また来たる夏に、会いましょう

優眠

「ねえ、付き合ってみようよ」

そう言った彼女の声を、今はもう、思い出せない。


『また来たる夏に、会いましょう』


部活内恋愛禁止!と大きく書かれた文字に、静かに仕事する時計。蒸し暑い木で囲まれた檻の中、パイプ椅子に座りながら彼女は言った。音楽準備室と書かれた、今はもう使われていない教室。エアコンは付けていたけど、それでも何処か生温く、じんわり汗ばんでいた。


「いいよ」

「やった、じゃあ彼ピね」

「今日はギャルなりきりデー?」

「そうでーす」


彼女は漫画を読みながら、ぼうっと喋っていたような気がする。なにせ、僕もトランペットを片付けながら聞いていたから、あまり記憶がハッキリとしない。年季の入った机の上で、年季の入ったケースを弄っていたと思う。教室の机の、カッターの傷が目についた覚えがある。あと覚えているのは、彼女の読んでいた漫画が、当時人気だった恋愛漫画だったという、なんともくだらないこと。


「部活、引退なんだね」

「だから付き合うんじゃん?恋愛禁止とか、ショージキ懲り懲りだよね!華のJKよ?ってか、この学校にこんなんいるか?って話だし」

「それは確かに。……僕ら、青春らしいことした?」

「してなーい!」


彼女は吹奏楽部の部長だった。そして僕は、副部長だった。仲良くなったキッカケなんて、たったそれだけだ。同期は高校生から始めたばかりの人が多く、その中で小学校から楽器を続けてきた僕と彼女が頭1つ抜けていたから、それも仕方ない。

彼女はデコレーションされたフルートのバッグを肩にさげたまま、机に寄りかかっていたと思う。夕日が眩しくて彼女のほうをあまり見てなかったけど、いつも彼女はそうやって僕の片付けが終わるのを待っていたから、きっとそう。

うちは、お世辞にも上手い吹奏楽部だったとは言えない。コンクールに燃えるような青春を費やしたわけでもなければ、試合の応援に活を入れていたわけでもない。文化祭でそこそこにやって、あとは地元の祭りに呼ばれるくらいだった。それでも僕らは楽しく音を奏でていた。それこそ、まさに音楽だとでも言うように。


「青春っぽいことしたいかも。ねえ彼ピ、今日暇?ケーキ食べいかん?」

「今日は……塾かな」

「えー、ノリ悪ぅい」


彼女は甘いものが得意じゃないくせに、僕が好きだからよく付き合ってくれた。ひとりで店に入るのに気後れしてしまう、僕を気遣ってのことだった。何回か放課後にデートするくらいには、そしてくだらないことで笑い合えるくらいには、お互い気の置けない友人だったように思う。2人揃って座って、楽器を抱え込みながら電車で帰るのが好きだった。


「…え、言いふらしたの?」

「うん、オメデトーって言ってくれたよ」

「僕に相談するとかないの?」

「だってピなら許してくれるっしょ?」

「まあ、うん。驚いただけ。…略しすぎじゃない?」

「気に入った」

「そう」


僕と彼女が付き合ったのは、瞬く間に広まった。人の噂話がすぐ広まる、狭いコミュニティだった。廊下ではおめでとうと言われ、先生が来ると全員で隠蔽しにかかった。今思うと先生も知っていたかもしれないが、知らないふりをしてくれていた。でも、1番距離の近かった先生だけは僕らに呆れた。受験を間近に控えた夏にやる事じゃないって。まあ、仲良くやれよって。多分、こんな感じのことを言われたはずだ。2人で手を繋ぎながら聞いていた。指を絡めて遊んでいた。


