第4話 変わろうとするキッカケ

《side庵野紘子》



 私は、本を読んでいるときだけ安心できる。


 文字を追っていれば、誰も私に話しかけてこないし、私は返事に失敗することもない。


 人の目を見るのが苦手。


 声を出そうとすると、喉が固まって、うまく言葉が出てこない。


 何を話せばいいのか考えているうちに、みんなの会話は流れてしまう。



 だから私は、教室の隅で本を開いて、ページの音を盾にして過ごしてきた。


 それで十分だと思っていた。



 ……でも。ざわめきの中で、不意に耳に飛び込んできた。男子の声。



 軽い調子で、だけど教室にはよく響く。



「なぁなぁ、ソラ。お前はどの子がいいんだ?」



 からかうような声。返ってきたのは、少し考えるような間を置いた声。



 高藤アキラくんと、無形空くん、クラスの中心でもなければ、特別目立つこともない男子たち。けれど、誰とでも普通に話せる人たち。



 静かな雰囲気が、他の男子と違って苦手じゃない。



「うーん、じゃ庵野紘子さんで」



 ページをめくる指が止まった。


 心臓が、ドクンと大きく鳴る。



 私の名前? なんの会話をしてたっけ? どの子がいい? タイプ?



 桐谷さんでも、三浦さんでも、日野さんでもなく。


 教室の中心にいる、誰もが「可愛い」と言う美少女たちではなく。



 私? それは不意打ちで、誰かに私の名前が呼ばれるなんて思いもしなかった。



「はっ?! お前マジで言ってる?」



 高藤くんの驚いた声。私は地味で、オシャレなんてわからなくて、話すのも苦手で、私はきっと選ばれない側の人間。



 恥ずかしさと戸惑いで、本に目を落としたまま、必死で顔を上げないようにした。


 視線が怖かった。誰かがこっちを見ていないか、不安で仕方なかった。


 でも、耳は勝手に続きを拾ってしまう。



「別に、庵野さんは物静かで、騒がしくないからいいだろ? 雰囲気が好きなんだ」



 無形空くんの声。落ち着いて優しい声。バカにしてない、罰ゲームでもない調子。



 ただ、それだけを理由に選んでくれた。


 私が苦手じゃないって思ったのと同じ理由。


 胸が熱くなる。熱いのに、同時に冷たくもなった。



 私は、クラスで「選ばれる」存在じゃない。ずっとそう思っていた。



 本の中でなら、恋はわかる。王子様が笑って、ヒロインが赤くなって、二人の距離が縮まっていく。


 

 でも、それは紙の上での話。私に向けられるはずがない。



 ……でも、物静かだからいいって言葉が、雰囲気が好きって、心の奥にずっと残っている。


 

 私を見てくれる人がいる。



 ページの活字が滲んだ。私は、俯いたまま本を閉じて、小さく呼吸を整える。



 無形くんに見てもらっているなら、少しだけでも変わりたい。



 せめて、無形くんが私を好みといって笑われないように。

 せめて、ほんの少しでも見られても恥ずかしくないように。



 きれいにするにはどうすれば? 髪を整えて、リボンを結んで、メガネを拭いて。


 そしたら、本の中で見たヒロインのように、私だって……見てくれるかな?



 胸の奥に、初めて芽生えた願い。怖いけど、怖いままじゃいたくない。



 昨日までの私を終わらせるために。


 家に帰ると、リビングでお姉ちゃんがソファに寝転んでいた。

 

