備を命じられた一同は、再び軍服へと着替えに取り掛かる。


 妙子と絢子を大広間に残し、時子ひとり控室へと戻った。


 淡い橙の斜陽の中、皆といる時には張り詰めていた気持ちも、一人になるとふっと緩み、先刻の清至との口づけがよみがえる。


 帯を解いて単を滑り落としたところで、彼女は自らの唇へそっと指先をあてた。


 ――清至の唇……熱かったのに、やわらかかった。


 感触を思い出した途端、ざわりと身体が震える。

 胸の奥に封じ込めていたはずの乙女の部分が、いきなり目を覚ましたようで、慌てて首を振った。


 ――必要だっただけ。清至は身体がつらくて、目の前に“手ごろな私”がいただけ。

 だから思わず縋った……それだけのこと。


 時子は自分の両腕で身を抱きしめ、その場にしゃがみ込んだ。


 ――私は怒って、彼をひっぱたいたってよかった。

 けれど、それはしなかった。動揺を悟られまいと、理性的なふるまいを選んだ……。


 やがて立ち上がり、シャツを羽織る。


 ――清至は、これからも私に鎮めてほしい、と言った……。

 返事はしていない。けれど、あの時の私は――何を思っていたのだろう?


 心が震えた。


 彼に選ばれたという優越感。

 再び乞われれば、唇でも、もっと深いものでも差し出してしまうだろうという予感。


 夏衣の白いスカートの裾を払って整えると、ふと控室に置かれた姿見に目が止まった。

 鏡の中にたたずむ自分は――紛れもなく、女の顔をしていた。




 大広間に戻ると、瀬川少尉の隊はすでに出払った後だった。

 森本が刀帯を締めているところで、海野と清至は並んで何やら話しこんでいる。


「川村候補生」


 伊狭間中佐の低い声に呼ばれ、時子は背筋を伸ばし、敬礼の姿勢をとった。


「……若様の陰陽の気を整えたのは、君だな?」


「……はい。私です」


 時子は、恋愛禁止の規律違反を問われるのかと身を固くする。


「斎部の因縁の厄介さは、俺も少しは知っている。

 本作戦において、君と若様の間に何が起きても――不問とする。

 ……彼を支えてやってくれ。」


 中佐の複雑な表情に――自分たちの間に何があったのか、この人にはすべて見抜かれている、と悟った。

 時子は、頬にこみ上げる赤みをどうしても抑えられない。


 それでも必死に平静を装い、

「……了解いたしました」

 と、かろうじて声を絞り出した。




 集会所を出ると、まさに山へと日が落ちようとしていた。

 残陽が斜めに射し込み、時子の瞳を刺す。


「――あやかし退治は夜と相場が決まっている。この時間は、うってつけだな」


 伊狭間中佐は帯刀をカチャリと鳴らし、口の端を吊り上げた。

 見れば、彼が佩いているのは軍刀というよりも、むしろ堂々たる太刀と言って差し支えない代物だった。


「俺は神威持ちではない。だが――鬼や神の類を斬ったことはある。

 俺が仕官したころは、まだそんな仕事がごろごろしていた」


 中佐は清至と海野へ振り返った。


「……怖いか?」


 唐突な問いに、二人は言葉を失う。


「怖いよな? それでいい。畏れは捨てられるものじゃない。

 ――まあ、今どき神を相手にできるなんて、そうそうない経験だ。

 いい機会だと思って、せいぜい楽しめ」


 そう言うと、中佐は懐から紙巻き煙草を取り出し、自らの異能で火を灯した。

 紫煙をくゆらせ、うまそうにひと口吸う。


「聞き取りの情報を精査した結果――恐らくお前たちの遭遇した土地神は、塞ノ神さいのかみ山童やまわらしの類。

 神格としては大したものではないだろう。

 ……まあ、だからこそ、お前たちに出撃の許可を下したのだがな」


「……山の方へ逃げて行きましたが、ねぐらはそちらでありますか?」


 森本の問いに、伊狭間中佐はうなずいた。


「ああ。この裏山の中腹に平場があり、そこに山神を祀った社があるらしい。

 猿の物の怪の話の中に、少女の姿をした怪異の目撃談がいくつか混じっていてな。

 それぞれ出没場所が重ならない。――この裏山こそ、そいつの縄張りだろう」


「都合よく現れますかね」


 清至が問う。


「現れるさ。ああいう手合いは、縄張りに入る異物を許さないものだ」


 やがて伊狭間中佐は、吸い尽くした煙草を地に落とし、灰を風に散らした。



 +++++



 薄暮の中、足元が心もとなくなった頃に、一行は裏山の入り口へとたどり着く。


「……ほら見ろ。あっちも始まったようだぞ」


 中佐に促され、集落を挟んで反対の山を望むと、山腹で時折、炎が閃いている。

 瀬川少尉の率いた候補生たちの異能の火だ。見えはしないが、他の属性の者たちも奮戦しているに違いない。


