第7話
「月プラットフォーム・ゲートウェイ行き二〇三便、間もなく離陸します。離陸時には約三Gの加速度が掛ります。シートを指定位置に固定し、ヘルメット、シートベルト、末端加圧バーを装着し、離陸姿勢のお済でない方、不安のある方は、急ぎ、キャビン・アテンダントへご連絡ください」
座席付属の簡易なDLESSに離陸準備の指示をすると、ファーストクラスのリクライニングを垂直にまで立て、体をシートベルトで固定、加圧バーが末端部を挟み込み、ゆっくりと加圧する。
最後に酸素吸入器の付いたヘルメットが降りてきて、自動的に頭部に装着される。
DLESSが最終チェックをし、問題がないことを告げる。
さらに、それらに問題がないか、添乗員が確認に回る。
高い自動化能力を持つ高分子コンピュータであっても、ダブルチェックを人間が行うのは変わらない。
「ご搭乗のみなさま、安全運航へのご協力ありがとうございます。本機は間もなくマスドライバーにより第一宇宙速度まで加速いたします。体の力を抜き、リラックスした姿勢でお待ちください。それでは、よいフライトを――」
添乗員のアナウンスに合わせて、マスドライバー・シャトルが加速し始める。
長い地上レールを、リニアレール列車よりも高速になるまで加速した頃、こんどは傾斜したレールに差し掛かり、徐々に機体が上を向くのを体重移動で感じだ。
ここまでは思ったほどの加速度は体にかかっていない。
被ったヘルメットの視界には、シャトルのコックピット先端あたりからの映像を、VR形式で見渡すことが出来る。ちょっとしたアトラクションのよう。
シャトルは十分な、極超音速の加速度を得た状態。周囲の景色がものすごいスピードで流れるが、映像と共に三半規管が対応するのか、この段階でも、まだそこまで身体への負荷は感じない。
〈間もなく第一宇宙速度へ加速します。リラックスしてお待ちください〉
流暢でほとんど違いが分からないが、こちらは添乗員ではなくDLESSの合成音声。マスドライバー打ち上げのタイムスケジュールに合わせて設定されているのだろう。
身構える一息分の間をおいて、急激な加速度が身体を襲う。
旧来のシャトルであれば訓練が必要とされる加速度だが、電磁牽引技術であるトラクタービーム・マットなどを用いた船内の重力加速度のコントロールや、血流をモニターする加圧バーによって、一般人でも楽に宇宙に出ることが出来るようになった。
約十分。加圧バーと加速度に緩やかに圧迫される時間が続く。
ヘルメットの機首VR映像に見える景色は、澄んだ空色から、青、そして深い藍へと。
やがて闇の帳が居り、世界は青と黒の二つに分かたれる。
境界面に輝くダイヤモンドリング。
〈ダークブルーの空、そして太陽のダイヤモンドリングはご覧いただけたでしょうか。フライトは滞りなく、間もなく第二宇宙速度へ加速します〉
フッと、加速度から圧力が消える。
重力を振り切ったのだ。
外はすでに星輝く闇の中。
蒼き我らが故郷の地球は、眼下の生命球となっていた。
再びアナウンス。今度は最初に聞いた添乗員の声だ。
「ようこそ、宇宙へ。フライトへのご協力ありがとうございます。ただいま当機は、月へのクルーズを開始いたしました。三日間の宇宙の旅をお楽しみください」
そのアナウンス後、加圧バーとヘルメット、そしてシートベルトから解放される。
ここから二泊と中一日。標準時間で明後日の夕方ごろには、月プラットフォーム・ゲートウェイへ到着するだろう。
「酔った」
一言そう言って、グッタリしているレイフ教授だった。
「相変わらず重力に弱いですね教授」
「木星生まれなんだ、仕方ないだろう」
「宇宙生まれの人は、三半規管が発達しているものらしいと聞くんですけどね……ラウンジで飲み物でも貰ってきますよ」
「いや僕も行くよ。動けば多少マシになる……と思う」
そういって教授は重い腰を上げた。
このマスドライバー・シャトルには、そう広いわけではないがラウンジが備え付けられている。
旅客列車同様、快適な旅を提供するためのもので、追加料金を払えばビジネスクラスの乗客も利用でき、シャトルではここだけがトラクタービーム・マットによる疑似重力ブロックのためか、よく賑わっていた。
濃く熱く淹れた紅茶に、苺やブルーベリー等のいくつかの種類のジャムが盛られた小皿と、お茶請けのクッキーが付いたティーセットを注文する。
好みのジャムを紅茶に溶いて、適温の頃合いを見て一口。
大気圏離脱の加速でむくんだ身体が、程よい味覚の三重奏で解けていく。
「ふう……生き返る」
「人前で行儀が悪いですよ教授」
だらしなく手足を投げ出して、伸びをする教授をたしなめる。
ティータイムを寛ぐ二人のテーブルに、一人の紳士が立ち寄る。
「旅は楽しんで頂けていますか?」
そういって会釈する。
クーリーはすぐに顔が思い当たらず、教授の方を見ると、どうやら名前が出てこずに困っているようだった。
「あー……っと……」
レイフ教授の目と指が泳ぐ。
「チケットをご用意したマイヤー・スタンネルン。月・地球間シャトルでの貿易をやっているロレーヌ社の者です。お会いできて光栄ですファーミントン博士」
ロレーヌ社は月マテリアルの輸入を主業務にしている、オーストリア有数の貿易会社だ。マスドライバー・シャトルの運航にも顔が利くのだろう。
一応、月探査財団の末席にも名を連ねている会社だが、比較的新参。
