第七話 銀器の音にまぎれて
宮城から靖国神社へ参拝を終えても、まだ昼前だった。
「お昼……どうする?」
鳥居のところで振り返り、もう一度礼をする。顔を上げた時子は、清至をそっと見上げた。
「……特に考えていなかったが……うちの系列で、最近洋食屋を始めたから、それでよければ、どうだ?」
「“うち”って、斎部?」
「ああ。」
時子は少し考える。清至の実家については、人づてに聞いた噂しか知らない。
生糸で相当儲けているらしい――そんな話を、噂好きの妙子から耳にしたことがある。
時子は士官学校で付き合う上では、相手の実家がどんな家であるかなど、知る必要のないことだと思っていた。
「清至は、行ったことあるの?」
「ない。三月に開いたばかりだからな。平日は官庁勤めの者が昼餉をとりに来るらしいが……今日は日曜だ、空いているだろう。」
「近いの?」
「ああ。」
清至の表情に、かすかな緊張が浮かんでいた。
それを感じ取った時子は、思わず口の端をくいっと上げる。
――この人ってば……。
「いいわ。それにしましょう。」
そう答えた途端、清至の肩から緊張がすっと抜けるのがわかった。
そのあからさまさに、時子はつい吹き出してしまった。
清至に案内されたのは、赤坂の表通りから一本入った一角にある洋食屋だった。
――洋食
赤レンガの外壁が目にも鮮やかで、いかにも敷居の高そうな店構えだ。
時子は、手持ちの小遣いを心の中で勘定し直す。
しばらくは酒保(購買)のあんパンを我慢せねばならない――そう思うと、胸の奥で小さく涙を呑んだ。
そんな時子には気が付かず、清至は重厚な木の扉をゆっくりと押し開ける。
カラカラとベルが鳴って来客を告げると、すぐに奥から黒服に蝶ネクタイの初老の給仕が出てくる。
「いらっしゃいま――、おや、若様ではありませんか。」
給仕も清至の顔見知りだったらしく、相手が分かると親し気に破顔する。
「ああ、外出で近くに寄ったから来た。」
「今年から士官学校に進学されたのでしたね。おめでとうございます。
――そちらの御方は、もしや……」
給仕の視線がちらりと時子へ移る。
「俺のカメラートだ。」
「なるほど。さようでございますか。」
異能科の事情にも通じているらしく、そのまなざしは優しげで、時子の胸を少しほっとさせた。
時子が店内を見渡すと、昼には少し早い時間だったが、すでに多くのテーブルが埋まっている。
白いクロスの上に銀器が並び、ざわめきの中にフォークとナイフの音が心地よく響いていた。
「なかなかに繁盛しているようだな。」
清至の言葉に、給仕は嬉しそうに頷く。
「ええ、おかげさまで。――ささ、奥へどうぞ。個室をご用意いたします。」
テーブルの脇を通り抜け、案内されたのは若草色の扉の向こう――
四人掛けのテーブルがシャンデリアの下に置かれた、こじんまりとした部屋だった。
清至はサッと時子のために椅子を引いた。
「ありがとう。でも……そういうのは要らないわ。」
女性扱いされるのは、どうにも居心地が悪い。
「――そう言うな。」
彼はわざとそっぽを向き、低くつぶやいた。
「若様、何かご希望はございますか?」
給仕がたずねると、清至は時子へ視線を送る。
「何か希望はあるか? 食べられないものは?」
「いいえ、何でも食べられるわ。」
時子がうなずくと、給仕は提案した。
「――もし召し上がったことがなければ、クロケットなどいかがでしょう。当店の人気の品でございます。清至さまはビフテキでよろしいでしょうか。」
「任せる。」
清至は言い切って、時子に向き直った。
給仕が去ると、時子はホッと息をついた。
清至は涼しい顔のまま、真正面から彼女を見つめている。
背筋を伸ばした姿は、いかにも軍人らしく――何もかもが整って見えた。
――かっこいいって、こういうことを言うのね。
思わず苦笑が漏れる。
「なんだか……思っていたより、すごいところね。」
「そうか? ここは斎部の古くからの分家が経営している。当主の次男が洋行して、料理に目覚めたらしくてな。」
