花天月地【第97話 枯渇】

七海ポルカ

第1話




江陵こうりょう?」



 お前を次はそこへ送り込むつもりだと告げた時、陸議りくぎの瞳にはやはり喜びなどは見えず、戸惑いが浮かんだ。

 

 長江ちょうこうのほとりは故郷にも等しいだろうに、帰郷出来るという喜びが少しもない。

 陸議と孫呉の間には、今やはっきりと隔たりが見えた。

 今、陸伯言りくはくげんは恐らく故郷や、仕えるべき国を失った状態にあるのだ。


 同じように、故郷や仕えるべき国を持たない徐元直じょげんちょくに陸議が目を留めたことと、何か理由があるのだろうか?


 共感。


 司馬懿しばいは幼い頃から他者に共感するということがなかった。

 兄弟仲も親しくなかったし、家風は厳格で、気安い馴れ合いを禁じ、各々が早々に自立していることを求められていたという下地もあるが、その家族の中でも司馬懿は異端だった。


 曹操そうそうが司馬懿の出仕に積極的ではない性格を嫌って、遠くへ左遷された時も、着の身着のままふらりと旅に出た。

 南陽なんようの小さな街の役人で、仕事をしたがあまりに暇で、好き勝手に西へ東へと街や砦を見て回った時期がある。


 そういった時も一人で気ままだったし、人は司馬懿が司馬家の男だと知ると身構えるのに、司馬懿は常に自然体のままだった。


 自分は誰とも異なるという自覚はあった。


 曹丕そうひとだけは、曹操に疎まれたという共通点がある。

 彼こそ自分の主だと思っているし、その為に力を尽くそうという意志が今はあるが、あくまでも主従関係が厳格にそこにはあるため、気安く曹丕に共感することもあまりないのだ。


 だから司馬懿は、他人に共感して心を寄せるということが理解出来なかった。

 

 頭ではそういうこともあろうとは勿論分かるが、自分でそうなったことがないため実感がない。


 人は他人に共感し、心を近づける。

 痛みや、

 興味。

 愛情もそうだ。


 同じ事を理解出来るということが、心の壁を取り払う。


 甄宓しんふつの夜宴に招かれた時、陸議が徐庶じょしょの素性や事情を知っていたのなら、彷徨う者としての共感を持ったかもしれない。だがあの時互いの素性も全く知らなかったのならば、背景なども分かるはずもなく、やはり一応の説明を受けても納得出来ない不思議な直感で、陸議は徐庶に目を留めた。


 あの凡庸な――荀彧じゅんいくや、郭嘉かくかや、輝くような才気を纏う者がその場に現れると、瞬く間にその影に埋もれるような男の――何が陸議の意識を引いたのか。


 司馬懿は陸議がもし、彷徨う者としての嗅覚で徐庶を嗅ぎ分け共感したとしたら、それは忌々しかった。


 陸伯言りくはくげんが才気を感じ取って強き者を見い出し惹かれるならば、その慧眼を評価している身として喜びを感じるが、孤独に惹かれるのは弱者のすることだ。

 陸議が自分を慰めたいが為に似た境遇の徐庶に共感を覚え、親しみを覚えるならば、あからさまな傷の舐め合いは見てて嫌悪するばかりで、本当にそんなことが理由ならば徐元直じょげんちょくを殺してやろうとさえ思うほどだった。


 郭嘉が江陵に陸議を伴うと告げられた後、賈詡かく経由で、郭嘉が護衛のために徐庶も連れて行くつもりらしいということも聞いた。

 


「陸議が問題なんじゃない。徐庶が理由ですよ」


 

