第2話 朝食のスパイスに回想を添えて

いつものように目を覚ました時、あれ、とイヴリンは思った。

見覚えのない天井が視界に映ったからだ。

無機質さを強調するかのような、手を加えられていない白木の天井が目に入る。

イヴリンの部屋の天井は、父親によってパステルブルーに塗られていたはずだ。


ここは一体どこだろう。

ゆっくりと首を傾ければ、天井と同じくらい簡素な部屋が目に映った。

視界にあるのはベッドの横の小さなチェスト。背の無い丸椅子が二つ。

それから白く塗られたドア。

反対側を見れば、カーテンの引かれたままの窓があった。


何とはなしに、昨日は何をしていたっけ、と考えたが、特別なことは何もしていない。

学校の教師の推薦によって、無事に中央都の中で一番大きな学園への入学が決まり、お祝いに何を買ってもらおうかを考えていただけのはず。

入学する新緑の月の翌月は弟の誕生日があるので、母親からは余り高い物は駄目だと言われていたが、同じ年の少女達のグループで流行っている少し高い刺繍セットを頼んでいた。

幼馴染のマイアは色違いの刺繍箱を二つも持っていたくらいに可愛いのだ。

まるで宝石箱のような装飾で、なるべく見た目のいいお菓子の缶を使っているイヴリンには、欲しくて仕方がないものだったのだ。

なるべく父親が一緒にいる時に言おうと、日記に書いて寝ただけなのに。


思い返してみても、いつもの生活でしかなくて、なぜ違う部屋にいるのかが何もわからないまま。

どうしたものかと悩み、けれど答えが出るはずもないことから起きることにした。

よいしょ、とゆっくり体を起こす。

見えている景色に何処か違和感を覚えるのだが、その理由もわからなかった。


不意に扉が開いて、見知らぬ女性が入ってくる。

濃紺のワンピースに真っ白なエプロン。

手にボードと鉛筆を持って入ってきた彼女は目を丸くしてイヴリンを見つめ、それからイヴリンが口を開く前に「先生!」と叫びながら出て行ってしまう。


すぐに白衣を着た医者らしい老人が姿を見せたかと思えば、看護婦だったらしい先程の女性にてきぱきと指示を出した。

測温や脈拍の確認といったことから、視野検査、血液検査まで行われる。

その間にも医者からの問診が絶え間なく続く。

名前や年齢、家族構成といったものから今の体調や気分といったもの、それから目が覚める前の記憶まで。

戸惑いながらも全部答えたところで診察は完了し、どうしてここにいるのかの説明は、親が来てから一緒に説明するので待つように言われる。


一体何事なのかと思うイヴリンに出された朝ご飯は、ほんの少しのミルク粥だけ。

看護婦たちに見られながら味の薄い粥を食べた後、トイレに行こうとベッドを離れ、そうしてドアを出たら長い廊下に佇む。

本当に病院だったのだと思い、廊下に嵌め込まれた窓から外を見ようとしたときに、目が覚めてから初めて自分の姿を薄っすらと確認した瞬間、心臓が跳ね上がった。

記憶しているよりも高い身長。伸びた髪。少しだけ大人びた顔。

まるで12歳ではない姿。

イヴリンの絶叫が廊下に響き渡った。


* * *


「結論だけを先に言っておくとね、イヴリン・ブライアウッドさんは五年間眠っていたわけだよ」


感情を抑えられずにパニックになったイヴリンを、看護婦たちがすみやかに回収してくれた。

ベッドに押し込まれたかと思えば彼女達に宥められ、改めてトイレに行く時には窓側に看護婦が二人立って、何も見えないように配慮される。

そうして時間だけが過ぎ、暫くして父親が面会にきたので説明できると、医者と父親が病室に入ってきて丸椅子に座った。

先程のこともあるのか、看護婦が二名待機していて、それだけでイヴリンの病室は一杯だ。


そうして説明されたのは五年もの間、意識不明で眠り続けていたという事実だった。

唐突な言葉に再び鼓動が早くなって胸を押さえる。

隣の父親が肩を抱いてくれ、人の温もりに少しだけ安心できた。

「イヴリン・ブライアウッドさん、今の貴方は肉体的に17歳だ」

