第48話
馬車はデルム川沿いの街道をゆるやかに進んでいた。
二十騎の護衛が陽を受けて、川面からの風が窓をかすめていく。
車内では、さきほどから青白い光が絶え間なく瞬いていた。
ホログラムに浮かぶ球体――ポットが、息つく暇もなく伯爵へ話しかけ続けている。
ポット:「では次の質問です! 伯爵さまのお家に伝わる防御魔法陣、
符号の刻みは一筆書き型ですか? それとも閉鎖環状型ですか?」
伯爵は眉間を押さえ、わずかに頭を振った。
「……も、もう少し待ってくれ。
これで何問目だ? さっきから数えて――」
ポット:「二十三問目です! 記録済みです!」
颯真は窓際で静かに腕を組み、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ポット、質問は一旦控えなさい。伯爵が疲れています」
ポット:「えっ、でも今いい流れで――」
「休ませてあげることも流れのうちだ」
伯爵は苦笑を浮かべ、深く息を吐く。
「先生、感謝します……。
いえ、ポット殿の好奇心は実に立派だが、さすがにもう答えが尽きそうだ」
馬車の揺れに合わせて窓外の景色が流れる。
遠くにデルム川の水面がきらめき、丘陵の向こうにはヴァルドラ=シュル=デルムの街影がかすかに見え始めていた。
伯爵は額の汗を拭いながら、かすかな安堵の笑みを漏らした。
「……ようやく着きますな」
夕暮れが迫るころ、馬車はデルム川を渡る長い石橋に差しかかった。
川面は茜に染まり、両岸には果樹園が続く。
柑橘の甘い香りと、秋の葡萄を絞った発酵香が風に混じり、旅の疲れをほんのり癒やしてくれる。
護衛がきらめく槍先を掲げ、整然と進んでいた。
川を渡りきると、緩やかな丘陵の道が続く。
道沿いには石造りの倉庫や乾燥小屋が点在し、柑橘を詰めた木箱が積まれている。
農夫たちが収穫を終えた畑から戻り、子どもたちがその後を駆けていた。
視界の奥、丘の頂に白灰色の城壁が姿を現す。
デルム川に面してそびえるヴァルドラ要塞――ルーメル伯領の心臓だ。
馬車が坂を上るにつれ、葡萄畑が眼下に広がり、街の全貌が見えてくる。
放射状に伸びる石畳の路地、中央にはオランジュ広場の噴水が小さくきらめき、
河岸にはデルム埠頭や商館桟橋の帆柱が並ぶ。
果樹園と交易港、ロマンス系の街並みとゲルマン風の高塔が交錯する光景は、
王都とも港町とも異なる、どこか中西欧の境界を思わせた。
伯爵は窓越しに街を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
「……ここが我が家、ヴァルドラ=シュル=デルムです。
かつて“王国の果樹園”と呼ばれた街。
しかし今は、デルム川の氾濫や私兵衝突で港湾税が乱立し、
交易も西方港へ迂回しつつある。
先生、あなたの目には、どのように映りますか」
「豊かさを守ろうとする力が、まだ息づいていると感じます」
颯真は素直に答えた。
「治水さえ整えば、港も果樹園も再び力を取り戻すでしょう」
伯爵は小さく微笑み、窓外へ視線を戻した。
やがて馬車は要塞の前広場へと入る。
白石を積み上げた城壁は夕陽を受けて淡く輝き、
高く掲げられた紋章旗が川風に翻った。
城門が開き、槍を携えた衛兵たちが整列する。
門をくぐると、石畳の中庭に温かい橙の灯りが揺れていた。
その中央に、年配の執事が待っていた。
背筋の伸びたその姿は、長い歴史を背負う屋敷にふさわしい威厳をたたえている。
伯爵が馬車を降りると、執事が恭しく一礼した。
「ご帰館をお待ちしておりました、伯爵さま」
続いて颯真にも、深々と礼をする。
「遠路はるばるお越しくださいました。
ルーメル伯爵家執事、グリム=ハルトにございます。
本日は長旅でお疲れでしょう。
お部屋をご用意しておりますので、まずはご休息くださいませ。
お食事は後ほど、お部屋へお運びいたします」
伯爵が小さく笑みを浮かべた。
「ありがとう、グリム。
先生、どうか遠慮なさらず。
この城は古いですが、客室の整えには心を砕いております」
「お気遣い感謝します」
颯真は静かに一礼し、柔らかい石畳を踏みしめた。
中庭を囲む回廊には、古いランタンの灯が暖かく揺れている。
石壁の向こうには、まだ葡萄と柑橘の香りを残した夜風が流れ込み、
旅の疲れをほんのり癒やす甘い匂いが漂った。
頭の奥に、かすかな電子音が届く。
ポット:「先生、到着記録完了。
中庭の魔導結界、構造が面白いですね。あとで解析していいですか?」
颯真はわずかに眉をひそめ、声には出さずに心で答える。
「後にしなさい」
ポットは小さく「了解」と囁き、気配を消した。
執事に案内され、石段を上がる。
壁に掛けられた古いタペストリーが、往年の交易の栄華を物語っていた。
廊下の奥、深い葡萄色の扉が静かに開く。
「こちらが先生のお部屋にございます」
グリムが柔らかく微笑む。
「どうぞごゆるりと。
お食事は一刻ほどでお持ちいたします。
ご要望があれば遠慮なく」
「ありがとうございます。お心遣い、感謝します」
颯真は丁寧に頭を下げ、部屋に足を踏み入れた。
広い客室には、葡萄色のカーテンと淡い柑橘の香りが満ちていた。
窓を開ければ、夜のデルム川が銀の筋を引いて流れ、
遠くの丘には収穫を終えた果樹園が月光を浴びている。
旅の長い一日が、ようやく静かに終わろうとしていた。
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