「ピ!ピ!これ終わったらかき氷食べいこ!」

「まだ勉強始めてから1時間もたってないよ。というか、もはや笛じゃん」

「私、希望があると頑張れるタイプ」

「じゃあ、5時までに終わったらね」

「そんな!……がんばる」


1度だけ、その場の空気で、触れるだけのキスをした。お互いくすぐったくて、笑ってしまった覚えがある。確か、彼女の家で勉強していた時だ。初キスはレモン味とか、イチゴ味とか……誰が言い出したのか知らないが、僕たちの場合はチョコレート味だった気がする。たぶん、休憩中によく食べていたからだと思う。僕も彼女も甘いミルクチョコレートが大好きだったから。彼女は、甘いものは好きじゃないけれど。そうだ、チョコレートなら甘くたって喜んで食べたんだ。僕らはきょとんとして、笑って、ファーストキスだ、なんて話をした。

久々に聞いたファーストの言葉に2人ともソワッとしてしまって、結局、2人で曲を吹いた。ムードもへったくれもなかった。僕らは2人とも、音楽バカだった。勉強なんてそっちのけで、フルートの彼女にはうるさい!と怒られながら、僕は堂々とトランペットを吹いた。蝉が掛け声で参加して、とうとう2人で笑ってまともに吹けなくなるまで。

2人ともバカだったから、この距離感でいられたんだと思う。勉強に行くのに、楽器を持っていく時点でお察しだ。

笑い声が、夏の熱気に混ざって溶ける。


「あははっ、楽しっ!」

「そうだね」

「勉強、やだー!」

「わかる」


彼女とのんびり過ごす時間が好きだった。お互い、同じくらい喋るのも聞くのも好きだったから。沢山話したし、沢山聞いた。話題がなくなっても、沈黙を楽しいと、そう思えるような関係だった。

なにもなくても一緒にいるのが自然で、クラスが違うことだけが違和感だった。学校の授業中や塾の講義中、僕より少しだけ小さい、彼女の姿が見えないことだけがなんだか寂しかった。ノートの端に、そっと彼女の名前を書いては消した。


これが依存なのか執着なのか恋なのか、もしくは違うカタチでの友情なのか、僕はその感情に名前を付けなかった。


「ひっこし?」

「うん。なんか、結構遠いとこ。ここから、飛行機で3時間。3時間って短く聞こえんね」

「飛行機で3時間か……だいぶ遠いね」

「私、大学決め直しよ?ありえんくない?もうちょい早く言えってーの」

「一緒の大学、行きたかったね」

「頑張って勉強してたのにー」


彼女の親の都合で引越しが決まった時、彼女は残念そうだった。次に悔しさがあって、その2つと同じくらい、悲しそうだった。彼女が茶化して笑うから、僕もつられて笑ったけれど、多分お互いに、言語化し切れない負の感情があった。小さな子供じゃないんだから、引越したって連絡はとれるし会いにも行けるのに。それでも、僕ら2人はこの関係の終わりを悲しんでいた。


たった数文字。されど数文字。それを言うには勇気は足りなくて、心臓は嫌な音をたてていた。

この感情につける名前を、僕は、知らなかった。



「ねえ、友達に戻ろっか」


そう告げた彼女の声が、存外、寂しそうだと思った。この時ばかりは、蝉も黙って彼女の言葉を聞いていた。彼女はコーヒーを飲みながら、そして僕はブルーハワイのかき氷を食べながら、その話をした。それだけは覚えている。


「なんで」

「遠恋とか、柄じゃないじゃん?それに、私たちの関係ってさ、やっぱ名前を付けちゃいけなかったんじゃないかって」

「まあ、お互い、これがなんなのかよく分かってないよね」

「好きだけど、やっぱり、恋人って訳じゃないかも。んーなんだろ、愛?…びっくらぶ的な」

「僕も好き」

「ありがとー。やばめっちゃ盛れた。見て、可愛い」

「ほんとだ」


熱に浮かされた頭が、急速に冷えていくような心地だった。

引越しの数日前のことだった。カフェでのデートで、お互いにオシャレをしていて。彼女はカジュアルなカーゴパンツと、へそ出しのトップスと、青のジージャンを着ていた。暑いから、ジャケットはほとんど脱いでいたけど。あとは、僕がプレゼントしたイヤリングを付けていた。彼女のお気に入りの、キラキラしたイヤリングだ。