「そうだ、スタンネルンさん。失敬、思い出しました。どうも、チケットの件はお世話になりました」
「こちらは、クーリー博士……ですよね」
「初めまして、バザード・クーリーです。ファーミントン教授の助手をやっています」
そういってクーリーは立ち上がって握手、そして名刺の交換。スタンネルンと一通りの社交辞令を済ませた後、教授を睨む。
「というか、今朝チケット取るのにお世話になった方の名前を忘れるとか、どういう神経してんですか教授」
「人の名前を覚えるのは苦手なんだよ」
教授はそういってカップと皿を持ったまま、体ごと視線を逸らした。
「これですよ」
「いえいえ、レイフ・ファーミントン博士が変わり者、と言うのは有名ですからね」
スタンネルンは少し困ってフフと笑う。
少し手持無沙汰に見えるのは、どうやら教授の奇行のせいで社交的な段取りを崩され、話を切り出すタイミングを失したからのようだった。
「スタンネルンさん。何か、お話があったのでは?」
クーリーが席を進めると、スタンネルンは渡りに船と少し身を乗り出した。
「実は今朝から、月行きシャトル・チケットの予約が急に増えていましてね。国際フォーラムで地球に来ていた月探査財団関係者の名前が多い。主だった方は来週の便の予約ですが……ファーミントン博士だけは今日、急にでしたので――」
そう声を潜めるスタンネルン。
「――それで……月で何かあったのではないかと」
そう聞いて、クーリーは少し思案する。スタンネルンがこちらから何らかの情報を引き出そうとしているのは明白だ。
商魂逞しい、と言うべきだろうか。
「それにしても、その情報だけで、わざわざ月に?」
クーリーがそう言って頷くと、いよいよ三人は額を突き合わせて声を潜めた。
「これは他言無用でお願いしたいのですが……私の情報筋からの話ですと、月のマテリアル・プリンター工廠で、なにか事故が起きたという話です。何分、うちは月との貿易が本業ですから、それで私が送り込まれまして、何か分かればと思い……」
そのついでにファーミントンの名を見かけて、チケットをねじ込み、その恩で情報収集といったところだろう。
その話を聞いた二人は目を見合わせて、レイフ教授が頷くのを確認して、クーリーはスタンネルンを再び見て、神妙な顔をして見せた。
「……我々も、その件で急ぎ月へ向かっています。しかし、事故の詳細が今もこちらに入ってきていません。ですから大事故やテロなどではないと考えられますが、状況的に何か面倒なトラブルが発生した可能性がありますので……このことは、こちらからも他言無用でお願いしますよスタンネルンさん」
そう早口にならないよう言葉の区切りを意識しながら、語って聞かせる。
「やはりそうですか……」
スタンネルンは話を聞いて思案顔だ。
「それに緘口令が敷かれているようなので、我々も、月に行くまでは状況が分からないのです」
「たしかに、どこから漏れるか、分かったモノではないですからね」
量子通信はあらゆる場所と時差ゼロの通信を可能とする、宇宙時代には必要不可欠な通信技術だ。
これには通信網の概念が無く、量子エンタングルを用いた座標アドレスの点と点を直接結ぶ通信方式で、ネットワークという表現が誤用に近いのだが、旧来のインターネットからの概念の引継ぎにより、量子ネットなどとも呼ばれる。
空間座標に紐づいたアドレスそのものは迷彩も隠蔽も出来ない上、レガシー・インターネットと違い、中継を増やせば逆に、無自覚に盗聴者やハッカーと言ったものにインターセプトされる危険性が増える。
そういう仕様から著名な座標アドレスに対し、DLESSなどを用いたインターセプト行為が日常的に行われており、その数も計り知れないほどだ。
二地点の直接通信という性質上、情報の信用度はレガシー・インターネットの方が勝るとまで言われており、旧世紀の光ファイバー網が未だ現役、併用で使われている。
「あまり有益な話が出来なくて済みません」
ダメ押しでクーリーがそう言うと、スタンネルンは納得したように頷いた。
「いえ、ファーミントン財閥の方から確認できただけでも収穫でした。あまり長話も良くないでしょうし、それでは私はこれで。何かあればいつでもご連絡ください」
そういって名刺を置き、立ち上がるスタンネルンを、二人は社交的な握手を交わして見送る。ラウンジから出るのを確認。
名刺を弄びながら数分待ってから、教授はようやく口を開く。
「これはアレかなクーリー君、カバーストーリーってやつかな?」
「まあ、カバーストーリーってやつでしょうね」
二人は揃ってため息を吐いて、ぬるくなった紅茶でのどを潤した。
「そうするとだよ? 月で出たというソレは、財団がわざわざ迷彩するほど大事件な話だったのかな?」
「どうでしょうね、スタンネルンさんの話ぶりを見るに、カバーの方は大っぴらに広まるよう流している一方、私どもに来た連絡はかなり簡素なものでしたし……」
「ということは、だ。ますます楽しみになってきたじゃないか――月のクジラ」
そう気楽に喜ぶレイフ・ファーミントンとは裏腹に、バザード・クーリーは少々キナ臭い気配を感じていた。
その後、スタンネルンはラウンジで会っても遠巻きに会釈する程度で、どうやらクーリーが大げさに広げた話を信じたようだった。
シャトルは何事もなく、三日目の昼過ぎには月へと到着する。
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