第30話 決意
市原慎司のグループが宿泊するホテルに着いたのは、良樹たちよりだいぶ後だった。
(楽しかったけど、さすがにちょっと疲れたなぁ)
とりあえず部屋に行って少し休みたい。ゴロゴロしたい。そんなことを考えながら、彼はグループの仲間とともにロビーへと入った。
「ねえ、市原くん。少しおみやげ物とか見ていかない?」
グループの女の子たちにそう誘われた市原は、内心では早く部屋で休みたいと思いつつ、彼女たちに付き合った。女の子からの誘いを断るという選択肢は、彼の中にはない。
「市原くんは、今日楽しかった?」
女の子の一人がそう尋ねた。
「もちろん楽しかったよ。神社とかお寺とか正直興味ないけどさ、キミらと同じグループだからかな、すごく楽しかったよ」
女の子たちが頬を赤らめた。こうして彼は、また女子人気を高めていく。
「んっ?」
売店のある場所はロビーに近い。そこで話し込んでいる良樹と渡辺の姿が、市原の目に飛び込んできた。
(……ちっ!)
彼は内心で舌打ちしながらその場を通り過ぎようとした。あまり見たくない光景だからだ。そして良樹たちの前を通り過ぎようとした時、ふたりの会話が漏れ聞こえてきた。
「川島くん、今日の夜の約束、忘れないでね?」
「わかってるって。……あー、でも、だりーな。一日中、江藤と藤原と一緒で、マジで疲れたわ。正直、部屋でゴロゴロしてえ」
「え……」
「わりいわりい、冗談だって! 絶対行くから、待ってろよな!」
市原は思わず良樹に視線を向けた。
(コイツ、渡辺さんになんてこと言うんだよ……)
市原には到底信じられなかった。たとえそれが冗談であったとしてもだ。なぜなら……。
(オマエが「だりい」って捨てようとしたその時間は、僕が喉から手が出るほど、欲しくて欲しくてたまらない時間なんだよ……!)
言いようのない不快感が市原を襲う。どうしてアイツは、女の子を悲しませることばかり言うのか……。
夕食後、市原はひとりでホテル内の自販機コーナーにいた。市原がジュースを飲んでいると、そこに偶然渡辺が現れた。
(えっ!? わ、渡辺さん!?)
市原の存在に気づいた渡辺は、笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。好きな女の子と二人きりになる、初めての瞬間だった。
「ジュース飲んでるの?」
「う、うん。ちょっと喉が渇いちゃってさ」
「ふーん」
市原は、勇気を振り絞って当たり障りのにない会話を試みた。
「……今日の奈良、どうだった?」
「うーん、お寺とか神社の良さって正直よくわからないんだけど、友達と一日一緒に出掛けてるみたいで楽しかったな」
渡辺は、にこやかに答える。しかし、ふと真顔になって市原に尋ねた。
「ねえ、市原くん」
「な、なに?」
「市原くんって、川島くんの親友だよね?」
「え? あっ、ま、まあね」
「川島くん、なにかあったのかな。なにか聞いてる?」
「え……? どうかしたの?」
「なんか川島くん、ずっと上の空でさ。私と一緒にいても全然楽しくなさそうだし……もしかして私、何かしちゃったのかな……」
「……」
「さっきも、夜部屋に来てねって言ったら、正直だりーとか言われちゃって……冗談だって言ってたけど」
その、か細く不安げな声。普段の彼女からは想像もできない、あまりにも儚げな横顔。
――違う。君は、何も悪くないよ。悪いのは、全部川島なんだ。アイツが君を、こんな顔にさせてるんだから。
「……アイツは、バカなんだよ」
市原は、気づけばそう呟いていた。
「え……?」
「川島は、悪気があるわけじゃないんだ。ただガキなだけなんだよ。自分がどれだけ幸せな場所にいるのか、アイツは全然わかってない……だから、渡辺さんが気にする必要は全くないと思うよ」