冗談めかして軽くわらった声とは反対に、手には汗と、氾濫するほどの気持ちを握り締めていた。頼んだブルーハワイは、冷たいばかりで味がしなかった。僕らは別れ話のような、愛の告白みたいな、そんな話を繰り返して、結局、元の形に戻ることになった。


「空港で別れよ。ギリギリまで彼ピでいて。……あっ、このサンド、美味しいって有名なやつじゃん。ね、食べよ」

「注文が多いな。すみませーん」


その日はカフェで2時間くらい話して、昼のうちに解散した。彼女が、荷造りのために早めに帰らなきゃいけなかったから。僕のカレンダーにあった、大きな“見送り”の文字が今でも記憶に残っている。

その日から必ず、夜に電話して話した。僕からかけた事もあるし、彼女からかかってきたこともある。電話越しにフルートを聞いた時は通信が悪すぎて、お互いに笑い転げた。さすがにトランペットは、夜には吹けなかった。彼女は残念がってくれたっけ。


「じゃあね。元気でやりなよ」

「ウン。そっちもね。ちゃんと大学うかりなね。絶対だよ。それから、トランペットも続けるんだよ」

「えぇー、圧やめてよ。また電話しようね」

「勿論。私がやらかさない限りはだけど。……じゃあ、バイバイ、私の彼ピ」


言い出したのは彼女のくせに、彼女は、泣いていた。たぶん、一緒にいて笑った顔の方がよく見ていたはずなのに、いやに印象に残っていた。静かに泣くんだなと思った。涙さえなければ、泣いているとは、僕も気付かなかったと思う。

メイクが無事だったことに、2人で笑って、それで終わりだった。空港で2人で、過去の僕らに別れを告げた。僕らは、コイビトから、トモダチに戻った。


そうして、彼女は僕の前から消えた。暫くしていた連絡も、急に途切れてそれきりになった。彼女のことだから、落としてデータを飛ばしたんだと思う。やらかしたな、と笑ってやった。変わってしまった電話番号は、唯一のメロディを奏でることがなくなってしまった。

最初は違和感だったけど、徐々に彼女が居ないのが日常になって、今はたまに思い出すくらいしかしなくなった。あんなに仲が良かったのにな、と寂しくなると同時に、まあ、こんなもんか、とも思った。大人になるって、多分、そういうことだ。


彼女に、いかないでとは言えなかった。会いに行くよとも言えなかったし、彼女も新しい家の場所を言わなかったから、お互いにきっと、なにかしら思うところがあったんだと思う。まあでも、何も考えていなくても不思議じゃない。僕らはなんとなくで生きていたし、過去の思い出なんて、だいたい美化されているものだから。


お揃いの髪型、お揃いのキーホルダー、お互いの消しゴムに書いた名前。短く切った髪には使えないけれど、プレゼントされたシュシュは、今も大事にとってある。2人で撮ったプリも探せば出てくると思う。捨てられないのが、なんだか未練がましい。


彼女と会わないまま、もう、何年も経って。人は、声から順番に忘れていくらしい。どんなに形に遺るものがあったって、僕はもう、彼女の声すら思い出せない。思い出そうとすればするほど、蝉の声にかき消されてしまうから。もしかしたら彼女も、僕のことを、もう覚えてないかもしれない。


でも、それでも。…それでも、彼女は、間違いなく僕の特別だった。今でも、胸がぎゅうとなるくらいには。僕にとって、特別な人だったんだ。


それが僕が蝉時雨で思い出す、女子校での記憶。高校3年生の、たった1回の夏のことだった。




……蝉の嘆く、暑い夏に。かき氷を食べて、気の抜けたように笑う彼女が、今もまだ、僕の心にこびりついている。

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