 何故郭嘉が徐庶など連れて行く? と聞いた時、賈詡は平然と答えた。


「徐庶の扱い方は魏の人間には分からない。

 だが先だっての馬岱ばたいの件で、初めて徐庶が自分で魏の方へ戻って来た。

 自分を庇って逃がそうとした陸伯言への恩義に報いる為だと思われますが、確かに初めて徐庶が他人のために動いた。

 あいつは今のところ、ああいう扱い方で命令に従わせるしかない。

 つまり陸伯言と組ませる。

 郭嘉はそう言っていましたよ。

 徐庶は容易く魏を見切る男だが、陸伯言のことだけは安易に切り捨てられないという意志を見せた。

 尤も、そういうものが持続するのかどうかは分かりませんが。

 とにかくそういうのも含めて郭嘉は江陵で徐庶を見極めるつもりらしい。

 陸議と組ませても扱いきれないと感じたり、魏に仇なすばかりだとあいつが判断すれば、まあ、誰の手も患わせずにあいつが決着を付けるでしょう。

 

 元々は徐庶は、曹孟徳そうもうとくが魏に呼び寄せた。


 郭嘉は曹操の腹心だ。

 徐庶が使えない男なら、郭嘉が始末するのはある意味道理に合ってる」


 司馬懿は郭嘉が陸議を江陵に伴うことには不満は持っていたが、ある意味では面白いとも考えていた。

 彼自身が陸議の才に向ける信頼は強く、

 郭嘉ならばその才の価値を正しく見抜くだろうと思ったからだ。

 あれも非凡な男だから、郭嘉に陸議が評価されるのであれば時々は司馬懿が使い、時々は郭嘉が使う。

 陸伯言はそういう使い方をしていってもいいと思った。


 奇しくも郭嘉が口にしていた。

 

 陸佳珠りくかじゅを自分の妻にして、結婚後も女官としては司馬懿が使い、そうして二人で使っていけばいいと。


 陸伯言を状況に応じて二人で使って行く。

 司馬懿はそれは悪くない提案だとは思っている。


 しかし、目障りなのが徐元直だった。

 徐庶が持ち込んだ得体の知れない風が、陸議の周囲にある。

 徐庶などに籠絡される程度の男ではないと分かりながらも、徐庶は出現理由が謎めくため、司馬懿の癇に障った。


 

「徐庶を伴うことにご不満ですか?」


 

 司馬懿の表情を見ていたのだろう。賈詡がふと、尋ねて来た。

 

「……もし貴方がご不快なら、恐らく私が郭嘉に伝えて、徐庶の江陵行きは取りやめれますよ。郭嘉も敢えて徐庶が使いたいという訳ではない。あいつが使えるのか使えないのかもまだ分からないが、長安ちょうあんに戻しても今まで通り凡庸な働きしかしないことが分かってるから、それならばついでに連れて行こうと思い立ってるだけです。

 俺は徐庶は扱いにくくて嫌いなのも、郭嘉は知っている。まあ涼州で好き勝手したから、その罪滅ぼしに厄介者を一人引き受けたというだけで、貴方が徐庶をここに留まらせるというのなら、郭嘉はむしろ貴方に徐庶を押しつけて、陸議と二人で喜んで江陵に向かうだけだと思いますが」


 徐庶には確かに涼州に置いても、長安に置いても、大した使い道はなかった。


 涼州に置けば、南に涼州騎馬隊が行った以上、顔見知りの徐庶は戦場で相まみえるとまた何か問題を起こす可能性があるし、使えて涼州の各方面の調査や巡回程度だろう。しかもそれにも徐庶の場合涼州の民への同情が入る可能性があるので、軍事調査としては信頼性がない。

 それならば他の密偵にさせた方がずっと効果的だ。

 長安に戻せば、また一介の役人に戻り埋もれて過ごすだけで、これも魏にとって何の得にもならない。



 徐庶には未だ隠れた才気があるため、

 貴方を決して失望させないと陸議は言い切った。



 陸議の慧眼を評価する司馬懿にとっては、また徐庶を長安に戻してつまらない仕事をさせるのも、癇に障るのである。

 

 陸伯言が感じ取った「才気」を自分が感じ取れていない、そういう気もする。


 数日鬱々として考えたが、

 結局陸議が徐庶に拘る理由が本当に才気なのであれば、問題なく組ませて使えばいいのだと思った。

 

