第6話 三十八歳と月詠のギルド

新宿のインターネットカフェ。その、わずか二畳ほどの小さな個室が、斎藤誠一にとっての、新たな人生の司令室となっていた。

壁に立てかけられた、安物だが確かな性能を秘めた革装備一式。テーブルの上に置かれた、まだインベントリに収納していない【清純せいじゅん元素げんそ】と【元素げんそ円環えんかん】の箱が、彼の決意の証のように、静かな存在感を放っている。

彼は、ARモニターに映し出された自らのステータスウィンドウと、昨日までの戦闘ログを、元サラリーマンらしい緻密さで、繰り返し、繰り返し見返していた。


(…よし。装備は、揃った。スキルも、手に入れた。だが…)


彼の思考が、そこでぴたりと止まった。

彼の脳裏に浮かんでいたのは、15年間、彼がその身を捧げてきた、あの灰色のオフィスビルでの光景だった。

会社。

組織。

彼は、その理不尽さと、不自由さを、骨の髄まで知っている。だが、同時に、その圧倒的なまでの「力」もまた、知っていた。

一人では、決して成し遂げられない、巨大なプロジェクト。

個人の、ささやかな才能を、何倍、何十倍にも増幅させる、情報の共有と、役割分担。

そして何よりも、失敗した時に、その全てを一人で背負うことのない、セーフティネットとしての、仲間という存在。


(…会社勤めで、組織に属することの重要性は、理解している)


誠一は、ごくりと喉を鳴らした。

そうだ。

この、あまりにも広大で、そしてどこまでも危険なダンジョン社会という名の「市場」で。

一個人が、フリーランスとして生き抜いていくことが、どれほど困難で、そしてどれほど孤独な戦いであるか。

それを、彼は痛いほどに、想像することができた。

彼は、その検索窓に、新たな単語を打ち込んだ。

『日本 ギルド ランキング』


そこから、彼の、三度目の、そして最も重要な、一夜漬けの勉強が始まった。

画面には、おびただしい数のギルドの紋章が、洪水のように表示される。

オーディン、青龍といった、世界の覇権を争う、巨大な外資系ギルド。

国内に、確固たる地盤を築く、A級、B級の、中堅ギルドたち。

その、あまりにも膨大で、そしてどこまでも玉石混交の情報の海。

それを、彼は元営業マンとして培った、顧客分析能力で、一つ、また一つと、冷静に、そして確実に、ふるいにかけていった。


(…オーディンや青龍は、論外だ。俺のような、38歳の、E級スキル持ちの初心者が、入れるはずもない)

(中小の、戦闘狂が集まるようなギルドも、性に合わないな。俺が求めているのは、暴力ではなく、安定だ)

彼は、それぞれのギルドの、公式ページや、SeekerNetの評判スレッドを、丹念に読み込んでいく。

そして、数時間後。

彼の、その指が、一つの、ひときわ異彩を放つギルドの、その紋章の上で、ぴたりと止まった。

その名は、【月詠つくよみ】。

月の女神を、そのシンボルとする、日本古来の、伝統あるギルド。

その評判は、あまりにも、異質だった。


『月詠、マジで最高。ノルマとか一切ないし、ギルド島の温泉、マジで天国』

『初心者サポートが、手厚すぎる。俺、F級の時、B級の先輩に装備の選び方から、立ち回りまで、手取り足取り教えてもらったぞ』

『アットホーム、っていうか、もはや家族だよな、あそこは』


その、あまりにも温かい、そしてどこまでも人間的な、評判の数々。

それに、誠一の、その乾ききっていたはずの心が、じわりと、温まるのを感じた。

(…ここだ)

