第2話

リリーの涙に濡れた狂信的な瞳を見つめていた雄二だったが、ふと現実的な問題に思い至った。この少女の話が事実なら、この世界の腐敗ぶりを自分の目で確かめる必要がある。体験談だけでは、どうしても主観が混じってしまう。



「……リリー」



「はい、邪神様!」



即座に背筋を伸ばして応えるリリーに、雄二は少し戸惑いながらも続けた。



「俺は、まずこの街を見て回りたい。お前の話だけでは、この世界の実情を完全に理解することはできん。自分の目で確かめさせろ」



リリーの表情が、一瞬困ったように曇った。彼女は雄二の姿を改めて見上げ、そして申し訳なさそうに口を開く。



「その……そのお姿では……」



雄二は自分の外見のことをすっかり忘れていたことに気づいた。そうだ、この体は人間離れした禍々しい姿をしている。黒いオーラを纏い、鋭い爪を持つ、まさに「邪神」と呼ぶにふさわしい異形の存在。こんな姿で街中を歩けば、一瞬で大騒ぎになるどころか、討伐隊が送り込まれてもおかしくない。



「ああ……そうか」



困ったように呟いた時、突然脳裏に何かが閃いた。まるで頭の中に直接刻み込まれていたかのように、鮮明な映像と言葉、そして効果の詳細が浮かび上がってくる。それは魔法の詠唱だった。『幻惑術』──対象の外見を一時的に変化させ、周囲に異なる姿として認識させる術。効果時間は約半日、魔力を込めることで延長も可能。詠唱は古代語で……



この知識が、まるで自分が長年使い慣れた技術のように理解できることに、雄二は内心で驚愕していた。だが、今はそれよりも実用性の方が重要だった。



「……試してみるか」



雄二は立ち上がり、深く息を吸い込んだ。脳裏に浮かんだ古代語の詠唱を、慎重に口にしていく。



「アルベド・ファシエス・ムータレ……ソリス・ルーチェ・ヴェスティトゥム……」



低く響く雄二の声に合わせて、彼の周りの黒いオーラがゆらゆらと揺らめき始めた。そして次の瞬間、雄二の体が光の粒子に包まれる。



「エゴ・コマンド……『フォルマム・ムータレ』!」



最後の詠唱と共に、光が爆発的に広がった。リリーが思わず手で目を覆う。そして光が収まった時、そこに立っていたのは……



完全に別人だった。



二十代前半と思われる、金髪の青年。整った顔立ちで、深い青の瞳を持っている。身長は元の雄二とほぼ同じだが、体型は引き締まっており、どこか貴公子めいた雰囲気さえ漂わせていた。着ている服も、この世界の一般的な旅人の装束に変わっている。質は良いが華美ではない、街中を歩いても浮かないような服装だった。



「こ……これは……!」



リリーが息を呑んでいる。彼女の瞳には驚愕と、そして畏敬の念が宿っていた。



雄二自身も、自分の変化した手を見つめながら内心で驚いていた。魔法なんて、ファンタジー小説の中だけの話だと思っていたのに、それを実際に使えるとは。そして、この姿なら確かに街中を歩いても問題ないだろう。



「これなら問題ないだろう?」



「は、はい!まさか邪神様が、このような高度な変身術まで……!」



リリーは感動のあまり、また涙ぐんでいる。雄二は苦笑いを浮かべそうになったが、この青年の顔では表情がうまく作れずにいた。



「ならば案内してくれ。この街がどのような様子なのか、見せてもらおう」



「承知いたしました!」



リリーは嬉々として立ち上がり、地下祭壇から続く階段へと向かった。雄二もその後に続く。



石段を上っていくと、やがて古い木の扉にたどり着いた。リリーがそれを慎重に開けると、朝の陽光が差し込んできる。外は既に日が高く昇り、街の喧騒が遠くから聞こえてきていた。



廃墟となった教会の影から街道に出ると、そこには確かに人々の営みがあった。商人たちが荷車を引き、農民たちが収穫物を運び、子供たちが路地を駆け回っている。一見すると、平凡で平和な街の光景に見えた。



「あの門が、街の正門です」



リリーの指差す方向を見ると、立派な石造りの門が見える。そこには甲冑を身に纏った守衛たちが立っており、通行人を監視している様子だった。



二人が門に近づくと、予想通り守衛の一人が手を上げて呼び止めた。



「おい、そこの二人。入城するなら身分証を見せろ。無ければ通行税として銀貨三枚だ」



守衛は慣れた様子でそう言い放った。その口調は事務的だが、どこか横柄さを含んでいる。



雄二は困った。当然のことながら、この世界の身分証など持っているはずもないし、この世界の通貨も一枚たりとも持っていない。元の世界の財布は、この変身と共にどこかに消えてしまったようだった。