(しかし陸議が単なる傷の舐め合いを求めた共感なら、そんな下らない感情を陸議に覚えさせるあの男を殺してやる)


 そう心に決めると鬱々した気持ちが失せ、落ち着いた。

 むしろ陸議の目の前で徐庶を殺してやれば、また陸議の魂は悲鳴を上げるはずだ。

 陸伯言を孫呉で過ごした過去から切り離したように、

 また心の拠り所を潰して、どこにも戻らせなくする。


 大きな庇護の中で守られて過ごして来た陸議は、才気など露わにしなくとも人間に好かれた。

 礼儀正しく、聡明。

 それだけでも十分人の輪の中に溶け込む。


 しかし真に才ある者とは本来、誰とも分かり合えないものだ。

 

 陸議の柔らかい性格は、まだまだ壮絶に削り取る余白が大いにあると司馬懿は捉えている。

 そうして才能と共に人格も研磨し、

 いつかは郭嘉や賈詡のような人間の側に立っても侮られないような、そういう人間にしたいと司馬懿は望んでいる。



 陸議の心を根拠なく満たす徐元直じょげんちょくという存在は、司馬懿にとっては目障りだった。



 まずは江陵へ共に赴かせ郭嘉の許で徐庶がどれだけの仕事をするか、高みの見物をするのは悪くない。

 しかし司馬懿は現時点でも、心の天秤は徐庶を殺す方向に若干傾いていた。

 江陵へ共に向かえば陸議は恐らく今よりも、もっと徐庶に情を移すはずだと思った。


 それは好機だ。


 江陵へ向かい、陸議が魏の軍師としての使命に目覚め、郭嘉に集中していくようならば、自然と魏に心の無い徐庶とも心は遠ざかると思うが、郭嘉を側に置いても徐庶に情を覚えるようならばそれは弱さであり、怠惰である。



(そうであるなら戻って来た時、陸議の目の前で徐庶を殺してやる)



 心に決めたその想像を、司馬懿は思いの外気に入った。

 待ち遠しいほどだ。



 陸議を呼び、江陵行きを告げる気にようやくなった。


「郭嘉がお前を副官とし、江陵へ連れて行きたがっている。

 祁山きざん築城や定軍山ていぐんざん方面は、一応の方向性は整ったからな。

 私は一度長安ちょうあんに戻るため、江陵に行く間はない。

 私の代わりにあの地域を見てこい」



「郭嘉殿が……?」



 郭嘉が何故自分を指名したのか分からないのだろう。戸惑いが見えた。


「あの……、」

「なんだ」

「貴方が郭嘉殿に?」


 司馬懿は窺うように尋ねて来た陸議を鼻で嗤う。

「私が自分の副官を、あいつに連れて行って鍛えてくれなどと言うと思ったか?」

 陸議はそうは思わなかったらしく、押し黙った。


「安心しろ。私は一言もそういうことは助言していない。

 郭嘉はお前にどうやら興味を持ったようだ。

 あいつが懸想している【陸佳珠りくかじゅ】とは、今や全く関係なくな」


 司馬懿は楽しそうに笑みを漏らした。


「これは私も予期していなかったことだ。

 郭嘉がお前に興味を持つにしても、いずれ魏軍の軍師としてお前が立ってからのことだと思っていたからな。

 私は今回の涼州遠征で、さほど自分の側にお前を副官として縛らなかった。

 その中でお前が行動した結果、郭嘉の意識を引いた。

 さすがだな。陸伯言りくはくげん

 お前はそうでなくては」


 陸議の顔が強張った。

 この表情は期待を与えられた時に、それを裏切るわけには行かないと彼が思った、緊張の表情に違いなかった。


 かつては孫呉で周瑜しゅうゆなどに何か任された時も、同じ表情をしていたはずだ。


 裏切ってはいけないと、強く覚悟を決めるのだろうが、

 こういう所がまだまだ己を知らないところだ。

 

