実験体の願い
澄海
第1話
屋上の手すりに風がぶつかる。空は硬質な青で塗りつぶされ、遠くの高層ビルのガラスがそれを正確に映していた。
今日、空は完璧だ。逃げるには。
屋上の手すりを足でぎゅっとつかむ。
真っ青な空。風は西から。視界はクリア。
人間たちは下を見て、スマホとにらめっこ。誰も上なんか見ていない。
飛ぶなら、今だ。
だが、1.2kmの行動圏内を超えたら、俺の脳みそは花火だ。
結局、どこにも行けやしない。
俺の名はコルディス。人間が開発した、生体嘘探知機。
コルディスの他に、「実験体CR#1」なんて仰々しい名前もある。
だが、もとはといえば、ただのカラスだ。
人間たちは最初、俺を別の目的で実験するつもりだったらしい。
それが、何かのミスで俺という存在を生み出してしまった。
ただ、人間たちにとっては使い勝手がいいらしい。
誰だって、他人の真実を知りたいと思ってる。そんなとき、俺は便利だ。
「研究所の薬品に無断使用の痕跡あり。疑いのある人物は二人。即時、研究所に戻れ」
俺を生み出した研究所の人間から、指令が飛んでくる。
スマホなんか持っていないのに、どこからって?俺の脳に、直接。
屋上の手すりから飛び上がる。翼が風をとらえる。
目指すは、憎き研究所。
飛べるなら逃げればいい、と思うかもしれない。
だが、逃げられないのにはそれなりの理由がある。
俺の体の中には、いろいろと埋め込まれている。詳しい構造は知らない。
なんてったって、もとはカラスなんだから。
そして研究所の人間にはこう言われている。
「行動圏外に出れば、自爆装置が作動して木っ端みじんになる」と。
けれど、便利なことに俺には嘘が見抜ける。
だから、その言葉の真偽もすぐに確かめてやった。どうせ人間の言うことだ。でたらめに決まってる。
だが、違った。
研究所の人間は、本当のことを言っていた。
じゃなきゃ俺は今、研究所に向かってなんかいない。飛び出したら、二度と戻らなかっただろう。
でも、真実である以上、命令には従わざるを得ない。
命令に逆らえば、ショック信号が送られてくる。
実際、そのせいで何度か墜落しかけた。危ない危ない。
生きていたければ、命令に従うしかない。
研究所が見えてきた。俺を呼んだ研究員のいる部屋の窓が開いている。
俺は窓から中へすべり込んだ。
窓際にある机の上にとまると、研究員が奥から出てきた。窓に歩み寄り、静かに閉める。
「来たか、コルディス。そこに座れ、ってのは冗談だがな」
窓際の椅子に腰かけ、机に肘をつきながら、男は目線を合わせずに喋る。
この研究員の名前は、元宮。
俺は元宮をじっくり観察した。
黒縁メガネに白衣。研究員はだいたい、みんな似たような格好をしている。
俺としては、白衣より黒衣の方がカッコいいと思うんだが、あいにく黒衣の研究員はいない。
「さっき言ったとおりの内容だ。今から確認しに行く」
ようやく、視線がこちらに動く
「へぇ、何しに?弁当の中身でも確認するのか?」
わざと軽口を叩く。ついでに片足をぴょんと持ち上げ、ふざけたポーズをとってやった。
元宮がため息をひとつ落とす。
「ショック信号を送るぞ」
脳裏にあの痛みの記憶が蘇る。背筋がぞわりとした。だが、その感覚をかき消すために揚げ足取りを断行する。
「へいへい。えっと……お前の弁当の中身が消えてたから、誰がこっそり食ったのか確認しに行くってわけだな。了解」
「そろそろいい加減にしろ、実験体CR#1」
苛立を押し殺した声。イライラレベルはレベル4。まあまあ危ない。
真面目に仕事するか。
俺が机の上でステップを踏んでいると、元宮が椅子から立ち上がった。
「ついてこい」
元宮のあとに続き、研究所の通路に出る。
一旦、地面に降り立ち、ぴょんぴょん跳ねながら歩調を合わせる。
この研究所は迷路のようで、元宮についていかないと迷ってしまう。
肩に乗れば楽だろうが、俺を生体嘘探知機にした張本人の肩でペットのように振る舞うなんて、まっぴらごめんだ。
とはいえ、俺が元宮の実験の失敗の結果でできた生体嘘探知機だと知っているのは、ごく一部の人間だけ。
表向きには、俺は元宮の“ペット”ということになっている。
元宮がある部屋のドアを開けた。
中では、二人の人間が灰色の長机に椅子を並べて、弁当を食っていた。
弁当の話をすれば何とやら。ちょうど昼食の時間だったか。
そういえば、元宮の今日の昼飯はどうするんだろうな、などと考えつつ部屋に入る。
実験体CR#1としてこの研究所にいるメリットは、食い物に困らないことだ。飯は毎日もらえるし、元宮が弁当の中身を少し分けてくれることもある。
とはいっても、別に優しさからじゃない。好き嫌いの激しい元宮は、嫌いな食べ物だけを俺にくれるのだ。元宮にとってはまずい飯でも、元ゴミ箱漁りの俺にとってはごちそうだ。いつもありがたくいただいている。いや、感謝はしてないかも。
元宮に気づいて、二人がこちらを見る。
「試薬品が一瓶、使用された痕跡があった。午前中に第四研究室を使っていたのは、富田と稲生……お前たちだけだ」
元宮の無機質な声が室内に落ちた。
「試薬品?俺じゃないです。今日は自分の持ち場のサンプルを整理していただけなので」
富田が最初に反応した。平静を保とうとしているが、声が浮いている。
次に稲生が答える。
「私は触っていません。申請していない薬品ですし」
俺は稲生をじっと見る。
目の奥に自分はバレないと信じている者特有の、わずかな余裕と焦燥が混ざった色が見える。
一方で、富田も何かを知っている。
なるほど、ね。
俺はくるりと元宮を見上げた。
だが、実際に実行したのは一人だ。
一度だけ羽を打つ。
元宮は表情一つ変えず、部屋を後にした。
無言のまま、元宮と俺は元宮の個室に戻った。ドアを後ろ手で閉め、元宮が俺を見る。
「言え」
俺はもったいぶって考えるふりをしながら、ぴょんぴょん跳ねた。
「そうだなー。お前はどう思うんだ?」
結局すぐに答えを出すのはやめておく。
元宮の顔にイラッとした表情が横切る。
「私が聞いている」
「あーはいはい、わかったよ。嘘をついていたのは稲生だ」
「稲生の方が落ち着いていて、富田の方が焦っていたように見えたがな」
「まったくもう、自分で作った生体嘘探知機を信じないのかよ?」
俺はむくれてみせた。
「薬品を実際に使ったのは稲生。でも富田もそのことを知っていた。だから、焦ってたんだ」
ちらっと元宮の方を見る。反応はない。でも、俺の言葉を人間の言語に翻訳するステッキは、しっかり握ってる。
「で、どうすんの?」
答えない元宮を片目でうかがいながら、気だるげに尋ねる。
「マークして、ひとまず泳がせておく」
「あぁ、なるほど。すぐには動かないわけね。まあいいんじゃないの。俺はもう知らない。任務を果たしたんだから、早く飯をくれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます