第6話 歪な母親像
大通りを避け、慣れた小路を走り抜ける。
次を右。四辻は左。
昼食までにまだ時間はあったのか、運良く誰とも会わずに家まで辿り着くことができた。
ここら辺で物騒な事件が起きていなければ、玄関の鍵はかけられていないはず。
見慣れた家は古びたような気はするものの、もうすぐ築50年となる家だから、そこまで変わった気がしなかった。
家を囲む柵から玄関までの距離はほとんど無く、ロイスの家と違って花を植えることなどできない。
代わりに部屋の数は多いので、イヴリンとジャックは別々の部屋を与えられていた。
それでも母親は自分の為の部屋が欲しいと言っては、イヴリンとジャックを一つの部屋に押し込めようと、マイアの母親から聞いた話だと、部屋数の少ない家族の話をしていた。
けれど母親が聞いた話の家族は男兄弟ばかりだったし、それを指摘した父親が許すことはなく、いつだって話は平行線で終わっていたが。
イヴリンがいないことで、きっと母親が部屋を使っていそうな気がして、途端に言語化できない気持ちが萎んでいく。
勝手な憶測で一喜一憂するほどに、今日は本当に最悪な気分だった。
ドアを遠慮がちに開ければ、見慣れない柄が目に飛び込んできた
真新しいようではない壁紙はいつ張り替えたものか、イヴリンにはわからないけれど、なんだか一人だけ残された気分だ。
既に尻込みしだした気持を叱咤して、懐かしさを感じられない家へと足を踏み入れる。
出来れば母親よりも先に父親に会えればいいが、今日が平日なのを考えれば仕事に行っているだろう。
そう遠くはないので行けないことも無いが、父親の所有している倉庫は広いから、その間に何人の人に会うか。
マイアがした話は、近所の誰もが知っているに違いない。
何を言われるかわからない今、誰とも会いたくはなかった。
この状況があったからこそ、父親はイヴリンを他所に預けることにしたのだとわかる。
既にマイアの話で十分に混乱している。
これ以上は噂だけを喋る人々の話を聞くのではなく、実際に何があったのかを知っている人の話が聞きたい。
母親は、弟は、どれくらいイヴリンの話を知っているのだろか。
マイアはイヴリンの母親から聞いたと言っていた。
だとしたら、彼女の教えてくれたことは真実なのだろうか。
イヴリンが貴族の誰かを、聖女様から奪ったとか。
だから聖女様からの天罰だとか。
話が嘘でないならば、イヴリンは学園に通っていたことになる。
でも、通っていた記憶なんて全くない。
「姉さん?」
頭上からかかる、聞き覚えはあるけれど幾分低くなった声に勢いよく階段を見上げる。
手すりから覗き込んでいるのは青年だ。
「……ジャック?」
弟は幼かった少年ではなく、すっかり逞しい青年になっていた。
ジャックはギョッとした顔になった後に、慌てて一階の奥の様子を窺い、それから急いで下りてくる。
「姉さん、どうして帰ってきたんだ」
チラチラと台所を窺いながら、潜められた声は鋭さがあって、歓迎されていない様子に泣きたくなるのを堪える。
「来たら駄目だった?」
「そうじゃない。そうじゃないけど、今帰ってきたのは本当にまずいんだ」
また台所を見る。
「ここで話すと見つかるから、とにかく二階に」
「イヴリン!」
驚きと喜色の混ざる大声に、驚きで飛び跳ねそうになりながら、キッチンへと続く扉へと目を向ければ、大きく目を見開いてイヴリンを見ている母親がいた。
「お母さん」
「やっと帰ってきた!いつ帰ってくるのかと、苛々しながら待っていたのよ!」
足音荒く近づいてくる母親から庇うようにジャックが間に立つも、一体どこにそんな力があったのか、手加減のない力で突き飛ばされたジャックが壁にぶつかる。
ぶつかった先にあった絵画の額縁に当たったのか、呻き声を上げて頭を押さえるジャックの手の隙間から、赤いものが伝った。
「ジャック!」
悲鳴を上げて近寄ろうとするイヴリンを、母親の手が止める。
「お母さん、離して!