 一人で立っている司馬懿や、郭嘉や賈詡は、何かを任された時こういう表情は見せない。

 自分ならば必ずやり遂げてみせると平然と頷くだけだ。


 江陵へ行き戻って来た時に、陸議がどんな表情を浮かべるようになっているか、それは楽しみだ。


「江陵は今、状況が拮抗してる故、軍を差し向けることは出来ん。

 だから郭嘉も人を伴わずに行く。普通は護衛を付けるが、大規模な護衛部隊も付けられんからな。お前の使命は郭嘉の副官としてその地に赴き、郭嘉が求める以上の期待に応えること。そして奴の護衛だ。

 ただし、お前も郭嘉も現時点では深手を負っているからな。護衛として徐元直じょげんちょくも伴う」


 司馬懿は内心に刃を秘めて陸議の表情を見ていたが【徐庶】と聞いて、少し陸議は驚いた顔は見せたが、そこに喜色などは全く無かった。むしろ、少し考え込む表情を浮かべた。


「徐庶に不満か?」


 司馬懿が尋ねるとハッとして陸議は顔を上げ、大きく首を振った。


「いえ。違います。そうではなく……、あの方はいずれ魏軍を除隊したいという意志を持っておられました。許しが出れば長安での職も辞して、街を去るそうです」

「去ってどうするのだ?」

「学問の道に戻られたいと。以前身を寄せていた【水鏡荘すいきょうそう】に戻るおつもりだと言っていました」


 その話は、司馬懿は知らなかった。

 徐庶の中に魏に対しての猛烈な使命感が生まれたとは思っていないが、陸議への情があると読んだ郭嘉や賈詡とは異なる意志である。


「……司馬懿殿。あの方の中には、恐らく以前のように蜀へ行って、劉備の軍師として働きたいという欲求はなくなっているように思います。

 恐らく人間の柵に苦しんで、国や軍に関わることをどこの国と問わず忌むようになってしまったのだと思います。

 山中で私とはぐれた時、蜀に行こうと思えば行けた。

 行かなかったのは、以前ほどその願望が無かったからです」


 ふと、司馬懿は陸議を見た。


「お前はそう見るか」


「そうとしか……。今更あの方がどこかに去ったとして、曹丕そうひ殿下や貴方が洛陽らくようの母君を手に掛けるとは思っておられません。

 それならばあの状況で敢えて天水てんすい砦に戻ってくる理由はありません。

 戻って来た理由は一つ、じきに去るからです。

 そして蜀にも行かない。

 ……勿論、郭嘉殿が意図して護衛に徐庶殿を伴われるのならば異存などありませんが、江陵は、これから先の戦線になる場所。去る決意を定めておられる徐庶殿とは、最も相容れぬ場所なのでは?」


 司馬懿はゆっくりと立ち上がる。


「そうかもしれんが、郭嘉や賈詡の見方は違うようだぞ。

 徐庶が今回天水砦に戻ってきたのは――お前の為だ」


 陸議が息を飲んだのが分かった。


「奴は魏に縁がない。

 だから母親以外に質に取るものも無く、扱うことが出来なかった。

 徐庶の心にはまだ劉備と蜀はある。

 だがその私情を、自分を逃がしたお前への恩と秤に掛けて重く見た。

 それで戻って来たのだ」


 陸議の顔色が変わった。

 それは、司馬懿が予想した表情とは違った。

 

「そんなはずは……ありません……」


 血の気が引いて、目を見開いたまま唇が微かに震えた。


「初めて徐庶が蜀への想いを殺した。

 お前がさせなかったのだ。喜ばしいことでは無いのか?」



「――やめてください!」



 陸議は強く、言い放った。


「私は徐庶殿には、望むようにするのが一番だと伝えました。

 彼の枷になりたいなどと少しも思っていません!