「俺たちも後れを取ってはいられない。

 ――必ず、後西院の右手を持ち帰るぞ」


「はっ!」


 五人は隊を固め、山道へと足を踏み出した。


 火の異能を持つ伊狭間中佐、清至、森本は、それぞれ掌にいくつかの火球を浮かべ、行く手を照らしながら進む。

 時子は、昼間のように後れを取らぬよう細心の注意を払い、わずかな気配にも氷の刃を繰り出せるように構えた。


 山の中は異様な気配で満ちていた。

 時折、獣の悲鳴にも似た声が木々を震わせ、闇の奥からは何かが慌てて駆け出したり、転げ落ちるような物音が響いてくる。


「……ずいぶん騒がしいな。神が鬼に堕ちた最初の夜だからか」


 伊狭間中佐の低い声に、候補生たちは息を呑んだ。



 すれ違うのは気配と物音ばかりで、一行は危なげなく中腹の平場へとたどり着いた。


「……これは」


 異能の炎が照らし出した光景は、ただ陰惨の一言に尽きた。


 社の前の空き地、その中央に――ぶくぶくと膨れ上がった、形容しがたい肉塊が鎮座している。

 生臭さと腐れた甘い匂いが、真夏のぬるい空気に煽られて鼻を刺す。

 肉塊からは黒く長い触手のようなものが四方へと伸び、時折、何かを絡め取っては引きずり寄せる。

 鹿や猪といった獣、半ば成りかけたあやかし、さらには霊体までも――。

 捕らえたものは手当たり次第に、大きく裂けた口へと放り込まれていった。


「鬼め……後西院の右手を取り込みおったか。

 身に余る神威に、我を失っている……」


「動けぬなら好都合! 一気に畳みかけましょう!」


 海野が勇んで一歩を踏み出した。


 その一歩こそが、鬼の領域を侵す一歩だった。

 肉塊の表面に浮かんだ無数の目が――一斉にこちらを向く。


『……コノ気配ハ、昼間ノ奴ラカ。

 来イ……オ前ラモ喰ラヒ、我ハ村ヲ覆フ毒ヲ――我ガ手デ癒サントスル――』


 いくつもの声が折り重なるように、地の底から響く不気味な嗤いが広場を満たした。


「斎部! 川村っ!」


 伊狭間中佐の檄が飛ぶや、呼ばれた二人は打ち合わせ通りに動いた。


 時子は氷の異能を解き放ち、広場の地面から無数の氷柱を突き立てて、鬼を氷の檻へと閉じ込める。

 清至は神威を発現させ、闇から伸びる無数の黒い腕で鬼の巨体を押さえ込んだ。


 その間にも、森本は炎の異能を操り、山中へと伸びる触手を次々と焼き切ってゆく。


『――グギャァァァァァァッ!!』


 自由を奪われ、触手を断たれた鬼は、山全体を震わせるほどのすさまじい悲鳴を上げた。

「海野、行けっ!」


「はっ!」


 神威を解き放った海野の背後に、巨大な白蛇が顕現する。

 その双眸は燃えるように赤く光り、うねるたびに大気が震えた。


「山神としては――四阿山あずまやさんを背負ってる、こっちが格上なんだよっ!」


 叫ぶや否や、白蛇は鎌首をもたげ、鬼へと襲いかかった。

 大口を開いた白蛇が、肉塊ごと呑み込まんと丸のみにする。


 次の瞬間、白蛇の巨体は光の粒となって霧散した。


「やったか!?」


 森本が思わず喜色を浮かべる。


「……いや。力を引きはがしただけだ」


 伊狭間中佐は冷静につぶやき、自らの太刀を抜き放った。


 高く掲げられた森本の火球が、広場を鮮烈に照らし出す。

 そこにあったのは、もはや肉塊ではない。醜悪に歪みきった――まさしく鬼の姿。


『グアァァァァッ!』


 鬼は雄たけびを上げ、背後から黒い触手を再び伸ばした。

 今度は候補生たちめがけて、一斉に襲いかかってくる。


「きゃあぁっ!」

「うわぁっ!」


 一歩逃げ遅れた時子と森本が餌食になった。


「時子っ!」

「千尋っ!」


 それぞれのカメラートが同時に動き、抜刀する。


 時子は自らを締め上げる触手を必死に凍らせ、森本は炎を解き放とうとした――その瞬間。

 清至は刀身に炎を纏わせ、海野は氷を纏わせた刃で触手を一閃。

 二人は同時に斬り払って、それぞれの“K”を救い出した。


 その間に、伊狭間中佐が踏み込み、巨鬼の眼前へと迫る。

「――斬っ!」

 振り下ろされた太刀が、脳天から真っ二つに鬼を断ち割った。


『……ニンゲンメ……許サヌ……呪ッテヤル――』


 鬼は最期の呪詛を吐き散らし、絶命した。

 巨体は崩れ落ちると同時に、端からぼろぼろと塵となり、やがて風にさらわれて消えてゆく。


 残されたのは――白く瑞々しい、絢子の右の手首。


「……終わったな」


 伊狭間中佐の低い声が、静まり返った広場に響く。

 その声を、時子は清至の腕の中で息を殺して聞いていた。

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