息が詰まり、苦しさに寝間着の胸元を握りしめる。


言われた言葉を理解することができても、それを受け入れるかは別の問題だ。

もうすぐ憧れの学園に通うはずだった。

友達ができたら、帰りにオシャレなカフェに行ってみたり、お揃いのアクセサリーを買ってみるつもりだった。

できれば素敵な人に恋をして、好きな人に告白をして、背伸びをし過ぎなかったら恋人だってできたかもしれない。

勉強も頑張って、高給な勤め先で働く。

両手一杯に溢れそうな夢も希望も一瞬に内に砕かれ、イヴリンに残ったのは17歳の体に、12歳までの記憶だけ。


イヴリンは12歳の少女のまま、急に17歳になった気分なんて誰にもわからない。

それは分かり合える人がいないという孤独だ。

父親や周囲の寄り添ってくれる気持ちだけが、イヴリンに泣き叫びたい気持ちを撫でてくれるかのよう。

俯いたイヴリンを気にしながらも、話は進められていく。


いくつかの検査をし、経過観察後に問題無ければ、一月ほどで退院できるという。

そんなにも、と思わず口にした言葉を聞き、父親に窘められた。

「大丈夫だと思っても、ずっと長く寝ていたんだ。

お医者様の言うことは聞きなさい」

近くにある父親の顔に違和感があるのは、五年経った変化のせいだろうか。

もしかしたらイヴリンが眠り続けたせいで苦労をかけたのかもしれない。


そこからの一月はゆっくりと過ぎていった。


退院する日が決まった時、父親と面会していたイヴリンは思いがけないことを言われる。

「お前を暫く人に預けようと思うんだ」

今日の見舞いの品だったお菓子にばかり向けていた視線が、父親へと向け直される。

どうして、と聞いた声が少し震えたのは、家族に拒絶されたのではないかという不安からだ。

察したらしいイヴリンの肩を父親の手が優しく叩く。


「イヴリンが目を覚ましたことは、当然母さんやジャックにも言ってある。家族だからな。

だが、いつものように母さんが、おめでたいことだと近所の人にも伝えていてな」

そう言った父親の顔は余り嬉しそうではなくなった。

「近所の人達はなんというか、気さくだが、今のお前には無遠慮で無神経にも見えるかもしれない。

皆が皆、話を聞きたがっている。止めても訪れる人もいるだろうし、母さんは客を迎えるのが好きだから、言っても聞きやしないだろう」

イヴリンを見て、また笑顔に戻る。

けれど、それはどこか歪だ。

「今、お前に必要なのは、ゆっくりと状況を受け入れることの場所だ。

なるべく周囲が騒がしくない、静かな場所がいい」

話の方向性がわからずに、イヴリンは首を傾げながら父親の言葉の続きを待つ。


「父さんの遠縁に、ロイス・ウィスクリフという人がいる。

お前をそこに預けようと思う」

聞いたことの無い名前だ。

目をぱちくりとさせて父を見上げれば、少し皺の増えた手が頭を撫でてくれた。

「彼は現在一人で暮らしているが、翻訳家の仕事をしているから大抵家にいるし、イヴリンが住めるだけの部屋だってある。

物静かで控え目な性格だから賑やかとは言えないが、今のお前にはその方がいいだろう。

暫くそこで世話になりなさい」

家長である父親が言うならば、それは決定事項だ。

上手くやっていけるのだろうかと不安になりながらも、頷く。


同時に家の近くに住む人たちのことを思い出して、納得もしている。

父親の言う通り、近所の人達は隠し事なんてしない、開けっ広げな性格の人達が多い。

良く言えば隠し事の無い正直な人達で、悪く言えばデリカシーが無い。

普段ならばお喋りを楽しむだけで済むのだが、今のイヴリンは格好の獲物だ。

連日押しかけて来て、満足がいくまで根掘り葉掘り話を聞こうとするだろう。

それは考えるだけで疲れることだ。


頭を振って、考えを追い払う。

今イヴリンに必要なのは、預けられる先であるロイス・ウィスクリフという人物について、少しでも話を聞くことだ。

そう思いながら手元のカップに手を伸ばした。


* * *