「すみません……」



リリーが一歩前に出て、懐から小さな革袋を取り出す。その中から銀貨を数えて守衛に差し出した。



「はい、六枚です」



「よろしい、通れ」



守衛は銀貨を受け取ると、あっさりと道を空けた。



門をくぐりながら、雄二は複雑な気持ちを抱いていた。若い女性であるリリーに金を出させることに、強い罪悪感を感じていたのだ。彼女がどれほど貧しい境遇にあるかは、先ほどの話で十分理解している。それなのに、自分のために貴重な硬貨を使わせてしまった。



街の中は、門の外から見た印象通り、それなりに活気があった。商店が軒を連ね、露天商人たちが声を上げて商品を売り、人々が行き交っている。建物は古いが手入れが行き届いており、道路も整備されている。



「思ったより……普通だな」



雄二は正直な感想を口にした。リリーの話から想像していたのは、もっと荒廃した、絶望に満ちた街だった。しかし実際に見る限り、この街は健全に機能しているように思える。



「表向きは、そう見えるのです」



リリーが小さくつぶやいた。その声には、深い諦めが混じっている。



「本当の地獄は、表通りからは見えません。あちらです」



彼女が指差したのは、大通りから脇に逸れた細い路地だった。そこは薄暗く、明らかに雰囲気が違って見える。



二人がその路地口に差し掛かった時、突然大きな怒声が響いた。



「この汚らわしい虫けらが!貴様のような下賤な者が、この私の前を遮るなど許されると思ったか!」



路地の奥から、男の金切り声が聞こえてくる。雄二とリリーは顔を見合わせ、急いでその方向へ足を向けた。



そこで目にした光景は、雄二の心を大きく揺さぶった。



絢爛豪華な服を身に纏った中年の男──明らかに貴族と思われる──が、小さな子供の前で激昂していた。子供は恐怖のあまり地面に這いつくばっており、必死に謝罪を繰り返している。



「すみません、すみません!本当にすみません!わざとじゃないんです!お許しください!」



子供の声は震えており、今にも泣き出しそうだった。その子供の前に立つ貴族の顔は、怒りで歪みきっている。



「通行の邪魔をしただと?それだけの理由で許されると思うな!下等な血筋の者は、生きているだけで罪なのだ!」



貴族が剣の柄に手をかけた瞬間、雄二は血の気が引くのを感じた。まさか、このような些細なことで……。



しかし、雄二の制止も間に合わなかった。



次の瞬間、剣が鈍い音を立てて子供の小さな体を貫いた。



「がっ……」



子供が短い呻き声を上げ、口から血を吐いた。そして、そのまま地面に崩れ落ちる。もう動かない。小さな体から、赤い血だまりが広がっていく。



「ふん、これで少しは街が綺麗になったというものだ」



貴族は血まみれの剣を振り払い、何事もなかったかのように鞘に収めた。まるで道端の石を蹴飛ばしたのと同程度の感覚で、一人の命を奪ったのだ。



雄二の内側で、何かが弾けた。



それは怒りと呼ぶには生ぬるい、もっと根源的で破壊的な感情だった。理不尽への憤怒が、胸の奥で燃え上がっていく。あまりの出来事に言葉を失っていた雄二の前で、貴族がこちらに気づいた。



「ほう、見せ物でも見ているつもりか、若造?」



貴族は雄二を見て、不快そうに眉をひそめた。



「貴族様の正義の執行を見たのなら、頭を下げて立ち去るのが筋というものだろう。まったく、最近の若い者は礼儀を知らん」



その言葉が、雄二の中の何かを完全に破壊した。



正義の執行?これが?



冗談ではない。



雄二の体から、黒いオーラが立ち上り始めた。幻惑の魔法が限界を迎え、元の邪神としての姿が透けて見え始める。それに気づいた貴族の護衛たちが、慌てて剣を抜いた。



「な、何だ貴様は!」



だが、もう遅かった。



「……『漆黒の劫火』」



雄二が呟いた言葉と共に、黒い炎が彼の手から溢れ出した。それは普通の炎とは全く異なる、存在そのものを焼き尽くす破滅の炎。



炎は瞬時に貴族とその護衛たちを包み込んだ。



「ぎゃああああああ!」



悲鳴が上がったのも束の間、黒い炎はあらゆるものを完全に消し去った。肉も骨も、血も灰も、何一つ残さずに。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、完全に消失させたのだ。



周囲に立ちのぼっていた黒い炎が消え、静寂が戻った。



雄二は、地面に横たわる子供の亡骸を見下ろした。もう助からない。この子が犯した罪と言えば、ただ道を歩いていただけ。それだけで命を奪われた。



これが、この世界の現実なのか。



これが、リリーが語った「偽りの正義」の正体なのか。



雄二は決意した。



この腐りきった世界に、本当の恐怖を教えてやろう。偽善者どもに、真の裁きとは何かを思い知らせてやろう。そして、リリーのような理不尽な目に遭った者たちに、本当の救済を与えてやろう。



そう──俺が、この世界の「邪神」になってやる。



雄二の青い瞳に、静かだが圧倒的な決意の炎が宿っていた。

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