それは親友を庇っているようで、その実、最も手厳しくその本質を断罪する言葉だった。
渡辺は、驚いたように市原の顔をじっと見つめた。
「……市原くんって優しいんだね。川島くんのこと、庇ってくれるんだ」
「庇ってるつもりはないよ。ただ事実を言ってるだけだから」
「……そっか」
渡辺は、ふっと、自嘲するように小さく笑った。
「……私が子供なのかなぁ。川島くんの冗談だって、わかってるのにね。それなのにいちいち傷ついちゃってさ。バカみたいだよね」
その強がりの下に隠された、あまりにも素直な弱さ。市原は、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。目の前の少女は今にも泣きだしそうだ。
「……そんなの、傷ついて当たり前だよ」
市原の声は、静かで、しかし有無を言わせぬ強さを持っていた。
「好きな男にそんなこと言われて、傷つかない女の子なんているわけない。渡辺さんは、何も間違ってないよ」
その、あまりにも真っ直ぐで、絶対的な肯定の言葉に、渡辺は何も言えなかった。ただ潤んだ瞳で市原の顔を、じっと見つめ返すことしかできなかった。
好きな女性が、親友のせいで悲しんでいる。
市原は聖人君子などでは決してない。今の彼は良樹に対して怒りしかなかった。ふたりを会わせたくないと、彼は初めて思った。
(少しぐらいお灸をすえたっていいよな……)
市原はそう思った。そうだ。これは罰だ。渡辺さんを、そして槇原さんを傷つけた川島が、受けるべき当然の罰なんだ。
だが、それを肯定しないもう一人の自分がいた。
――本当にそうなのか?
もう一人の自分が、そう問いかけてくる。
――これは、本当に彼女たちのためなのか?
――お前が、親友から好きな女を奪うための、汚い言い訳じゃないのか?
彼の脳裏に先ほどの、渡辺の泣き出しそうな顔が蘇った。
(部屋に川島が来なかったら、渡辺さんは悲しむだろうな……)
彼女は今夜、川島が部屋に来るのを心待ちにしているはずだ。それを自分の嫉妬心のために邪魔するのか? そんなことをして、彼女のあの悲しい顔をもう一度見たいのか? 市原は自問自答を繰り返した。
――違う。
それは断じて、違う。
市原は、脳裏に今日の全ての光景をもう一度再生した。
土産物屋での、良樹の上の空の態度。志保と藤原を見つめる、あの黒い炎のような嫉妬の瞳。そして、親友である自分の胸ぐらを掴んだ、あの理性を失った姿。
(……今のあいつは、もう、まともじゃない)
彼は、確信した。
今の良樹が、渡辺の部屋へ行ったらどうなる? 彼はきっと、また上の空だろう。心はずっと、志保のことでいっぱいなはずだ。
そして、そのどうしようもない苛立ちを、彼はきっと無意識のうちに渡辺へぶつけてしまうだろう。
あるいは、嘘で塗り固めた空っぽの優しさで、彼女を欺こうとするだろう。
(そんなもの、渡辺さんが、本当に望んでいるものかよ……)
違う。そんなのただ、彼女をより深く、そしてじわじわと傷つけるだけの、ただの毒だ。
(……なら、俺がすべきことは、ひとつだろ)
たとえ今夜、彼女が一時的に悲しむことになったとしても、その毒から彼女を遠ざけなければならない。あの何もわかっていない親友が、これ以上彼女の尊厳を踏みにじる前に。
市原は、強く唇を噛んだ。ポケットの中で、握りしめた拳が小刻みに震えている。
(……ああ、そうだよ)
彼は、心の中でハッキリと認めた。
(これは、正義なんかじゃない。ただの醜い嫉妬だ。わかってる)
でも、それでも。
(それでも、君が傷つくのをわかっていて見過ごすことなんて、俺にはできない)
市原は、顔を上げた。
その瞳からは、もう迷いは完全に消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます