第十話 陰陽の鎮め

 口づけられて、時子は反射的に身を引こうとした。

 だが清至の腕は鉄のように硬く、いくら鍛えた身でも振りほどけない。


「ん――、んんっ……!」


 息が続かずに胸を叩くと、一瞬だけ唇が離れる。

「なにを――」と言いかけた声を、再び押しつけられた唇が塞いだ。


 肩を押され、山裾の細道に仰向けに倒れ込む。

 乾いた土が衣にまとわり、背中で草が押しつぶされる。

 必死で胸を押し返すが、彼は止まらない。

 もがいた拍子に、草履が脱げて着物の裾が乱れる。


 しばらくの沈黙ののち、ようやく清至が顔を上げる。

 荒い息を吐きながら、時子は袖口で濡れた唇を拭い、脇に身を投げ出した彼を睨みつけた。


「はぁ……はぁ……清至。これは……どういうつもり」


「すまない、本当にすまない……」


 腕で目元を覆いながら、清至はうわごとのように繰り返した。


「すまない、じゃわからないわ。どうしてこんなことをしたの?」


 時子に睨まれ、やがて彼は観念したように口を開く。


「……屋敷の外で、初めて神威を使ったのだ。思った以上に陽の気が暴れて、身体の内側から焼けるようだった。おまえの唇が目に入ったとき、抑えがきかなくなった……。

 男神の陽は、女の陰で鎮める――そんな話を聞いたことがある。昔、両親が互いに抱き合って気を鎮めているのを見て、それで、つい……」


「……陽の気は、治まったの?」


 時子が感情を抑えた声で問うと、清至は黙って身体の具合を確かめる。

 しばらくして、短く息を吐いた。


「ああ。治まったようだ」


「……よかった」


 安堵の混じった、その声に清至は目を見開いた。時子も、ただ静かに彼を見返す。

 視線が絡み合う間に、清至は恐る恐る訊いた。


「許してくれるのか?」


 時子は一瞬だけ考え、ふっと小さく笑った。


「必要だったのでしょう? これでも、私はあなたの“K”。あなたを助ける義務があるから。

 でも――次は、ちゃんと断ってからにして。事情が分かれば、無碍にはしないわ」


「……心遣い、痛み入る」


 清至はゆっくりと目を閉じた。その間に、時子はすっと立ち上がり、乱れた着物の襟を直し、裾についた土や枯草を払い落とす。


「いつまで寝てるの。もう平気なんでしょ? ほら」


 差し出された右手を清至はためらいがちに取る。時子が力強く引き上げると、彼はよろめきながらも立ち上がった。


「私たちも戻りましょう。絢子が心配だわ」


 清至は着物の裾を払いつつ、横目で彼女をうかがう。

「……お前の方こそ、身体は何ともないのか?」


「私? うーん……少し火照ってるような、だるいような気はするけれど……大したことないわ」


「そうか、ならいい。でも、具合が悪くなるようなら、すぐに言ってくれ」


 集会所へ戻る道すがら、時子は思いきって問いかけた。


「……自宅で神威を使ったときは、平気だったのよね?」


「ああ、今回のように暴走することはなかったな。

 俺が神威を授かったのは十三のときだ。声変わりが始まって、身体も大人の男になりかけていた頃でな。力が内から溢れてくるように感じて、両親に相談した」


「ご両親は、なんて?」


「父は神威の扱いを教えてくれた。対象を制圧する方法や、式神――あの獣のような存在の使役や攻撃の仕方だ。訓練のあと、身体が火照ることはあったが……母が背を撫でてくれると、不思議と治まった」


