第五話 沈黙の代償

「ど……どうした?!」

「なんだなんだ!」


 四月とは思えぬほどの冷気が肌を刺し、周囲の候補生たちもざわめきを始める。

 異変の正体――時子の異能が露見してしまいそうになった、その刹那。

 一陣の突風が奔り、彼女の体を狙い澄ましたように横合いから薙ぎ払った。

 それは風の異能――妙子と絢子、二人の手によるものだった。


「時子っ!」

「時子さんっ!」


 妙子と絢子が慌てて横合いから駆け寄り、時子の肩を必死に揺さぶる。


「斎部殿、早くこの氷を溶かして! 私闘とみなされたら、あなたも連帯責任よ!」


 呆然と立ち尽くしていた清至に、絢子が鋭く叫ぶ。

 ハッと我に返った清至は掌を突き出し、炎を解き放った。

 燃えさしのような熱が走り、突風に散らされた氷柱は音もなく溶け、白い霧となって消えていった。


「貴様ら、何をやっている!」


 学舎へ戻りかけていた瀬川少尉が、怒声とともに取って返してきた。


「申し訳ありません。異能の使い方を教えていただいて……つい、試してみたくなりまして」

 絢子がとぼけたように微笑む。


「試してみたら、思いがけず――」

 海野も頭を掻き、眉を下げて見せた。


「……ふむ。自己研鑽、大いに結構だ。だが、そういうことは放課後の鍛錬時間にやれ。ほら、昼に遅れるぞ!」


 斎宮を務めた絢子の言葉を疑わなかったのか、瀬川少尉は深く追及せずに踵を返す。

 背が遠ざかるのを見送り、一同はようやく息をついた。


「森本さん、時子を不用意に煽らないで。彼女は弱くも気長でもないんだから。

 幼年学校じゃ“麹町の喧嘩牡丹”って呼ばれてたのよ。――教室を氷漬けにしては、反省房に放り込まれてたんだからね」


「ちょっ、妙子! その話はナシって言ったでしょっ!」


 時子が慌てて妙子の口を塞ごうとするが、彼女はするりとその手をかわす。


士官学校ここに入るまでに、時子がどれだけ感情を抑える鍛錬を積んできたか――あんたには関係ないだろうけど。

 でもね、斎部さんのカメラートにふさわしい実力は、ちゃんとある。くだらない言いがかりで足を引っ張るのはやめて」


「……でも――」


 なおも清至に食い下がろうとした森本の首根っこを、海野ががしっと掴む。


「でもじゃなーい! 君の“K”は俺、海野幸昌! あきらめたまえ!」


「ぐえぇぇぇ~っ!」


 悲痛な声を上げる森本をお構いなしに、海野はぐいぐいと引きずって学舎の方へ退散していった。


「それに、斎部さん、あんたもだわ!」

 妙子の怒声が飛ぶ。

「自分の“K”が貶められてるのに、どうして平気な顔して見てられるのよ! すかしてんのか、表情筋が死んでんのか! 本当に時子がふさわしくないと思ってるのか知らないけど――それでも時子は、あんたの“K”なのよ! 信じらんないっっ!」


