第8話

緩やかな日々が過ぎていた。

 発注していた設備もすべて届き、家はすっかり整った。

 運河を望むリビングは、光を柔らかく受け、静かな空気を抱いている。


 時計もある。家も整った。

 次に残っているのはガレージの車だが、それは急がない。

 「ゆっくり仕上げていこう」——そう思える余裕が、今の颯真にはあった。


 その日も、体力づくりの散歩を日課として外へ出た。

 夏が近づきつつある季節。

 風は軽やかだが、陽射しには湿った熱が混じり、歩けばすぐに汗がにじむ。

 今日は、少しだけ足を伸ばしてみようかと、これまで歩いたことのない路地を選ぶ。


 ところが、不意に視界が揺れた。

 足元がかすかに沈むような感覚。

 胸が苦しくなり、その場にしゃがみ込んでしまう。


「大丈夫ですか?」


 声がした。

 見上げると、若い女性が立っていた。

 驚きと心配の入り混じった表情で、迷いなく手を差し伸べてくる。


 躊躇いながらも、その手を取る。

 細くもしっかりした指先に支えられ、近くのベンチに腰を下ろした。


「……ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」


 颯真がそう頭を下げると、女性は「いえ」と短く答え、静かに微笑んだ。

 そのまま去っていったが、しばらくすると戻ってきた。

 手には冷たいペットボトルの水と、ハンカチ。


「すごい汗ですよ。大丈夫ですか?」


 彼女は息を切らしながら差し出した。

 水滴のついたペットボトルの冷たさが掌に広がり、火照った体に沁みていく。

 ハンカチを受け取るのはためらわれたが、その気遣いに胸が温かくなった。


「……本当に、ありがとうございます」


 そう告げると、彼女は少し安心したようにうなずき、ためらいがちに尋ねた。


「救急車……呼びますか?」


 颯真は慌てて首を振った。

「いえ、本当に大丈夫です。少し休めば落ち着きますから」


 女性はしばし彼の顔を見つめ、そしてようやく安心したように笑みを浮かべた。

「なら、よかったです」


 軽く会釈をして、足早に去っていく後ろ姿。

 その笑顔が、夏の光に照らされて遠ざかっていった。


 ベンチに腰を下ろしたまま、颯真は静かにその姿を見送った。

 久しく忘れていた、人の優しさの余韻だけが胸に残っていた。



 彼女が角を曲がり、視界から消えるまで、颯真はベンチに座ったまま目で追っていた。

 夏の入口の光がまぶしく、腕の時計の秒針が淡々と時を刻む。


 その音に合わせるように、記憶がふいに巻き戻る。

 ベンチ、冷たい水、差し出された手。

 そして——あの瞬間。


 無意識に、鑑定が発動してしまった。


 すぐに消した。

 情報は一瞬で視界から消えたはずだった。

 だが、2つだけ、どうしても記憶から消えないものがあった。


 ——悪性脳腫瘍。

 ——余命3年。


 その2つの言葉が、脳裏に焼きついて離れない。


 断定ではない、と自分に言い聞かせる。

 けれど、知力500の頭脳が、能力の精度をよく知っている。

 「恐らく正確だ」と冷徹に告げようとする思考と、「絶対ではない」と押し返す思考が、胸の奥でせめぎ合った。


 以前の自分なら、慌てて駆け寄り、善意を盾に、余計なことを口走っていただろう。

 正しさを振りかざし、相手の平穏を奪って。

 ——独りよがりの押しつけ。


 だが今は違う

 助けたい気持ちはある。

 けれど、押しつけになってはならない。

 彼女の生は、彼女のものだ。

 その中に、自分の勝手な“正しさ”を持ち込んではいけない。


 ——まずは、静かに見守る。


 鑑定は二度と人には向けない。

 あの数字は、誰にも言わない。

 次に会う機会があるなら、預かったハンカチを洗って返す。それだけでいい。

 それ以上を望むのは、傲慢にすぎる。


 秒針が1目盛り進む。

 胸の奥で、決意が静かに固定された。


(……助けてくれて、ありがとうございました)


 届かないと知りつつ、心の中で礼をもう一度だけ繰り返す。

 夏の風が吹き抜け、汗が乾いていく。

 だが「悪性脳腫瘍」と「余命3年」という言葉だけは、夜の帳が下りても消えずに残っていた。


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