マイ・ロンリネス・グッバイ・クラブ――あの夜に、また会える場所
智沢蛸(さとざわ・たこる)
Episode Final:マイ・ロンリィ・グッバイ・クラブ
春の雨があがったばかりの夜だった。
──この店は、便利な場所にあるわけじゃない。
駅からも繁華街からも外れて、
知らなきゃ見過ごすような、古い雑居ビルの地下だ。
それでも、わざわざ来る理由のある人だけは、
この階段を下りてくる。
店内に入ると、木のぬくもりに包まれた静かな空間が広がっている。
ふだんは読書と静かな会話に向いた、どこか昭和の名残を残す木製のテーブルとベンチ。
壁際には、色褪せたジャズやロックのレコードジャケットが額装され、
低い照明がそれをぼんやりと照らしている。
週末の夜だけ、店の左側の席はすべて片づけられ、ちいさなステージが即席でつくられる。
派手なネオンはない。
小さな看板があるだけ。
宣伝もしていない。
けれど誰かがふらりと現れて、
誰かの曲を聴いて、グラスを傾ける。
カウンター越しに立つマスターのジョーが、常連の顔をゆるやかに見渡す。
──この空間は、まるで彼の人生がそのまま形を持ったかのようだった。
この店に似合う言葉があるとすれば、たぶん「さよなら」だ。
人は別れたあとにこそ、音楽を求めるものだから。
だからこの店の名前は――
「マイ・ロンリネス・グッバイ・クラブ」。
孤独に、さよならを言うための場所。
──そして今夜が、その最後の営業日だ。
地下へ続く階段はしっとりと濡れていた。
普段はマスターと、バイトのバーテンがいるだけのショットバーだが、週末だけ店の雰囲気が変わる。
マスターのジョー率いるバンド“Dislike Monday”によるライブバーとなる。
店の取り壊しが決まったとき、彼は多くを語らなかった。
ただ「いつものようにやるさ。」とだけ言い、演奏スケジュールに“LAST SESSION”と記した。
ステージではDislike Mondayのメンバーたちが、最後の音合わせを終えたところだった。
アツローがソプラノサックスのマウスピースを軽く吹きながら、何度か息を入れて調整していた。
バーのバイトとして店に出入りしているが、今は準メンバーとしてその場にいる。
普段は24歳の大学生――ただし、浪人・留年を繰り返したせいで、彼の“学年”を知る者はいない。
黒のハットにうっすら無精髭。
無口なわりに妙に存在感のある男だった。
「なあ、ジョー。ほんとに今夜で終わりにしちまうのか?」
「終わるんじゃない。…眠るだけだ。」
マスターでバンドのリーダーのジョーは、かつてより少しだけ深く刻まれた目尻で静かに笑った。
カウンターの中で紅一点のユウリは黙ってグラスを磨いていた。
ユウリ――普段は音大に通う20歳の大学生。
平日はバーテンとして働いているが、週末は女性シンガーに変身する。
今夜のセットリストは、まだ決まっていなかった。
ドアのベルが鳴った。
振り返った全員の前に、ひとりの女性が立っていた。
年齢は分からない。
肩までの黒髪、グレージュのコート、すっと通った鼻筋。
「……やってる?」
「今夜が最後ですけどね。」
カウンターの中からユウリがグラスを拭く手を止め、そっと彼女を見た。
柔らかな瞳と、物憂げな表情。
それでいながら、芯の通った静けさがあった。
「……前にもうちに来たこと、あるんですか?」
何気なく尋ねると、彼女は微笑んで首を横に振った。
「ずっと、来ようと思ってた。でも……来られなかった。」
それだけで、また視線を落とした。
その時だった。
ユウリはふと、周囲の空気が変わったことに気づく。
ステージの準備をしていた春夫が、不意に立ち止まって彼女を見ていた。
佳彦のギターの調弦の手がわずかに止まり、成人は静かに頷くような表情を浮かべた。
「……あの、皆さん、この方をご存じなんですか?」
ユウリが問いかけても、誰もはっきりと答えなかった。
ただ、ジョーは小さく目を細めたまま、ドラムセットの中に座っていた。
だが、空気は確かに変わっていた。
──懐かしさと、痛みと、ぬくもりが交じり合ったような、言葉に出来ない気配。
ユウリは、胸の奥で何かを理解した。
――この人は、ただの客じゃない。
この店の、思い出の中に生きている人なんだ――。
「じゃあ、リクエスト、してもいい?」
彼女は、ユウリに向かって言った。
「和久井映見の『マイ・ロンリィ・グッバイ・クラブ』。やってくれる?」
春夫が一瞬だけ目を丸くする。
佳彦は無言でギターを構えた。
「懐かしいな。」
ユウリがゆっくりとステージへ歩き、マイクの前に立つ。
「この曲、私が初めてこの店で歌った夜を思い出します。」
ジョーがドラムに座る。
仙人はベースの弦を弾いた。
春夫は音を確認しながら、マイクの電源を入れる。
「さあ、これが俺たちの“マイ・ロンリィ・グッバイ・クラブ”。ラストステージ、始めます。」
春夫がピアノのイントロをしっとりと演奏し始めた。
やがて、ユウリが低い声で歌い出す……。
別れを描いた切ないバラード。
間奏ではアツローがサックスの音を悲しげに重ねる。
その旋律は、春の夜にしみわたった。
佳彦はギターを弾きながら、不意に涙をこぼした。
春夫は、それを見て何か言いかけたが、飲み込んだ。
仙人は、ベースの音にいつもよりやさしさをこめた。
ユウリは、目を閉じながら、
このバーで出会ったすべての夜に、心の中で手を振っていた。
曲が終わると、店は一瞬、無音になった。
彼女はそっと立ち上がり、グラスを見つめた。
「……さよならを言いに来ただけ。」
その一言だけを残して、ゆっくりと階段をのぼっていった。
誰も彼女の名前を訊かなかった。
閉店後、店内の片付けをしていたユウリが、ふと壁のポラロイド写真に目をとめる。
20年前の写真──まだ若かったジョー、春夫、佳彦、仙人。
その端に、あの女性の姿があった。
笑顔で、ステージ衣装をまとい、肩を寄せて写っている。
ユウリが小さく笑った。
「……ほんとうに、そうだったんだね。」
翌朝、地下の階段は封鎖され、
「マイ・ロンリネス・グッバイ・クラブ」は、静かにその歴史を閉じた。
だが、その夜の歌だけは、
今もどこかの心で、そっと鳴っている。
おわり
◇◆◇◆
人ではなく、ライブバーが主役という物語を書いてみました。
店に集まる人たちの記憶や音楽が、静かに重なり合っていく夜。
誰かの思い出が、いつか誰かをそっと救うことがある――
そんな願いを込めて、この小さな店に最後の灯をともしました。
次は、あなたの想い出の曲が流れる番かもしれません。
マイ・ロンリネス・グッバイ・クラブ――あの夜に、また会える場所 智沢蛸(さとざわ・たこる) @tako4949
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