口にしたミルクティーはやっぱり甘かった。

砂糖を一杯。

初めての食事の時から、いつもロイスはイヴリンの分だけ砂糖を入れてくれる。

何も聞かずに入れるので、女の子は甘い物が好きだと思い込んでいるのかもしれない。

砂糖は平民でも手の届く値段ではあるが、だからといってお茶の度に入れるのは贅沢でもある。

ここで暮らし始めて少ししたあたりでロイスに言ったが、彼はほんの少しだけ眉を下げ、カップの持ち手を指先で撫でながら視線を逸らすだけだった。


改めて向かいに座る、ロイス・ウィスクリフという人物に視線を向ける。

年は25歳とのことで、もうすぐ18歳になるイヴリンとは遠い従兄妹のような関係と教えてもらっていた。

彼の暗い蒼の瞳は、伸ばしっぱなしにした髪のせいで見え隠れしている。

もしかしたら髪と陰に隠れていることによって暗い蒼だと思っているだけで、本当はもう少し明るいのかもしれない。

ベージュにも似た淡い髪色は、金なのか茶色なのか判別がつかないままだ。

延びた襟足は細い黒紐で結び、仕事中ではない今は眼鏡を外している。

顔は格好いい方だと思う。少なくともイヴリンは好感の持てる顔立ちだ。

いや、結構ドキドキするから恰好いいとは思っている。

家の近所にいた同じ年の男の子や、父親の倉庫で働いている、体を動かす仕事の多い人達の中では見ないタイプだ。

少し線が細くて、ちょっと知的に見えるお兄さん。


イヴリンの父親は倉庫業をしているせいか、代表者であっても体を動かす作業が多いせいで、しっかりと筋肉のついた体をしている。

父方の叔父や従兄弟達だって体格に恵まれている。

外見は母似だったイヴリンに筋肉が付くことはなかったが、弟のジャックは父親に似ているので、そのうちムキムキになってしまうだろう。

ロイスは一体誰繋がりの遠縁なのだろうか。


うんと遠いのだろうなと思うくらいに、全く繋がりを感じさせない。

他人、と言われた方が納得いく人だ。

前髪から覗く蒼の瞳がイヴリンを見、それから伏せるように逸らされた。

「片付けよう」

既に二人のお皿には何も残っていない。

二人で食器を洗い、丁寧に拭いて食器棚に片付ければ朝食は終了だ。


「今日は少し仕事が立て込んでいるから、部屋に籠っていると思う。

何かあったら遠慮なく扉を叩いてくれていい」

ロイスがそう言いながら、食器棚の上へと手を伸ばし、本を一冊取り出した。

きっと、これを読んで退屈を紛らわせてほしいということだろう。

差し出された本を見れば、読みたかった物語の続きだった。

「わあ、ありがとうございます!」

歓声を上げながらイヴリンは礼を言うも、ロイスの方はなんとも微妙な顔をしている。

若い少女が読みたがる本を手に入れるのは、彼みたいなタイプは恥ずかしかったのかもしれない。


ロイスに買ってもらった本は、少女向けの恋愛冒険譚だ。

異なる世界の狭間からやってきたという主人公が、運命に翻弄される物語で、時には辛く、時には甘い展開に、誰もが夢中になって読んでいるのだと店員に勧められた一冊だ。

イヴリンも何度も読み返しながら新刊を待っていた状態だった。

物語の主人公は、慣れぬ世界で苦労しながら運命の相手と出会う。

だが、貴族だった相手には決められた婚約者がいて、一度は離れ離れになってしまうのだ。

すれ違いを繰り返しながら互いを探し求めるという冒険譚は、メアリーから聞いた聖女様のお話に似ている気がする。

もしかしたら聖女様の話を聞いた作家が、それを元に書いたのかもしれない。


いつものように火は使わないこと、喉が渇いたら保冷庫の果実水を呑むこと、おやつは昼食が終わったらダイニングのテーブルに出しておくことを言われて頷く。

ここで出されるおやつはすごく美味しい。

昨日はレモン味のアイシングがかかったクッキーだった。

それを弟のジャックと半分にしないで、一人で全部食べることができるのも嬉しかった。


ブライアウッド家は裕福ではないが、特段貧しいわけでもない。