 人は……、

 望む場所に行くべきです。

 私が思っているのはそれだけです。

 望む場所にいるから、全ての力を発揮出来る。

 望まない場所にいてほしいなどと思いません! 誰に対しても!」


「どうした陸議。何を狼狽えている?」


 ハッと顔を上げると司馬懿が紫闇しあんの瞳で自分を見下ろして来ていた。

 その瞳の奥の光が、どこか楽しげに揺れている。


「そういえば飄義ひょうぎの話では、お前は随分龐士元ほうしげんに思い入れがあったようだが。

 呉でも重宝されず、

 蜀でも重用されずに、死んだ奴を哀れんでいるのか?」


「…………違います……」


 そういう気持ちは以前は、あった。

 だが今は最後は、龐統ほうとうは自分で選び取った、望む場所に立ったと思っている。


 そう信じれるようになった。


「郭嘉はそういえば【剄門山けいもんさん】の戦いにも興味を持っていたようだ。

 私もあの戦いは、見通せない面に置いては興味深い。

 郭嘉が【剄門山】も見たがっていた。

 郭嘉かくかとお前自身があの場所で何を感じ取るか。それをよく確かめて来るんだな」


 陸議の表情を見ていると、

 色々な人間の思惑を捉え、それに対して考えている事が分かる。


 龐士元ほうしげんの名は、陸議の中では重い。


 何故そんなにも重いのかは分からなかったが、司馬懿は龐統という男を全く知らなかったので、逆に陸議と龐統の繋がりには興味を引かれている。

 何故死してなお、龐統の名がこんなにも陸議に揺さぶりを掛けるのか。


 司馬徽しばき門下で、蜀の諸葛孔明しょかつこうめいとは【臥龍がりょう】と【鳳雛ほうすう】と対比された才能だ。 


 陸議が【鳳雛】に惹かれていたのだとしたら、

 これも興味深いことだ。


 司馬懿の眺めたところでは、現時点では龐士元の名の方が、陸議に与える重みは徐庶などより遥かに大きい。


 

 ――では、果たして龐統の名は、陸議の中で孫呉の同胞よりも重いのだろうか?



 陸議の表情に表れた大きな不安の影は、徐庶などに安堵を与えられている姿よりもずっと司馬懿には魅力的に思えた。

 こうして大局に揺さぶられている姿の方が、徐庶の側で微笑んでる姿よりも余程彼らしいと思える。


飄義ひょうぎの話ではお前と龐統の繋がりは希薄だったと聞いたが。

 どうもそうは思えんな。

 呉において奴を庇護していたお前にとっては、忌々しい裏切り者ではないのか?」


「……彼の話は止めてください……。私には……あの人を捉えきることは出来なかったんです」


「ではお前は【剄門山けいもんさん】の戦いをどう見る?

 あれは龐統の自死か。それとも援軍を出さなかった蜀に、見捨てられて殺されたのか?」


 俯いていた陸議が司馬懿の顔を見上げた。

 強く、怒りを持って抗議するような目だったが、司馬懿が涼しい笑みで見下ろしていることに気付くと、唇を引き結び彼は押し黙った。


「郭嘉は【剄門山】の戦いに興味を持っている。副官としてその地に赴けば、この程度の質問は躊躇いなくして来るぞ。これしきのことで言葉に詰まってどうする」


 陸議は顔を逸らした。


「……、郭嘉殿のことですが……あの方が私などに興味を持つのは【陸佳珠りくかじゅ】の存在を、捉え切れないからです。あの方は捉え切れないものほど興味を引かれる。これ以上下手に陸佳珠という女性がいるというように振る舞えば、どこかで貴方があの方を欺いていると思われかねない。