 私より三つ上の姉は、いつも明るくて、友達が多くて、外に出れば誰かが声をかけてくるような綺麗な人だ。



「お姉ちゃん、ただいま」

「おかえり……おやおや、紘子。今日なんか嬉しそうじゃない?」



 私の声色で感情がバレてしまう。


 冷蔵庫から麦茶を注いでくれて、にやっと笑う。


 私は慌てて首を横に振った。



「そ、そんなこと……ない」

「嘘だね。わかるもん。目がちょっとキラキラしてる」



 心臓が跳ねた。耳まで赤くなる。気づかれるなんて思わなかった。



「……ねぇ、お姉ちゃん」

「ん?」

「私、どうすれば……変われるのかな?」



 呟いた声は自分でも震えていた。お姉ちゃんは少しだけ驚いて、それから嬉しそうに微笑んだ。



「任せなさい。紘子のそういうお願いを、お姉ちゃんは待ってたんだから」



 鏡台の前に座らされ、髪を丁寧に梳かれる。絡まっていた毛先がほどけて、さらさらと肩に落ちる。



「ほら、ちょっと整えるだけで印象変わるんだよ」



 次に、薄く化粧をしてくれた。頬に指が触れるたび、鏡の中の自分が少しずつ知らない顔になっていく。


 最後に、メガネを外してコンタクトを入れる。



「痛い」

「我慢だよ。オシャレは我慢も大事。ほら、できた」



 鏡の中にいたのは、私が知っている地味な庵野紘子じゃなかった。


 肌の色が明るく見えて、瞳の輪郭がはっきりして、髪が光を受けて揺れている。



「……これ、本当に私?」

「そうだよ。紘子は素材いいんだから。気づいてなかっただけ」



 姉はいたずらっぽく笑い、背中を軽く押す。



「せっかくだし、そのまま散歩してきなさい。街の空気に慣れるのも大事だよ」

「えっ、い、今? もう夜だよ!」

「今だよ!」



 私は戸惑いながらも、鞄を持って外に出た。


 本屋さんにしか目的地がないけど、見た目が変わっただけで、人から見られているような気がした。



 慣れない街の視線が怖かった。



 誰も私を見ていないはずなのに、鏡の中の知らない自分を思い出す。



 胸がざわざわした。これなら無形くんも私を見てくれるかな?



 人通りの多い駅前から少し外れると、後ろから声をかけられた。



「お嬢さん、ちょっといいかな」

「君、可愛いね!」



 振り向くと、背の高い男性が二人。


 怖い。

 


「すみません、急いでいるので」

「通行止め!」

「俺たちと遊ぼうよ」

「やめてください」

「いいから来いよ」



 強引に腕を掴まれて、狭い路地へ引き込まれそうになる。



「やめてください!」



 声が裏返る。必死に振り払おうとしても、怖くて全然力が入らない。

 

 鼓動が喉まで上がって、息が詰まりそうになる。


 そのとき。



「お兄さん達、嫌がってるみたいだから、その辺で」



 低い声と一緒に、男性の手首が掴まれる。

 


 そこにいたのは制服姿の無形空くんだった。



「なっ……なんだこいつ!」

「やめろ! 痛っ!」



 男の呻き声が路地に響く。無形くんは表情を変えず、ただ静かに手を捻り上げる。


 

 その姿がカッコよくて、見惚れてしまう。


 私の腕は解放され、呼吸が止まる。



 その後のことはあまり覚えてない。


 無形くんが手を引いてくれて、大通りに出た。



 家に帰ってきて、玄関のドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けそうになった。


 心臓がまだ速くて、靴を脱ぐ手が震える。



「……ただいま」



 声が小さく掠れた。お姉ちゃんが玄関まで来てくれて、私の顔を見るなり、すぐに表情を変える。



「紘子? 顔、真っ青じゃない。どうしたの?」

「……あのね、さっき……怖いことがあったの」



 私は小さな声で切り出した。お姉ちゃんに抱きしめられる。



「駅の近くで……男の人が二人、声をかけてきて。可愛いねとか言って、腕を掴まれて……路地に連れていかれそうになって」



 思い出すだけで、喉が詰まって呼吸が浅くなる。お姉ちゃんが私の手をぎゅっと握ってくれる。



「なにそれ……! ごめんね私が、こんな時間に外に行けなんていうから」

「ううん。お姉ちゃんは悪くないよ」

「それよりも最悪じゃん! 大丈夫だったの!?」

「……うん。助けてくれた人がいて」



 胸の奥がまた熱くなる。あの瞬間を思い出すと、恐怖と一緒に別の感情がせり上がってくる。



「誰? どんな人?」

「……同じ学校の人。無形空くん。制服のままで、私の腕を掴んでいた男の人の手を……すごい力で止めてくれて」



 口にすると、胸がまたざわざわした。怖いよりも、かっこよかったという言葉が先に浮かんでしまう。



「ふぅん……その顔。怖かっただけじゃなさそうね」



 お姉ちゃんがにやっと笑って、私の瞳を覗き込む。



「ち、違うよ!」

「でも、助けてくれたんでしょ? 大事じゃん。紘子の人生にとって」



 お姉ちゃんの言葉に、反論できなかった。


 私が外に出ることも珍しいのに、その先で出会った出来事。偶然かもしれないけれど……。



「なるほど、紘子はその男の子のために変わりたいんだね。……また会ったら、ちゃんとお礼言わなきゃね」

「……うん」



 私は頷きながら、自分の胸が高鳴っているのを抑えられなかった。

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