第36話
夜明け前の街は、薄い霧をまとっていた。
白いコスモスポーツに手をかける。
ロータリーエンジンが低く目を覚まし、静かな住宅街に柔らかな響きを落とした。
久々の早朝ドライブに、車体がどこか嬉しそうに感じられる。
湾岸線へ向けて滑り出すと、薄青の空と海面の光が窓を染めた。
ハンドルから伝わる振動は細やかで、生き物のような鼓動を返してくる。
大学へ着いたのは朝の一限が始まる少し前。
研究棟の廊下は静かで、床に射す光が白く反射している。
授業を一通り受け、午後は医学部棟へ足を運んだ。
彼女への治療体制チームは、若先生を中心に着実に体制を固めていた。
電子カルテには術前ケアとリハビリの計画が整理され、
看護師とリハビリ担当が連携を取るメモが並んでいる。
神谷が口を出さずとも、計画は自走し始めていた。
もう自分の役目は、見守ることだけだ。
夕方、大学を後にした颯真は、再びコスモスポーツに乗り込んだ。
ロータリーの鼓動が、今度はゆったりとしたリズムで彼を包む。
湾岸線の夕景は、朝とは違う金色の光を海面に散らし、
車体はそれを映して淡く輝いた。
やがて江戸川のスクラップ工場が見えてくる。
赤茶けた鉄骨と油の匂いは、夕暮れの中でどこか温かさを帯びていた。
工場の扉を開けると、田嶋社長が工具を片づけていた。
「お疲れさまです」
颯真は手にしていた紙袋を差し出す。
「一休みしませんか」
事務所に移ると、香ばしい湯気が漂った。
せんべいの皿をテーブルに置き、田嶋が一枚つまむ。
颯真はそのタイミングで、名刺と小さなネームプレートをそっと置いた。
「株式会社神谷研究所 代表取締役社長」
金文字が夕暮れの光を淡く返す。
田嶋はカップを持ったまま固まった。
「……社長?」
「ええ。ここを動かすのは田嶋さんにお願いしたいのです」
颯真は柔らかく微笑んだ。
「私は常にここにいられるわけではありません。現場を知り、人を守れるのはあなたです」
田嶋は視線を落とし、しばし沈黙する。
「俺はもう、引退していいと思ってたんだがな……」
「続けてください。あなたの腕と人柄が、この工場を支えます」
長い息を吐いたあと、田嶋は名刺を指で押し返した。
「……分かった。先生の期待に応えるさ。ただ、俺は職人としてここに立つ」
「それで十分です。私は取締役の研究主任として守ります」
二人は同時にカップを持ち上げ、温かいコーヒーを口に含んだ。
工場の外では、白いコスモスポーツが金色の残光を受け、
どこか誇らしげにその姿を光らせていた。
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