 清至の話を聞いて、時子は「うーん」と唇に指を当てて考え込んだ。


「前にさ、清至は男神の力だけを借りてるって言ったよね?」


「ああ」


「で、自宅の時は、女神の依り代であるお母さまがいらした。……つまり、平気だったのはお母さまのおかげって考えられるわよね」


 言葉を継がれて、清至は一瞬黙り込み、視線を落とした。

「……そう、かもしれん」


「で、清至は今後も自宅外で神威を使いたいのよね?」


「もちろんだ。後西院の力をあの鬼から取り戻すためにも、俺の力は必要不可欠だと思う。」


「そうよね。だったら、抑えの方法を考えないと」


 時子が難しい顔で前を向いたままつぶやく。

 清至は、そんな彼女をじっと見つめて、それから聞こえるか聞こえないかの声で言う。


「なら――、お前が――」


 清至の声は小さかったが、切実さが含まれていた。


「え、なに?」


「お前が、その役割を担ってくれないか。屋敷の外で神威を使うときは、――お前の陰で鎮めてもらいたい」


 時子の目が見開かれ、清至を見上げる。

 清至の表情には、照れも恥じらいもなく、ただ確信だけが宿っていた。


「母が言っていた。陽の気を鎮めるのは、女なら誰でもいいわけではないらしい。……人によって相性がある、と。

 前からおまえとは相性がいいと感じていたが――今回で、それがはっきりした。」


「……本当に? 私が?」


「ああ。頼む」


 清至の声に、時子の胸がざわめいた――が、ちょうどその時、二人は集会所の前にたどり着いてしまった。


「……この話はひとまず終わりにしましょう。また後で考えるとして、今は絢子に集中しないと」


 そう言って、時子は引き戸に手をかけた。



 大広間の中央に布団が敷かれ、絢子が横たわっていた。頬は青白く、荒い寝息の合間にうわごとのような声をもらす。


 その傍らには妙子と海野が心配そうに座り込み、反対側では瀬川少尉と伊狭間中佐が難しい顔で言葉を交わしていた。


「当初、特務局が想定していたのは、上流の山から逃げ出した猿の物の怪。鬼の姿を取って村を荒らしていると、候補生の聞き込みでも、そのような証言が出ているはずだ」


「しかし中佐」

 瀬川は首を振る。

「海野たちが遭遇したのは、明らかに獣のあやかし程度のものではありません。状況からして――村にいた土地神が、穢れの限界を越えて鬼へと堕ちる、その瞬間に立ち会ったと考えるべきです」


「うむ……そうなると、この一件、候補生だけでは手に余る。そう考えざるをえまい」


 伊狭間中佐が唸ると、妙子が思わず声を上げた。


「絢子は! 彼女はどうなるのですか!」


「……多くの前例を知っているわけではないが、見たところ彼女の右手は霊的に断ち切られている。右手を取り戻せば、回復の望みはあるだろう。

 後西院家の場合、右の掌に“呪印”と呼ばれる紋が刻まれ、それを通じて神威を行使する。鬼が右手を奪ったのは――その力を封じるためか――、まさか、大神の力を我が物にしようと?!」


「伊狭間中佐、増援を待つ余裕はございますか。時が経つほど、後西院候補生の容体は悪化するはずです!」


 海野が一歩踏み出し、声を張った。


「こちらには、まだ俺と斎部がいます。斎部の神威を見た鬼は確かに怯んでいた。先ほどは不意を突かれて後れを取りましたが――次はありません。どうか、俺たちに行かせてください!」


 伊狭間中佐の視線が清至に移る。

「……若様、神威をお使いになったのですか?」


「その呼び方は、ここではやめていただきたい。俺は候補生、あなたは特務中佐だ」


 冷ややかに言い放つ清至。その背後には、宗家の斎部家と主要な分家である伊狭間家との、長年の上下関係が影を落としていた。


「……ですが、あなたはまだ不完全だ。陰陽の均衡は崩れてはいませんか?」


「それも、一応は解決済みだ」


「……一応、ですか」


 伊狭間中佐の目がわずかに時子へ流れる。その視線に、時子は胸の奥を射抜かれたような気がした。まるで先ほどの口づけの一部始終を見透かされているかのようで、頬がかっと熱くなる。


 伊狭間中佐は髪をがりがりと掻きむしり、深いため息を吐いたのち、瀬川少尉へと向き直った。


「海野候補生の言い分ももっともだ。後西院候補生の右手は、明朝までに取り戻すのが望ましい」


 短く言い切ると、中佐は候補生たちをぐるりと見渡す。


「隊を二つに分ける。神威を持たぬ者は瀬川少尉の指揮下に入り、予定通り猿の物の怪を討伐せよ。群れる奴らを侮るな、油断すれば呑まれるぞ」


 視線を鋭く巡らせてから、さらに告げる。


「神威持ちの斎部・海野両候補生とそのカメラートは、俺と共に鬼を追う。後西院候補生の右手を必ず取り戻す。――渡辺候補生はここに残り、護りと看病にあたれ」


「はっ!」


 一同が声をそろえて敬礼する。


 伊狭間中佐はその姿を見渡しながら、瀬川少尉の耳許へ低く漏らした。


「……大きな声では言えんが、ここは毒の村だ。報告よりもずっと状況が悪い。

 ――長居は無用、いい口実ができた」


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