けれど、お客を迎えてもてなすことが大好きな母親が、客用のお菓子や茶葉を買うために、子ども達のおやつを一つ減らしてしまったのだ。

一度バレて父親に怒られることもあったが、それでも母親は譲らなかった。


きっとジャックも今頃一人でおやつを食べることが出来ているだろう。

まだ暫く会えそうにないが、きっと元気にしているに違いない。

一緒に暮らすと、またおやつが半分ずつになるが、イヴリンは周囲が落ち着いたら働きに出るつもりだし、そうなったらジャックと自分の分のおやつを買うつもりだ。それなら母親も文句を言わないはず。


逸れる思考を振り払い、本と読む前に刺繍をしようかと考える。

メアリーから退屈しのぎにと図案を貸してもらっているのだ。

大抵は花の図案ばかりだが、メアリーが貸してくれた中に鳥の図案もあったので、白い綿のハンカチに刺し始めたものが籠に入っている。

お世話になっているロイスに贈ろうと、彼の暗い蒼の瞳に合わせて青色の刺繍糸を使っているのだが、鳥の羽の部分が綺麗に刺せずに苦戦していた。

色が移ろうように刺すのは思ったより難しいらしい。

気づいた時には新しいハンカチを買って挑戦するかどうかという、やり直しのきかないところまできていた。

そこから籠に入ったまま。

いい加減、あれを何とかしなくてはいけない。


結局、イヴリンは本を読みながら午前中を過ごし、昼食の時間に出てきたロイスを手伝ってサンドイッチを食べ、それから続きを読もうと本を手に取る。

部屋で読もうと思ったが、今日は天気も良好だ。

家のポーチで座って読むには打ってつけだと、手頃な瓶に果実水を入れて玄関の扉を開ける。

目の前にある段差の端に座って本を広げれば、ぽかぽかとした陽気に包まれた。

さて、と文字を目で追おうとしたところで、外から声がかかる。

見れば、配達人の制服を着た人が立っていた。


「やあ、お嬢さん。手紙だよ」

柵の向こう側から差し出されたのは一通の白い封筒だった。

真っ白な封筒は飾り気がなく、閉じ口に薄い蒼の線が細く引かれているだけのものだ。

文具や雑貨を売る店でよく見られる、仕事用として使われる封筒である。

どうしようかと考える。

ロイスからは手紙は受け取らなくていいと言われているが、ここで拒否するのもどうなのだろうか。


「イヴリン・ブライアウッドさんだろう?

君宛に手紙を届けるのは三通目だ」

思わず配達人の顔を凝視する。

ここに来てから手紙なんて受け取ったことはない。

「私に、手紙?」

そう、と返した配達人は焦れたように白い封筒を振る。

「早く受け取って。今日は手紙が多いんだ」

恐る恐る受け取ると、配達には用事が済んだとばかりに踵を返し、すぐに少し離れた場所で待機していた馬に乗り込んで去って行った。


手に残された封筒を見る。

宛先として書かれた名前と住所は、お手本を上からなぞったようにお行儀の良い文字が並んでいる。

まるで活字を並べて印刷したのかと思うほどに几帳面で無機質だ。

今、住んでいるロイスさんの家の場所は、父親しか知らない。

好奇心旺盛な人が押しかけないようにと、誰にも言っていないと言っていたはずだ。

だから、手紙がくるならば父親からだと思ったが、差出人に名前が無い。

一体誰からだろうと好奇心を抑えられず、慎重に端から封筒を破っていく。

ようやく中が見るようになった封筒には、けれど便箋は入っておらず、押し花にされたらしい色褪せた花びらが一枚入っているだけだった。


これは何だろうと思う前に、強い芳香と酷い頭痛がイヴリンを襲った。

封筒を手放し、両手で頭を押さえても痛みは酷くなっていく。

頭が割れそう。

そんな、考えすらもグズグズに溶けて痛みへと変わっていく。

呼吸が浅くなり、体は封筒から逃げようとするのに、もつれた足で転んでしまう。

ロイスの声が聞こえた気がしたが、イヴリンは痛みから逃れるために意識を手放した。

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