第40話

  夏休みの始まりと同時に、大学の喧騒が一気に薄らいだ。

 試験とレポートを終えた颯真は、ようやく一週間ほどを異世界に費やす余裕を手に入れた。

 必要な装備は揃っている。


 王へ献上する特別な品。

 絹の表面に、淡い金の光が滑る。

 それは豪奢でありながら、ひと筋の冷たさを帯びた輝きだった。

 王宮の白い大理石の広間に広げても見劣りしない――その確信が、颯真の胸に静かに落ち着いた。


 夏の夕暮れ。

 研究棟の窓から射す光がマントに反射し、金糸が一瞬、星雲のように煌めいた。

 異世界への出立は、もう間近だった。





 石畳の床は磨かれて冷たく光り、天井の梁には金の縁取りが走っていた。

 赤い絨毯が玉座に向かって真っすぐに伸び、両脇には廷臣と兵士が並んでいる。


 その中央に、颯真が立っていた。

 黒のスーツと漆黒のマントは異質ではあるが、派手さはなく、静かに場を支配するような存在感を漂わせていた。

 彼はただ呼吸を整え、両手を胸の前で軽く組んでいる。


 ポット「先生、王宮内部のデータを取得しました。光度が計算値よりも高いです。きれいですね」


 心の奥にだけ届く声。

 颯真はわずかに頷き、外には微笑一つ見せない。


 「な、何者だ!」

 「また現れおったぞ!」


 廷臣たちが口々に叫ぶ。

 「異界の者だ! 兵を寄せよ!」

 鎧の音が重なり、剣が抜かれ、きらめきが王の間に走った。


 「陛下、斬り捨てるべきです!」

 「いや、捕らえて尋問を!」

 「魔の使いかもしれませぬ!」


 怒声は増し、兵士たちがじりじりと詰め寄る。


 ただ一人、颯真は微動だにしなかった。

 剣の切っ先を前にしても、彼は片手をゆっくりと上げる。


 「安心してください。私は誰にも危害を加えるつもりはありません」


 その声は大きくはなかったが、不思議と広間の隅々にまで届いた。

 騒ぎ立てていた廷臣が数人、思わず口を閉ざした。


 玉座に座す王が、重々しく声を発した。

 「……異界の者か。なぜ現れた。名を名乗れ」


 颯真は静かに頭を下げる。

 「神谷颯真。ただの学者と思っていただければ結構です」


 「学者だと?」

 「ふざけるな!」


 廷臣たちの怒声が再び広がる。

 最年長の大臣が杖を打ち鳴らした。

 「陛下、この者は呼ばれもせずに結界を越えております! 斬り捨てるほかありますまい!」


 「牢へ繋ぐべきです!」

 「今こそ威を示す時!」


 声が荒れる中、ひとりの若い廷臣が慌てて叫んだ。

 「落ち着け! 皆、落ち着け!」

 しかし声は一番落ち着きを欠いていた。

 周囲の者が苦笑を漏らし、彼は顔を赤くして咳払いをした。


 颯真は首を振った。

 「剣を下ろしてください。私は戦うために来たのではありません」


 少し間を置き、静かに続ける。

 「まずはこれを挨拶代わりに――王へ献上したく参りました」


 彼は腕を広げ、空間魔法の隙間から一枚のマントを取り出す。

 純白のシルクに細い金糸が織り込まれ、柔らかな光が波打つたび、星々のように瞬く。


 ポット「先生、光度安定しています。王宮の照明下で最も映える角度です」


 颯真は微笑を浮かべずにただ言った。

 「体温を整える程度の魔法を施しただけの、ささやかな品です。どうぞお納めください」


 廷臣たちは息を呑み、ざわめきが一瞬だけ途絶える。

 マントが揺れるたびに、金糸が灯火を反射して大広間に淡い光の筋を描いた。


 王はゆっくりと立ち上がり、静かな声を響かせた。

 「……見事なものだ」


 その後も王宮には緊張が残っていたが、先ほどまでの敵意はわずかに和らいだ。


 「前にここに呼ばれた時……なぜ異界から人を呼ぶのか、その理由を聞けませんでした。それが心に残っていたのです」


 廷臣たちは一瞬だけ沈黙した。

 敵意ではなく、問いかけとして言葉が投げられたことに戸惑ったのだ。


 王は視線を颯真に戻し、重々しく告げた。

 「言うことは分かった。だが今ここで国の事情を語ることはできぬ」


 彼は広間を見渡し、ざわめく廷臣たちを片手で制した。

 「静まれ」


 兵士たちの剣先がわずかに揺れ、足音が止まった。


 「お前が害をなすつもりがないのなら、ここで斬る理由はない。だが王宮に置くわけにもいかぬ」


 間を置き、さらに続ける。

 「この者を王宮から外へ移せ。一室を与え、そこで滞在を許す」


 廷臣たちがざわめく。

 「陛下、軽すぎます!」

 「王宮から外へ出すだけでは……」


 老大臣が食い下がったが、王は鋭い視線で押し黙らせた。


 「身分は授けぬ。ただし、この地に滞在することは余が許す」

 王の声は堂々と響いた。

 「それから、この者の身の安全は余が保障する。誰も勝手に手を出してはならぬ」


 重苦しい沈黙が広がる。

 兵士たちが顔を見合わせ、廷臣たちは渋々頭を下げた。


 王は外務卿を呼んだ。

 「外務卿、そなたが預かれ。滞在先の手配と応対を任せる」


 「承知いたしました」

 外務卿は膝を折り、深々と頭を下げた。


 「書記官、記録せよ」

 王の一声に、書記官が羽根ペンを走らせる。

 羊皮紙に黒いインクが滲み、蝋燭の炎が揺れた。


 颯真は静かに頭を下げた。

 「お取り計らいに感謝いたします」


 王は玉座に戻り、片肘を置いて兵に告げた。

 「剣を収めよ。……以上だ」


 剣が鞘に戻り、兵たちは隊列を整えた。

 緊張はまだ漂っていたが、広間に確かに「保障」という王の言葉が刻まれていた。


 扉が開かれ、颯真は外務卿の案内で王宮を後にした。

 背後で扉が閉じると、広間に残った廷臣たちは誰も声を上げなかった。

 ただ、王の決定が記録に刻まれた音だけが、まだ耳に残っていた。

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