第八話 肝試し、出立
「初めて食べたけど――とてもおいしかったわ。ご馳走様。お代は本当にいいの? とても申し訳ないんだけど……」
洋食屋 東雲亭のドアを出たところで、時子は清至を振り仰いだ。
さきほど会計のカウンターでは、代金を払おうとする清至と時子、絶対に払わせまいとする給仕と店主の間で、さながら仁義なき攻防戦が繰り広げられた。
結局、「若様の入校祝いと思って――」という年長の言葉に押し切られ、若い二人は引き下がらざるを得なかったのだ。
「……気にするな。厚意はおとなしく受け取るしかない。」
「……なら、ありがたくいただいておくわ。でも、次があるなら、もう少し気軽な場所がいいわね。」
「善処しよう。」
清至も、先ほどのやり取りで懲りたらしい顔をしていた。
――次があるなら、か。
時子の胸に、ふと昼食中の会話がよみがえる。
清至は言っていた。妻を迎え、その妻が女神の依り代となって初めて、完全な力を揮えるのだと。
つまり候補生である限り、結婚も婚約も許されない彼は、まだ本当の力を持てない。
だが、斎部特務中将の血を引く者が完全な力を得ることは――異能特務局の総意になるに違いない。
――いつまで、彼とカメラートでいられるんだろう。
三年間? それとも来年か再来年、新入生の中に“妻”が現れたら、その時に解消されるのだろうか。
そもそも、どうせ終わりが見えているのなら――これ以上、彼と親しくなって意味があるのか。
――相手に誠実であれ、と言ったのは私なのよ。
たとえ明日、この関係が解消されるとしても。
今この瞬間は、彼の相手として在るのだから。
もう予定はない。
中野への帰り道を、二人は黙ってゆっくりと歩いた。
時子は、ちらりと清至を盗み見る。
彼は真正面を見据え、時子の視線には気づかない。
軍帽がどうしようもなく似合っていて――その姿に、否応なく心が浮ついてしまう自分を、時子は悲しく自覚する。
――これ以上踏み込まない。これ以上、ときめかない。
これ以上――先を思い描かない。
彼から視線を外し、そっと目を閉じて決意した。
+++++
翌週からは、学業も演習も本格的に始動した。
清至との関係を悩む暇など、時子には一刻も残されていない。
予習復習に追われ、演習で疲れ切った身体で机に向かい、就寝の号令がかかれば泥のように眠り込む。
本校とは課程こそ異なるが、三年で士官学校を出れば少尉として現場に立つのだ。
予科のない異能科の三年間は、過酷という言葉では足りないほどに厳しい。
季節はあっという間に新緑を過ぎ、眩しい青空が頭上に広がる夏がやってきた。
本校の予科候補生たちは、毎年この時期になると館山で遊泳演習を行うのが恒例だという。
それに対し、異能科にも夏の恒例行事があった。
――対怪異演習。通称「肝試し」。
発足当初、異能特務局は街に溢れる怪異を鎮めるのが主な仕事だった。
その名残として、入学したばかりの彼らにも手に余らない程度の怪異を選び、対処させるのだ。
もちろん、不測の事態に備えて、演習には熟練の現役将官が控えている。
だが一番恐ろしいのは、怪異そのものではなく――彼らの厳しい眼差しだと囁かれていた。
第十五期生十八名に、瀬川少尉。さらに特務局からは、西南戦争で名を馳せた
「今年は、目的地まで汽車で行けるから助かるよね。去年なんて途中までは汽車だったけど、そこから十里行軍して、最後は登山だったって聞いたもの」
噂好きの妙子が、上級生から仕入れた情報を得意げにひけらかす。
「私も聞いたわ。その怪異の正体は古狸で、まるで登山が目的みたいだったって」
絢子もくすくす笑いながら言い添える。
ボックス席では、窓側に時子、通路側に清至が腰掛け、通路を挟んで海野や森本も会話に加わっていた。
「それだけあやかしが退治されて、世の中が平和ってことじゃないかな。それはそれでめでたいね」
通路側の席から海野が声をかける。
その隣で、頬杖をついて半ば眠っているように見えた清至が、低くボソリと付け加えた。
「――だが、今回の相手は“鬼”だ。
討伐の記録を調べてみたが、正式に“鬼”と認定された例は十年前、巌手の早池峰山が最後だ。
それも山奥の話だった。……ところが今回は、人里に近い低山ときている。
どう考えるべきか――」
「でも――特務局は、僕たちみたいな候補生でも対処できるって判断しての“肝試し”でしょう?