ジャックが怪我をしているみたい!」
イヴリンの手首を離さない母親の手は、ギリギリと強さを増す。
「お母さん!ジャックが!」
「そんなの、どうだっていいわよ!」
雷でも落ちたかのような大声が狭いエントランスに響き渡って、ビクリと体を震わせながらイヴリンは母親を見た。
動きを止めたイヴリンに、満足そうな表情で頷いた母親が微笑みを浮かべる。
「これぐらいの年頃の男の子なんて、怪我はよくするものよ。
近所の奥さん達が言っていたから間違いないわ。
だから、ジャックは自分で何とかできるから、イヴリンは気にしなくていいの」
イヴリンを見て目を細める母親には、わけのわからない狂気が満ちていて、離れたいのに手首を掴む手がそれを許してくれない。
「それよりもイヴリン、あんたよ。
お父さんたら、どこに行ったか全く教えてくれなくて、ご近所さんとお話するときにガッカリさせて困っていたのよ。
言わないなら離婚してやるって脅しても、何も言わないったらありゃしない」
母親は怒りで顔を歪ませるも、すぐに微笑みへと戻る。
感情の浮き沈みの激しさに、ここまで酷いことは無かったはずなのにと、イヴリンはただただ見ているだけしかできない。
抵抗すれば何をするかわからない。
家族であるはずの相手にそう思う程、明らかに母親はおかしかった。
「でも、もういいの。イヴリンが帰ってきてくれたから、これで堂々とお客さんを呼べるのよ。
今から手の空いている人達を呼んでくるから、イヴリンはお茶の用意をして部屋で待っていて。
大体のものはいつもの所に片付けているから、準備には困らないはずよ」
イヴリンの手首にくっきりとした赤い手形を残した手が、大切な宝物を扱うように、そっとイヴリンの肩へと乗せられる。
「本来ならイヴリンも成人している年なんだから、自分のことくらい話はできるわよね?
皆、イヴリンを気にしていたんだから、満足できるような話をしてちょうだい。
間違ってもお母さんに恥をかかせないでね」
それだけを言うと、母親はエプロンを外してイヴリンに押し付ける。
母親に気づかれないように視線だけを動かすが、弟の姿はない。
本当に自分で怪我の手当てをするつもりで、ここからいなくなったのだろうか。
母親が出かけたら弟を見つけて、あまり気は進まないが父親の仕事場に向かった方がよい。
もし、今までもずっとこうだったのなら、父親が何も知らされていないのならば、お姉ちゃんとしてイヴリンが言うべきなのだ。
どれだけイヴリンが今の弟よりも幼いのだとしても、ジャックはイヴリンの弟なのだから。
ご機嫌な様子で家の外に出て行った母親を確認してから、急いで弟の姿を探すが家のどこにもいなかった。
もしかしたら手当の為に他の家を頼ったのかもしれない。
お茶の準備の為にお湯を沸かしながらも、変わらない場所から薬や包帯の入った木箱を出しておく。
これが片付けられたままならば、やはり弟は外に出たのだろう。
どこに行ったのかはわからないけれど、イヴリンがわからないままに手当てするよりは、弟が頼ることのできる人に任せるのが一番だ。
そう考えている間にも、母親の鬼気迫る態度が恐ろしくて、お茶の用意をする手は止めない。
お茶の葉は見つかったがお菓子は無くて、ポケットからクッキーの袋を取り出すが、黙ってポケットに仕舞い直す。
これは弟の為に買ったのだ。
母親の自己満足の為に呼ばれたお客様の為じゃない。
母親は何人の人を呼ぶつもりだろうか。
過去にはダイニングに入りきらないからと、小さな子どもの面倒を見るようにと言って、イヴリンと弟の部屋のベッドに小さな赤ちゃんを置いて行ったこともある。
特に今回はイヴリンがいるということで、暇な人は顔を出すだろう。
近所の人たちの好奇心に晒されるぐらいなら、さっさと乗合馬車で帰ってしまいたかったが、メアリーに返すお金のことも頼めていないし、弟をこのままにはしておけない。