 あの方は曹操殿の腹心でありながら曹丕そうひ殿下の許に躊躇いも無く馳せ参じた方。

 曹魏への忠義は揺るぎない。曹丕殿下に忠誠を誓う貴方とは、何のわだかまりも無く意思疎通が出来なければ、致命的なことになります。

 貴方が【陸佳珠りくかじゅ】を秘するのは、私が呉の将官だったことが露見すれば、曹丕殿下は命を奪う可能性があるからだとおっしゃいました。

 それは確かに私の脅威ですが、貴方の脅威は、郭嘉殿との間に不和を残すことこそ危惧すべきことです。それはいずれ私などより曹丕殿下の前途に暗い影を落とすことになる。

 郭嘉殿には【陸佳珠】は甄宓しんふつ殿との間を取り持つ為に行っていることだと言うべきです」


 陸議が話を変えたのは分かったが、司馬懿しばいは敢えて追求はしないでやった。


「お前が今更、呉にいた過去を知られて命を奪われることを恐れてなどいないことくらい、とっくに分かっている」


「なら何故……」


「お前が許都きょとで目覚めた時、自刃をしなかったのは自らの命を惜しんだからでは無い。

 行くべき道を失ったからだ。生きることも死ぬことも、どちらかを選ぶことが出来ればお前はその道を迷わず選ぶ。

 生きる目的も見つけられなかったが、死ぬ為の大義名分も見失ったからお前は自ら死ぬことが出来なかったのだ。

 お前は孫呉にいた頃から、国のために命を投げ打つ覚悟は出来ていた。

 だが国のために命を投げ打つことは出来ても、国を売れるとは限らん」


 陸議は息を飲んだ。

 刃を、喉元に突きつけられたような気がした。


「人間によっては自分の命を失うよりも、国の情報を売る方が耐えがたい人間がいる。

 お前は後者だ。


 陸遜りくそん


 曹丕殿下にとってお前の命を奪うなど、何の意味も無い容易いこと。

 しかしお前の過去が露見し呉の将官だったことが知れれば、曹丕殿下はお前の命では無く、呉の将官として情報を得るために尋問する方なのだ。


 お前が過ぎ去った過去だと容易く孫呉の情報をべらべらと話すような奴ならば、私とて郭嘉のような相手に曖昧な手は打たん。

 私に郭嘉との協調を薦める時は――国を売る覚悟が整ってから言え」


 陸議は言葉を失った。


 確かに郭嘉が自分の正体を知ってそれで曹丕に密告し、そして曹丕が自分の命を奪えと司馬懿に命じるならば仕方ないと思っていた。

 しかし自分がこれほど孫呉の過去と縁遠くなっても、今になって孫呉の将官として尋問を受ける可能性は失念していた。


「でも私は……。すでに呉軍と関わりを絶って久しく……今更魏軍の糧になるような情報は何も」


「孫呉の陣容や、地理地形、相関関係、そのようなことでも魏軍の糧になる。

 勿論お前の命を失うほど重要な情報では到底無いが。

 陸家の当主としてもし処刑されれば本国にいる陸家も呉では無縁のものとはされない。

 お前の一族にも害は及ぶ。それでもいいのか」


 陸績りくせきの、こちらに優しく微笑みかける顔を思い出した。

 陸議は片手で、顔を覆う。

 首を振った。

 自分はとっくに呉からも陸家からも切り離され、忘れ去られていく存在だと思っていた。

 だが魏にとってはどこまでも呉の者としての利用価値を求められるとまでは、陸議は考え及んでいなかった。

 確かに司馬懿の言う通り、それをどう捉えるかは陸議ではなく曹丕が決めることだ。


「私はお前を呉の降将としてではなく、私自身が見出した者として魏の中枢に置きたいのだ。過去のしがらみなど外界からは何も無く、それを知っているのは私とお前だけでいつか呉軍とぶつかる時に、苛むお前の心境を推し量れるのはこの世で私一人でいい」