「へぇ……」
時子は、少し彼の実家に興味を覚えたが――不躾に尋ねてよいものか、しばし考えた。
時子の視線の意図を感じとって、清至は口を開く。
「俺の両親は生粋の軍人だ。資産の管理は、異能の弱い分家の役目になっている。
一方で、異能に優れた分家の連中は特務局に多数出仕しているから……そのうち顔を合わせることもあるだろう。」
「……本当に、若様なんだねぇ……」
「やめろ。お前にそう呼ばれたくない。学舎で口にしたら許さないからな。」
本気で嫌がっている清至が面白くて、時子はクスリと笑ってしまう。
「了解。」
言ったところで、サラダが運ばれ、
つづいて鉄皿で熱を含んだビフテキが香りを立て、きつね色の衣をまとったクロケットが湯気を吐いた。
食事を終えると、珈琲が運ばれてきた。時子は思わずお腹をさする。
扉の向こうでは、銀器の微かな触れ合いと、誰かの低い笑い声だけが続いている。
「見た目に寄らず、重厚だったわ……夕餉まで引きずりそう……」
「それはないだろう。どうせこれから中野まで、十キロは歩くんだ。」
清至は何も入れない珈琲を口にする。
時子は角砂糖を二つ、それにミルクまで落として、スプーンでぐるぐるとかき混ぜながら口を開いた。
「――せっかく個室だから聞きたいんだけど……」
時子と清至は男女の組ゆえ、学舎では二人きりになることがない。
いつも誰かの耳目がある。
だからこそ、ずっと聞けなかったことがあった。
「なんだ。」
「清至の神威って、何なの?」
「……どういう意味だ?」
「どんな神様なのかなーとか、どんな力なのかな、とか。
ちょっと気になってたけど、秘密だったら悪いから、何か聞けなかった。」
時子は珈琲を一口すすって「にがっ」と言うと、角砂糖をもう一つ追加する。
そんな時子を清至はもの言いたげに見つめたが、結局それには触れずに質問に答えることにする。
「斎部家は、表向きには諏訪神社として、建御名方神と八坂刀売神の夫婦神を祀っている。
だが……内実は違う。本当は、
「聞いたことのない神様ね。」
「ああ。この国に天照大神が祀られるようになる以前からの、古い神だからな。」
時子はしばらく珈琲をぐるぐるとかき回しながら、次の質問を考える。
「夫婦神か……。ああ、だから斎部特務中将と夫人は、そろって軍に出仕して、いつも一緒にいなければならないのね。
……あれ? じゃあ、清至は今――神威はどうなってるの? 夫婦神の両方から、力を借りられるの?」
「いや、今は男神――戸神名神からの神威しか借りられない、不完全な状態にすぎない。
将来的には、俺の妻となる女が女神の依り代となり、初めて全き力となる……はずだ。」
「『はずだ』って……確定ではないの?」
時子は珈琲から視線をあげ、首をかしげる。
「ああ。二神一柱となったのは両親の代からだからな。継承がどうなるのか、見当をつけるしかないんだ。」
「へぇ……」
本当はもっと、彼の力について聞きたかった。
けれど、なぜかそれ以上の言葉が出てこなかった。
――清至の妻となる人、か。
士官候補生には結婚も婚約も許されていない――そういう建前はあっても、良家の若様なら、生まれたときから許嫁がいてもおかしくない。
その将来の妻は、もう軍に出仕しているのかもしれない。
あるいは、まだ幼年学校にいるのかもしれない。
――もしかしたら、私の知っている同輩や後輩の中に……。
胸の奥で、思いがぐるぐると渦を巻いた。
「何を考えている?」
空になったカップを、清至がカチャリと音を立てて置く。探るような眼差しが向けられた。
「いいえ、別に。……清至は大変だなって思っただけ。」
時子も珈琲を飲み干し、静かにカップを置く。
――カメラート。私たちは在学中だけの関係なんだろうな。
卒業したら、彼はきっと、彼の両親のように妻となる女性と組むはず。
そのとき、自分は――
……邪魔ものだ。
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