第九話 茜の鬼、奪われた右手
「すみませんね。士官候補生に女性がいるとは知らなかったもので……掃除も行き届いておりませんが、こちらの控室でお着替えください。」
案内されたのは、大広間の脇にある小部屋だった。座布団が積み上げられ、かすかにカビの匂いが鼻を突く。
「いいえ、ご親切にありがとうございます」
絢子が優雅に微笑むと、助役はあからさまに胸をなでおろし、慌ただしく部屋を去っていった。
「さあ、着替えましょう。普段は私服なんて必要ないから、京の実家から送ってもらったの」
「あら、絢子、意外に地味ね」
妙子が覗き込むと、絢子の手には、丁寧に繕い跡のある
「……妙子、私だからって友禅でも着ると思って? 農村でそんなものを着たら目立って仕方ないわ。女中に一着譲ってもらったの」
「なるほどね。その手があったか。——で、時子は?」
「この前の日曜に町で古着を買ってきたわ。新品を買っても着る機会はないしね。古着で十分」
時子は気に入って選んだ
「妙子はどうしたの? 隠してないで見せなさいよ」
渋々といった様子で風呂敷を広げる妙子。その中には、家紋を染め抜いた小紋の小袖が畳まれていた。
「……母のお古をもらったのよ」
絞りの柄も色もどこか落ち着いていて、妙子が袖を通すにはいささか年増じみて見える。
「……師匠?」と絢子が首をかしげる。
「……女将?」と時子が続ける。
二人の言葉に妙子はむっとしたが、絢子と時子は顔を見合わせ、くすくすと笑い出した。
それがやがて抑えきれなくなり、しまいには腹を抱えて笑い転げてしまった。
大広間に戻ると、男子たちはすでに着替えを終えていた。
和装の者と洋装の者がちょうど半々ほど。
その中でも、ジャケットに蝶ネクタイまで締めているのは森本だった。
清至は意外にも、単の着流しという簡素な姿。
一方、海野はきちんと袴をはいている。
「おっ、やっぱりレディがいると華やぐね」
海野がにやりと笑うと、絢子はツンと澄ました。
「森本さんもずいぶん素敵で、まるで良家のお坊ちゃん。……海野さんが付き人のようね」
「斎部殿と釣り合うようにと、実家から送らせたんだ。なのに肝心の斎部殿が……あれじゃあ……」
森本は唇を尖らせ、ちらりと清至を見やる。
清至の眉間にしわが寄り、顔がわずかに引きつった。
まるで全身を毛羽立たせるような嫌悪を隠しもせず、森本から視線をそむける。
「……俺に合わせた? 意味が分からん。俺が何を着ようが、森本には関係ない」
言い切ると、清至は迷いなく時子の横に立ち、頭から足先まで視線を走らせた。
「……似合っている」
ぽつりとそう言い、すぐに目をそらした。
助役に案内され、一同は集会場を発った。
いくつかの集落を抜け、やがて山際に出る。
そこからカメラートを基準に組に分かれ、聞き込みや現地調査のため四散していった。
時子は清至と、それに海野・森本、絢子・妙子の気心知れた六人で一組となり、山際の道を進む。
「ねぇ、村長が“鉱毒”って言っていたよね? 鉱毒って言うくらいだから……鉱山よね?」
時子は声を落とし、清至にだけ聞こえるように言った。
「そうだろうな。渡良瀬川の上流には銅鉱山がある。幕末に一度閉山したが、十数年前に西欧の最新技法で再開されたはずだ。おそらく、そこが——」
清至にしては珍しく、言い淀む。
「でも、地元の民は訴えているんでしょう? 政府は動いていないの?」
清至はわずかに眉をひそめ、声を低くした。
「……その話はここまでだ。今は怪異に集中するんだ」
一拍置いて、鋭い視線を山の奥に向ける。
「ほら、感じないか?」
促されて時子も山を見上げる。
里の田畑があからさまに生育不良だったのに対し、山の木々はそこまでの異変は見えない。
だが、よく見るとどこか生気が抜け落ち、サカサカと乾いた印象を受ける。
「鉱毒って、空気や雨にも混じるのかしら……」
清至は短く首を振った。
「……知らん。だが鉱毒の話は一旦忘れろ」
視線を鋭く山に向ける。
「そうじゃなくて——山の奥に、蠢く気配を感じないか?」
「斎部殿も感じまして?」
前を歩いていた絢子が振り返った。その顔にはわずかに緊張が走っている。
隣の妙子は気づいていなかったようで、目を丸くしていた。
「たぶん、神威を持ってる依り代にしか感じられないんだろうな。……ちなみに俺にもわかるけど、森本には無理だろ」
後ろから海野が、にやりとして声を上げた。
「……依り代にしかわからんだと?」
清至の表情に緊張が走る。
その時だった。
『もし——』
行く手から一人の少女が現れ、澄んだ声で呼びかけてきた。