彼は、その直感を、信じた。

彼は、その場で、【月詠つくよみ】の、公式入団申請フォームへと、アクセスした。

そして、彼はその震える指で、面談の予約ボタンを、タップした。



翌日、午後2時。

国際公式ギルド、日本支部。その、高層階の一角。

月詠つくよみ】の、ギルド本部オフィス。

その空気は、誠一が想像していたような、血と鉄の匂いがする、殺伐としたものではなかった。

柔らかな間接照明、壁に飾られた美しい浮世絵、そして、ほのかに香る、白檀の香り。まるで、高級な旅館のロビーのような、静かで、そしてどこまでも洗練された空間だった。

彼は、その場の空気に、少しだけ気圧されながら、受付の女性に、その名を告げた。


「あの、2時に、面談の予約をしていた、斎藤と申しますが…」

「はい、斎藤様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

彼が、通されたのは、ガラス張りの、開放的な会議室だった。

窓の外には、新宿御苑の、美しい緑が広がっている。

そして、そのテーブルの向こう側で、一人の女性が、その優しい笑顔で、彼を待っていた。

年の頃は、30代前半だろうか。落ち着いた雰囲気の、和服美人。

彼女こそが、【月詠つくよみ】の、人事と新人育成を担当する、桜小路(さくらこうじ)と名乗る女性だった。


「初めまして、斎藤さん。本日は、ようこそお越しくださいました」

その、あまりにも丁寧な、そしてどこまでも穏やかな物腰。

それに、誠一の、そのガチガチに固まっていたはずの緊張が、ふっと、解けていくのを感じた。

「…こちらこそ。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」

彼もまた、そのサラリーマンとして培った、完璧なビジネスマナーで、その言葉を返した。

そこから始まったのは、もはやただの面談ではなかった。

一つの、完璧な、そしてどこまでも心地よい、「交渉」だった。


「では、早速ですが、斎藤さんのビルドについて、お聞かせいただけますか?」

「はい。ポイゾナスコンコクションを、主軸としたビルドを、考えております。昨日、スキルジェムも、一式購入したところです」

「ほう、ポイゾナスコンコクション、ですか。良いビルドですね」

桜小路の、その柳眉が、わずかに、興味深そうに動いた。

「武器に依存せず、安定した混沌ダメージを与え続けることができる。特に、初心者の方には、最適なビルドの一つと言えるでしょう。サポートジェムは、何を?」

「はい。【斉射】と【投射物追加】で範囲を、【虚空制御】で火力を底上げする予定です」

「なるほど」

桜小路は、深く頷いた。

「定番にして、最も効率的な組み合わせですね。よく、勉強されています」

その、あまりにも的確な、そしてどこまでも専門的な、評価。

それに、誠一は、その胸の奥が、熱くなるのを感じていた。

昨日、たった一日、一夜漬けで学んだだけの、付け焼き刃の知識。

だが、それを、このプロの世界の人間が、確かに「認めて」くれた。

その事実が、彼の、その失いかけていた自信を、少しだけ、取り戻させてくれた。


「――では、採用です」

桜小路は、そのあまりにもあっさりとした、しかしどこまでも確信に満ちた声で、言った。

「え…?」

誠一は、そのあまりにも早すぎる結論に、思わず、間の抜けた声を上げた。

「も、もう、よろしいのですか?スキル判定の結果とかは…」

「ええ、結構ですよ」

桜小路は、くすくすと楽しそうに笑った。

「斎藤さんの、その真摯な瞳と、そしてその完璧な準備。それを見れば、あなたが、この世界で、どれほどの覚悟を持って、その一歩を踏み出そうとしているのか。私には、手に取るように分かりますから」

彼女は、そう言うと、一枚の、美しい和紙でできた冊子を、誠一の前へと、そっと差し出した。

「ギルドに属すると言っても、私達から何かを徴収するということは、一切ありません。ギルド島の入場や、寮の提供、そして何よりも、仲間との交流。そういう、あなたの冒険を、少しだけ豊かにするための、ささやかな手助けを、させていただくだけです」

「この冊子を、読んで下さいね。基本的には、ギルド内でパーティを組んだり、お互いを補助したりするのが、私達の主な活動です。まあ、時には、日本の冒険者支援として、政府からの依頼を受けることもありますが」

「なるほど…」

誠一は、その冊子を、恭しく受け取った。

「ありがとうございます。これから、よろしくお願いいたします」


その、あまりにも温かい、そしてどこまでも人間的な、ギルドの在り方。

それに、誠一の心は、完全に、決まった。

ここが、俺の、新しい「居場所」だ。


「では、斎藤さん」

桜小路は、そう言うと、その美しい顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「早速ですが、その『居場所』を、ご案内いたしましょうか?」

「え?」

「うちの、自慢のギルド島です。今から、お時間はありますか?」

「は、はい!いつでも、大丈夫です!」

誠一は、そのあまりにも予想外の、そしてどこまでも魅力的な提案に、食い気味に、頷いた。

「ふふっ。では、参りましょうか」

桜小路は、そう言うと、その席を立った。

「ポータルで、少しだけギルド島に行きましょう。きっと、驚きますよ」


彼女は、その会議室の隅に設置された、ギルド専用のポータルゲートの前へと、誠一を導いた。

そして、彼女がそのゲートに、自らのギルド証をかざした、その瞬間。

ゲートが、これまでにないほどの、穏やかで、そしてどこまでも優しい、月光のような、白銀の輝きを放った。

その、あまりにも美しい光景。

それに、誠一は、ただ息を呑むことしかできなかった。

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