 ――徐庶じょしょなど。



 本気で全てを欲しがれば、

 全てを手に出来た男だ。


 弱さでそれを手放した者と、

 戦う宿命に定められた陸伯言りくはくげんが同じものであるはずがない。


「!」


 突然、司馬懿の手が陸議の肩を掴み、後ろに下がった背が部屋の壁に当たった。


「動くな。腕の傷が開くぞ」


 司馬懿の手が、陸議の帯に掛かる。


「だからこそ江陵へお前を伴うと郭嘉に告げられた時、私は喜んだ。

 お前はこちらから仕掛けずとも、私の助力もなく郭嘉の目に留まったからな。

 江陵では郭嘉にその才を示せ。

 お前を郭嘉が気に入れば、その時は曹丕殿下への密告を奴の意志で見送るだろうし、いざ殿下が知ることになり、お前の処刑を望まれても郭嘉が助命嘆願するだろう。

 私と郭嘉が揃ってお前の助命を願えば、曹丕殿下もお聞き届けくださる可能性はある」


 しばらく露わになった陸議の首筋を探っていたが、知らぬ所で郭嘉の目に留まったことや、徐庶との見通せない共感の気配など、これほど四肢を縛り付けても司馬懿の予期しない流れを呼び込んで来る陸伯言りくはくげんの才と価値に、これは自分が見つけ、ここまで持ち込んだものなのだと独占欲と実感を覚え、無性に司馬懿は昂揚した。


 自分の直感は、やはり間違っていなかったのだ。


 陸議の身体を抱え、執務室の奥に置かれた横椅子に下ろすと、衣を容赦なく剥いだ。

 戦場の砦だからと陸議は拒む気配を見せたが、司馬懿は今日は、許さなかった。


「声を出しても私は構わんぞ。

 お前と私の関係が単なる主従でないくらい、賈詡や郭嘉あたりはとっくに勘付いているだろうからな。

 ――お前の徐元直じょげんちょくはどうだ?」


 口に出して、司馬懿は自分でも考えた。

 徐庶は自分と陸議の関係の深さに気付いているのだろうか。

 気付いているのなら陸議との情を深くすることは、司馬懿の逆鱗に触れることになると、余程の愚か者でない限り分かるはずだ。


 それでもこの身体に近づき触れようとするほどの強い自我が、あの男などにあるのだろうか?


 徐庶の名前が出た途端、司馬懿の肩に手を置いて片手で、必死に抗おうとしていた陸議の手の力が抜けた。


「乱世に集中しろ。陸遜りくそん

 江陵は今後の三国の争乱の中心になる場所だ。

 悔いの無いように見れるものを全て見てこい。

 お前が下らない情に絆されたら相手が郭嘉だろうが徐庶だろうが、他の誰であろうが、必ず私が殺してやる」


 短剣を引き抜く音がして、陸議はハッとした。

 咄嗟に右手で、司馬懿が抜こうとした腰の護剣の柄を押さえた。

 鼻先に見合う。

 紫闇しあんの瞳が凄まじい熱を帯びて陸議を見ていた。

 

 まるで魂を選別するような強い瞳で。


 見返すことが出来なければ、この男はこの短剣を躊躇いも無くこの喉に突き刺して来るだろう事が分かった。


 司馬懿の手を押さえつけた手の力が緩むと、挑むように見て来た司馬懿の瞳が一瞬だけ和らいで、笑ったようだった。

 裸体になった陸議の身体を椅子の上に座らせ、司馬懿は手で辿るようにして存分に眺めた。

 司馬懿が今日は譲らないことを察して、陸議は抗うのを止めて、ジッと息を押し込めている。


 司馬懿は、陸議の身体のどこに触れるのも、思いのままだった。


 涼州遠征で付いた左手の深い傷。

 これは許都きょとでは見なかった、見覚えのないもの。

 背を向けると、かつて自分の付けた大きな傷が目に入る。


 指で辿った。

 この傷を見ると、いつも昂揚する。

 

 刻んでやった時の陸議の瞳の怯えと、上げた声を今でも鮮明に覚えている。

 その痕に刃の腹を、背に押しつけた。

 陸議の背中に緊張が走り、それは司馬懿に抱かれることを覚えたその身体が、奥を貫かれる気配を察して強張る仕草に似ていた。


 次の瞬間、一番最初に叩き付けた時よりは遥かに軽く、陸議の背を短剣が斜めに走った。


 椅子の背もたれを掴み、痛みに上げる声を陸議は堪えたが、一撃を受けると白い身体は椅子に倒れ込んだ。


 