鮮やかな茜色の着物に、肩で切りそろえた黒髪。年の頃は六、七歳ほど。
だがその目は白い手ぬぐいで覆われ、細い杖を頼りに歩を進めている。
絢子が振り返った瞬間、一同に戦慄が走った。
六人は金縛りにかかったように、指一本動かせず、瞬きすら奪われる。
『もし——
少女は、気づけば目前に迫っていた。
固まって動けない絢子の右手を取り上げ、ひしと胸に抱きしめる。
『大神の御力をもって、この穢れを祓い給え。
汝の力で——この村を救い給え』
白手ぬぐいの奥から鋭い視線を浴び、絢子は思わず喉の奥で「ヒッ」と声を洩らした。
その瞬間、自らの声帯が解き放たれ、返答ができるようになっていることに気づく。
脳裏をよぎったのは、道すがら見た悪臭を放つ泥と、育たぬ稲。
救いを求める声に応えねば、と一瞬は思う。
だが——彼女は、巫女である前に帝国軍人だった。
「……勝手には、できない」
『なに?』
少女の声が低くなる。
絢子は声を振り絞った。
「私の力は、私一人のものではない。帝国のもの、ひいては大元帥陛下のものだ」
言い放った瞬間、少女は抱きしめていた絢子の右手を力いっぱい握りしめた。
「あっ……がっっ」
痛みに絢子が思わず声を漏らす。手首から先に、鋭い圧が走った。
少女の放つ怒気が、あたりの空気を震わすようだった。
『わらわが苦しんでおるのに、そなたは力を使わぬと申すのか。
民が苦しんでいるというのに、清めの力を使わぬと申すのか。』
少女の目から、手ぬぐいがするりと落ちる。下から現れたのは、黄色く濁った眼球が鈍く光る瞳だった。
『何が国じゃ。何が帝じゃ。』
絢子の腕を握る指がさらに強く締まる。爪が肌に食い込み、痛みが血の味のように鋭く走る。
『貴様が力を使わぬと申すのなら——そのような力、わらわが奪ってやる』
少女の声が低く、深くなる。その額に亀裂が走るように、メキメキと突起が裂け出し、黒光りする角が水牛のように伸びた。唇の端からは白い牙がのぞく。
「絢子さんっ!」
その頃には時子たちも金縛りから解き放たれ、ようやく身体の自由を取り戻していた。
「貴様が鬼か!」
清至が腰を沈め、右手を構える。
ズンと場の空気が重くなり、おぞましい獣のような陽炎がその背後に揺らめく。
無数の黒い腕がうねりながら鬼へと伸びていった。
『……なんだ、この禍々しい気配は——』
鬼は絢子の右手を乱暴に引き裂くようにもぎ取ると、俊敏に黒い腕をかわし、山の奥へと駆け去った。
その背は木立の影に紛れ、瞬く間に見えなくなる。
「絢子!」
妙子が真っ先に駆け寄り、崩れ落ちた彼女を抱きとめる。
その右腕を確かめると——肘から下が黒く枯れたように変色し、手首から先は跡形もなく失われていた。
絢子は苦しげにうなり声をあげ、歯を食いしばって身体を小刻みに震わせた。
やがて白目をむき、口から泡を吐いて、そのまま意識を失う。
「絢子っ!」
「絢子さん!」
「後西院っ!」
妙子も、時子も、森本も——必死に声を張り上げ、彼女の身体に縋った。
「どうしようっ、絢子が、絢子がっ!」
妙子が悲鳴のように叫ぶ。
その横から、海野がすっと手を伸ばし、彼女を抱き取った。
「とにかく瀬川少尉のところに戻るぞ。俺らじゃどうにもならん」
少し顔をしかめ、低く言い放つ。
「……鬼は後西院の神威を奪うと宣言していた。依り代が神を失ったら、どうなるか……誰にも分からん」
「う……うん、行こう。絢子、助かるんだよね?」
「渡辺、落ち着いて」
森本も心配そうに妙子に寄り添い、先行する海野の後を追う。
時子も立ち上がり、彼らの後を追おうとした——。
だが、その手を掴む者があった。
「待て……」
ハッとして振り返れば、清至が地面に膝をついていた。
荒く肩を上下させ、息を絞り出している。
額からは大粒の汗が滝のように滴り、白皙の頬には明らかに上気して朱が差している。
「清至、どうしたの?」
明らかな異常に、時子は血の気を失い、彼の傍らにしゃがみ込む。
「……熱い……身体が燃えるように……陽の気が——」
荒い呼吸の合間に、やっと言葉が絞り出された。
「え?熱い?陽の気? 一体どうしたの? 私、どうしたらいい?」
時子は焦って問い返し、必死にその顔をのぞき込む。
その瞬間——清至の表情が、苦しげにくしゃりと歪む。
彼は時子の手を強く引き、もう片方の手を彼女の首の後ろに回した。
「……すまない」
清至の影が視界いっぱいに迫る。
「え?」
何が起こっているのかわからず、半ば開いた時子の唇に——清至の唇が重なった。
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