そんなに心配することかなぁ」
森本が、こっそり忍ばせていた有平糖を口に放り込みながら、暢気につぶやく。
時子も、先日の瀬川少尉の説明を思い返していた。
今年の目的地は、
そこでは――魚が浮かび、山の木々が枯れ、子は命を持たずに産まれ、村人の目は病に侵されていった。
そして、村の裏山には人ならざるものの影が現れるようになり、人々はそれを“鬼”と呼んだ。
聞かされた時、時子は胸に重いものを覚えた。
このように深刻な怪異に、本当に自分たち候補生で対応できるのか――不安は拭えなかった。
一行は小山で両毛鉄道に乗り換え、佐野駅で下車した。
そこからさらに徒歩で、目的の村へと向かう。
道すがら、すれ違う村人たちは、一行の軍服にさまざまな眼差しを投げかける。
ある者は畏れ、ある者は怒り、またある者は期待をにじませていた。
だが誰もがどこか覇気を失い、病に蝕まれたような影を帯びていた。
村に近づくにつれ、気配に敏感な者ほど不穏な空気を肌で感じ取り、口数が減っていく。
ついには村の入口に立った時、浅慮の代名詞のような森本でさえ、眉をひそめて押し黙った。
「ようこそおいでなすった、候補生さま方。村長の萩原でごぜえます。」
候補生たちの宿舎として提供されたのは、村人たちが寄り合いに使っている大広間だった。
畳敷きの空間に、村長と助役が並んで頭を下げる。
「村長殿。早速だが、怪異とは報告にあったとおりであるか。」
瀬川少尉がたずねると、村長は眉を下げて頭を垂れた。
「はい、さようでごぜぇます。」
村長は大変言いにくそうに、もじもじと手をいじりながら、恐る恐る言葉を続けた。
「軍人様にこんなこと申し上げてよいものか分かりませんが……村は鉱毒も抱えております。怪異の多くは、そのせいだと、わしらは思うんです。
けんど、それだけじゃ説明のつかねぇものが、昨年から裏山に住み着いておりましてな。
山際の家の者の中には襲われた家もあり、これはもう看過できねぇ。どうか、お力をお貸しいただきてぇんでごぜぇます。」
「では、この異能科士官候補生には、住民への聞き込みから演習させたいのだが――」
「それは……できましたら、ご遠慮いただきてぇんでごぜぇます。数年前からの鉱山の毒のことで、村は今、みな殺気立っておりましてな。」
「そうは言ってもな……こちらとしても、現地で調査をせねば対応の立てようがないのだが……」
瀬川少尉が困ったように言葉を濁すと、今度は助役が横から口を挟んだ。
「村長。山際に住む者だけに限ってはどうでしょう。鉱毒の話も出るでしょうが――、
軍人様方も、ここではお立場をいったんお置きいただいて――ただ村の話を聞くだけ、ということであれば……話をする者も出てまいりましょう。」
瀬川少尉は困り果てた顔で、黙って控えていた伊狭間中佐へと視線を送った。
伊狭間中佐はその視線に気づくと、フンと鼻を鳴らし、頭をボリボリと掻きながら、面倒くさそうに口を開いた。
「よいか。今に限っては、鉱毒がどうのこうのは一旦不問にする。
怪異の解決を第一の目的とせよ。
――そして、ここで見聞きしたことは、一切他言無用だ。」
中佐の一声に、瀬川少尉はあからさまに安堵の色を浮かべた。
「よし。それでは軍服は不要な威圧感を与える。
各自、持参した私服に着替え、さっそく山際の集落へ向かうぞ。」
少尉の号令に従い、候補生たちは一斉に荷を解きはじめた。
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