「イヴリン」
今日はよく名前を呼ばれる日だ。
けれど聞き覚えのある、落ち着いた低い声はイヴリンを心から安堵させた。
「お父さん!」
仕事場から走ってきたのか、汗を拭いながら近づいてくる父親を迎える。
「お父さん、聞きたいことが沢山あるけど、それよりジャックが怪我をして」
言いかけたイヴリンを「知っている」という言葉で遮りながら、キッチンから逸れた細い廊下へと背を押す。
「角向こうのバジェットさんの家から、母さんの声が聞こえた。
もうちょっとしたら帰ってきそうだったから、勝手口から出よう」
父親の歩調は早く、そろそろ母親が帰ってくるのだと気づいた途端、人々の目に晒されるイヴリン自身を連想して、身が竦んで足を止めた。
「母さんが大声なのも、たまには役に立つもんだ」
皮肉気な物言いをしながら、父親が優しく背中を叩く。
「母さんに会う前に出よう。
ちょうど手の空いた運送馬車があったから、こちらに回してもらっている。
ここまで来ることができたということは、大広場から乗り継いできたのだろう。
大広場までは運送用の馬車で送るから、後は同じ方法で帰りなさい」
勝手口の手前には乱雑に木箱が積まれていたが、父親が適当に壁へと寄せてくれる。
外に出れば、表に回らなくてもいいようにと、こちらにもある家を囲う柵に取り付けた扉を押し開けた。
歩いてすぐの曲がり角で、運搬用の馬車が待っていた。
荷物の隙間に体を捻じ込んで、布をかぶせられるのは人目を避けるためだろう。
屈んだ父親がイヴリンと視線を合わせて、いくらかのお金を握らせてくれたので、これで帰ることもメアリーにお金を返すこともできそうだった。
「ジャックは倉庫の管理を手伝ってくれている、マイヤースの奥さんが手当てしてくれているから心配しなくていい」
父親の言葉に、ポケットからクッキーの袋を取り出して渡す。
「これをジャックに」
「ああ、渡しておこう」
この袋から手を離したらお別れだ。
「お父さん、私が聖女様に天罰を受けたというのは本当?
私は学園に通っていたって聞いたけど、そんな思い出がどこにも無いし、思い出すこともない。
それに、ロイスさんって本当に親戚なの?」
クッキーの袋から手を離さないまま問いかけるイヴリンに、父親は否定と呼ぶには曖昧な素振りで首を横に振った。
「イヴリン、お前には聞きたいことが沢山あるだろう。
父さんもお前に話さなければならないことがあるが、先に母さんをどうにかしないといけない。
すまないが、今暫くは待ってくれ」
袋を離せない手に、父親の手が重ねられる。
「そろそろ母さんが戻ってくる。
お前がいないことがばれてしまうだろうから、あれの足止めも必要だ。
必ず会いに行くから、ウィスクリフさんの所に戻りなさい」
そっと手を離したら、頭を撫でられた。
「以前のお前だったら、年頃の娘の頭を撫でるなんてと怒ったもんだ」
それはイヴリンの中に無い、少し大きくなったイヴリンの話だとわかる。
「今の私でもいい?それとも前の私の方が良かった?」
自然と小さくなった声でイヴリンは聞く。
すぐに答えにくい質問をしてしまったと俯いた。
どっちを選んでも、イヴリンの納得できる答えになるわけではないのに。
「親を試そうとは困った娘だ」
父親の言葉が返ってきたかと思えば、ぎこちなく抱きしめられる。
隙間に押し込んだ体を軽く抱き寄せる程度だったが。
「どんなイヴリンでも大事な娘なのは変わらんさ。
家族なんて、そんなものだろう」
涙を零すまいとギュッと目を瞑る。
息を大きく吸って、手を離した。
父親が離れると御者に合図を送り、馬車がゆっくりと動き出す。
ゆっくり動き出した馬車は、程なくして大通りの角を曲がり、父親の姿が消えていった。
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