「いや……その……俺は――」


 清至が珍しく言葉に詰まり、困惑の色を浮かべる。

 妙子はさらに噛みつこうと口を開いたが――


「妙子、やめて。もういいよ。大丈夫だから」


 時子はそっと妙子の袖を引き、清至の正面へと一歩進み出た。


「斎部さん……制御できず、暴走してしまってすみませんでした。それから――氷を処理してくれて、ありがとう。

 貴方にとって私は不足な相手かもしれません。……相性がどうしても合わない場合、まれにカメラートの解消や組み換えも認められるそうです。そのときは……遠慮なく」


 無理に笑みを作ってそう告げると、時子は踵を返した。

「妙子、絢子さん、行こう」

 そう言い残し、二人を促して学舎の方へ戻っていった。


「――っ」


 清至は、彼女を呼び止めようと手を伸ばした。

 だが、喉から漏れたのは声ともため息ともつかぬ掠れた音だけで――

 手だけが宙に残り、彼はひとり取り残された。


 +++++



「……あの後、時子に、カメラート解消を申し出られた」


 その日の放課後。鍛錬場へ向かう途中で海野を呼び止めた清至は、この世の終わりを告げられたかのような顔で吐き出した。


「は? おいおいおいおいおい、嘘だろ!?」


 目を剥いた海野の隣で、森本が勢いよく身を乗り出す。


「本当ですか!? やっぱりわかってくれたんだなぁ! じゃあ、僕と――」


「千尋、これ以上ややこしくするな。黙ってろ」


 森本を羽交い締めにする海野を横目に、清至は遠くを見るように深いため息を洩らした。


「あいつ……俺がカメラートを嫌がってると思ったらしくて――『いつでも遠慮なく』と……」


「すぐに否定して引き止めただろうなぁ!?」


「……いや」


 清至は靴先をじっと見つめた。


「まさか……弁解もせずに、そのまま行かせちゃったのかよ……!」


 あきれ果てて叫ぶ海野に、清至は黙って俯いたままだった。


「あー、もう……俺知らねぇからな! どうするつもりだよ」


「……時子と……別れたくない」


「だよなぁ!なりふり構わず、校長に直談判までして手に入れた“K”なんだからなぁ。」


「ちょっとまって、それどういうこと?!」


 清至と海野の会話を、隣で聞く森本は、初耳のとんでもない情報に、目を白黒させる。

 海野はそんな森本を無視して、清至を怒鳴りつけた。


「お前が直談判なんかしなければ、本来なら俺の“K”は時子ちゃんだったんだぞ! 氷まで操れる優秀な水の使い手で、相性は抜群だった。

 でも蓋を開けたら、よりによって火の千尋だ。水と火、相克で相性最悪だぞ? 最初は本気で頭抱えたわ。

 それでも考えて悩んで、どう連携すりゃいいか探って……ようやく覚悟が決まって来たんだ。

 だから今さら『交代で』なんて、冗談でも許せねぇ!」


「えっ!もしかして、僕ってお荷物?!」


 素っ頓狂に叫ぶ森本へ、海野が今度はすかさず突っ込む。

「お前だって、俺が“K”じゃ不満だったんだろ」


 そしてすぐに清至へ顔を向け、言葉を叩きつけた。

「とにかくお前は口数が少なすぎる。『沈黙は金』なんて言うが、お前のはただの無言だ。

 時子ちゃんはおふくろでも女房でもない。思ってることは言わなきゃ伝わらねぇし、ふんぞり返ってるだけじゃ、いくら愛想のいい彼女だって、いずれ愛想を尽かすぞ!」


「……しかし……俺は、何を言えば……」


 視線を落としたまま言い淀む清至に、海野はとうとう堪忍袋の緒を切った。


「言うことなんざ決まってんだろ! 今すぐ時子ちゃんのところに行って、まず謝れ!

 それから“K”を解消したくないって、みっともなくすがりつけ!

 恥も外聞もかなぐり捨てろ。そのくらいしなきゃ、伝わるもんも伝わらねぇんだ!」


 ほら!と指を刺した先には、かなり離れていたが、時子たち女子三人が見えた。

 彼女は、妙子・絢子組の鍛錬を横で観察し、気づいたことを指摘するなどしているようだった。

 二人を見詰める時子は、少し寂しそうに見えた。


「……わかった、やってみる」


 清至は思いつめたように呟き、迷いを振り払うように彼女たちの方へ一歩踏み出した。


「……お前、案外いいこと言うんだな。僕、ちょっと惚れたかもしれない」


 去ってゆく清至の背を見送りながら、森本がしみじみと呟いた。


「……そりゃどーも。だが俺は年上のお姐さん派だ」


「バカ! そういう意味じゃねぇ!」


 森本の蹴りが容赦なくすねに炸裂する。

 ごすっ、と鈍い音――次の瞬間、海野はすねを押さえて飛び上がった。




「時子……少し、話を聞いてくれないか」


 清至は恐る恐る声をかけた。

 その声音には、いつもの尊大さは欠片もなく、不安に震える情けなささえ滲んでいた。


 時子はぴたりと動きを止め、たっぷり一拍の沈黙を置いてから、ゆっくりと振り向く。


「……何でしょう?」


 挑むような視線を投げかけ、かすかに眉をしかめて彼を間見やった。

 時子の背後にいた妙子と絢子も、不快そうに清至を睨み、何か言いかけそうになるのを時子に止められる。


「……誤解させてしまったのなら、本当にすまない。俺は……おまえとカメラートを解消したいわけじゃない」


「……誤解も何も。私は自分が侮辱されたことに対して怒っただけです。あなたが謝る理由は分かりません。

 それに解消の話も――昨日からのあなたの態度を見て、そういう選択肢もあると言っただけです。」


 時子の冷めた視線に、清至は腹の底に氷の塊が沈んでいくような心地がした。


「俺は――解消なんて、微塵も考えたことはない。……他の誰でもない。俺は、お前が良い」


「はぁ……? そうなんですか。私にはそうは思えませんでしたけど」


 必死に絞り出す清至に、時子はますます怪訝そうな顔をする。


「お前が……解消したいわけではないのだな?」


 やっと視線を上げた清至は、不器用に上目遣いで時子を見た。


「ええ。あなたの態度からそう思っただけです」


「そうか……」


 呟いた清至の口元に、初めて笑みが浮かぶ。

 ひとりで何かを納得するように小さく頷くと――


「明日からは、必ず挽回する。だから、俺にもう一度機会をくれ。明日の朝、また迎えに行く」


 それだけ告げて、清至は安堵したように背を向け、学舎へと歩み去った。


「……明日って、今からじゃないの? ……ほんと、変な人」


 時子は小さくため息をつきながら、その背中を見送った。

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