「お前は私のものだ」



 まだ見出されていない、星。



 陸議の身体が大きく震えた。白い喉元が反って、無防備に露わになる。

 刃の痛みは耐えた声が、今度は耐えきれず一瞬零れた。


 動かせる右腕が椅子の背に縋り付く。

 左腕は力を失い垂れたままだ。

 司馬懿は反り返った陸議の喉元を押さえつけた。

 押さえつけた手の平に、陸議の喘ぎを感じる。

 相手の左腕が動かせない状況にあるなど、少しも気にしなかった。


 許都きょとで毎夜のように抱いていた記憶が蘇る。

 

 涼州遠征に発ってからは一度も触れていなかったから、今宵陸議には動揺が見えた。

 隠しきれない狼狽の影が、自分の身体を忘れていたことを司馬懿にはっきりと伝え、戦場では私情を押さえずにいたいという欲求を持って、平静を保とうとする陸議の強がりを、根本から破壊してやりたくて溜まらなくなる。


 押さえつけた喉元から、抱え上げた腿裏を通り、つま先まで強い震えが走ったのが分かった。

 力を失い、椅子に沈み込んだ陸議を見下ろす。


 首元まで紅潮し、陶然とした表情は、美しかった。

 常に何かを考えている陸伯言りくはくげんが自我を失い悦楽に没頭する。

 身体は自由に扱ってるのに、心は内に入って行くようだ。

 司馬懿の意のままにならない所へ逃げていくようで、その手の届かない感覚が一層司馬懿を駆り立てるのだ。


 この感覚は、今まで彼は持ったことが無かった。


 女たちを抱いても最後にはただ意のままになって、まとわりついてくるようになるだけで、性欲を発散する以外にそこには何もない。


 陸議だけが最中に抗える限り抗い、例えどこかで快感に身を明け渡しても、翌朝目覚める頃には清廉とした空気を取り戻し、司馬懿に甘え掛かって来るようなことが少しも無い。


 江陵に解き放った鳥が、自分の許に戻って来た時どんな表情を見せるのか、今から楽しみだ。

 距離を置くことで司馬懿から心を離すのか、寄せるのか。

 心に何を棲み着かせ戻って来るのか――それを存分に確かめる。

 どう扱うかはそれを見てからだ。


(それは徐庶も同じ)


 徐庶を殺すか殺さないかは、江陵から戻ってから決めてやる。


 彷徨う者同士が傷を舐め合って情を交わすようになっていたら、徐庶の前で陸議を抱きながら互いに狼狽する様を眺めてやるのもいい。

 どうせ徐庶など、司馬懿がそうしろと命じれば断る術も持たない立場でしかない。

 陸議が快楽に堕ちた時、あの動じない男がどんな顔を見せるのか。

 それを見てやるのも一興だ。


 ――そして陸議は。


 くっ、と司馬懿は笑みを零した。


 こういう噛みつき合うような性行為を、陸議と長江のほとりで相まみえ、傷を付け合って別れたあと、手に入れることが出来なかった怒りで自暴自棄になり『あの女』とあの場所で交わりたかったという想いがどうにもならなくて、陸議に似た瞳や髪の色の女を手の者に集めさせ、代わりに抱いて紛らわせていた時にしていた。


 枯渇して、


 今頃あの輝く瞳を持った美しい女が、あの鈴で身を飾った男に好きに抱かれているのかと思うと、怒りと渇きで、渇いて渇いて仕方が無かったのだ。


 傷が完治してから徐々にその熱は落ち着いていたが、あの頃は一晩中精を放っても満たされなかった。


 目覚めても望むものは何一つなかったからだ。

 しかし今は、焦がれていた身体そのものがここにある。


 司馬懿は自分の衣も脱ぎ捨てると、一瞬涼州のことも江陵のことも曹丕のことも忘れた。

 許都きょとを発ってから、何故この身体に一度も触れずに平然としていられたのかと自分でも不思議に思うほどに、陸伯言りくはくげんへと心が押し流されて行くのを自覚していた。





【終】

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